三章 流星(2)

 神社に帰り、犬を抱えて事情を説明したひよりに、睡蓮は呆れ顔になった。


「貴方という人は……どうしてこう、厄介事を持ち込むのですか」

「困ったときはお互い様です」

「その犬が、我らが困っているときになにか手助けしてくれるとは思えませんがね」


 そうだとしても、あんな状態の犬を放っておくことなどできなかった。


「まったく……回復したらもとの山に帰すのですよ」

「は、はい」

「なぜ残念そうにしているのですか。光った時点で普通の犬ではなく、妖怪の類でしょう。そんな犬を神社に置いておけるとでも?」

「そうですね……」


 厳しいことを言われたものの、いますぐもとの場所に戻して来いとは言われなかった。


 犬を屋敷の一室に運んで横たえた。後ろ足が一本、血が滲んで腫れていた。足を引きずっているような歩き方だったのはこの怪我が原因のようだ。


 水を含ませた布で傷口の汚れを落とし、添木を当てて割いた布を巻きつけた。他にもあちこち血が滲んでいて処置をしたが、足ほど重い怪我ではないだろう。


「怪我の手当てはこれでいいとして、足を怪我しただけで気絶するでしょうか」

「他の獣に襲われて弱っていたのか、あるいは――星が落ちた場所にいて巻き込まれたか」


 土砂とともに山の上部から落ちてきたのなら、気を失うほど消耗していてもおかしくはないが。


「それにしては怪我が軽傷な気がしますけど」


 それともひよりが知らないだけで、妖怪はこの程度では死なないのだろうか。砂埃がついた犬の身体を拭きながら、不思議に思った。


 妖怪や獣に効くかはわからないが、と前置きして、常葉は薬を取りに行った。それから少しして、入れ違いになるように睡蓮が部屋に入って来た。


「常葉様は」

「薬を取りに行きました」

「そうですか。では」


 犬に視線すらやらずに、睡蓮は立ち去ろうとする。姿が見えなくなる前に、ひよりは声をかけた。


「睡蓮さん、もしかして犬は苦手ですか?」

「獣にはいい思い出がありませんね」


 神域の神社にも、猫や狸が入り込んで来たことがあったのだろうか。




 用事を済ませたひよりが犬の様子を見に行くと、足音に反応したのか、犬は目を覚ました。


「よかった。大丈夫ですか?」


 くーん、とか細い鳴き声が上がった。知らない人間を警戒しているのか、耳がぴくぴくと動く。触りたい気持ちを押し殺して、ひよりは立ち上がった。


「起きたならなにか食べさせたほうがいいですよね。そうだ、朝の残りの汁物が」

「犬に葱が入った汁物を食べさせるとか、止めを刺すつもりですか」


 部屋の前を通りかかった睡蓮が、辛辣にそう口にした。


「す、すみません。犬を飼ったことがなくて」

「もっとも、この犬が通常の犬と同じような身体の構造かはわかりませんが」

「それでもなにか、犬について知っていることがあったら教えて欲しいです」

「別にそこまで詳しくありませんよ」


 素っ気ない物言いながらも、睡蓮はひよりと一緒に台所まで来て、芋や雑穀を用意してくれた。


 犬の前に皿を置くと、犬はふんふんとにおいをかぎ、一口食べてからは一気に食べだした。食欲はあるようで、ひよりはほっと一息ついた。


「あれ、でもこの子が妖怪だったら、食べ物を食べても回復することはないんじゃ……」

「なぜそう思うのですか」

「ええと……神様は食べ物が糧にならないと」


「ですからそれは常葉様の場合です。獣の姿の妖怪なら、食べ物を食べてその栄養が血肉となり、疲労を回復させるでしょう。そうでなければ人喰いの妖怪など出てこないと思いませんか?」

「言われてみたらそうですね」


 いつぞやの常葉の説明は、神や妖怪全般の話ではなく、常葉やごく一部の存在に該当する話だったらしい。一口に神や妖怪といっても特性は様々、ということだろうか。


「ええ――なにも食べずとも存在していられるのは、正直羨ましいです」

 ぽつりと口にされた言葉は、後半はよく聞き取れなかった。


「そういえば、気をつけなければならないことが一つありました。入ってはならないと伝えた蔵に、犬が入らないように注意してください」


 そう念を押してから、睡蓮は去って行った。




 五日ほど経ち、よく食べてよく寝た犬は順調に回復していった。足の怪我は完治までにまだ時間がかかりそうだが、体力はすっかり戻ったようだ。


 しかしそうなると、後ろ足をひきずって屋敷の中を駆け回りだし、戸が開いたままになっていると外へ飛び出して行くこともあった。


 さっきまで寝ていたはずの犬が部屋から姿を消し、屋敷の中にもいないので、ひよりは拝殿の近くまで捜しに来た。


「どこにいますかー、怪我が治りきってないのに駆け回ったら治りが遅くなりますよー。えっと……」


 呼びかけようとして、言葉に詰まる。あの犬には名前をつけていない。回復したらもといた場所に戻すという約束で、しばらく神社で保護しているに過ぎないのだから。


 世話をしてくれるひよりや、この神社の主である常葉のことがわかるのか、犬はひよりたちになついてくれた。


 ひよりたちが近づいて来るのがわかると耳を立て、歩いていると足元に身体をすり寄せてくる。膝の上に乗せても嫌がることなく、頭や背中を撫でると気持ちよさそうにしっぽを振った。


 うちの子ではないのだからと名前をつけずにいたのに、こうなるともう、別れ難かった。


「ひより。どうかしたか」

「神様」


 常葉と行き会い、犬のことを考えていたひよりは顔を上げた。


「犬を捜しに来ました」

「また外に出たのか。触って壊れそうなものには注意したら近づかなくなったが、外を駆け回るのはどうにもならぬようだな」

「犬の本分ですからね」

「犬の姿の妖怪だろうが、習性は似たようなものか」


 並んで拝殿へ向かいながら、他愛もない話に花を咲かせた。


「獣の世話をするのは楽しいか」

「はい。でも、怪我が治ったらお別れなんですよね。仲良くなれたのに寂しいです」

「そうか」


 拝殿が遠目に見えてきた。狛犬の奥に、同じような姿で犬が座っている。


「あ、いました……が」


 近づいて行くと、狛犬の陰になっていた部分に膝を折った者がいたことに気づいた。しゃがみ込んだ睡蓮が犬を見下ろし、頭をそっと撫でていた。犬を向かい合った睡蓮は、普段の貼りつけたような笑みとは違い、自然に目を細めていた。


 思わず足を止め、ひよりは常葉と顔を見合わせた。

 その直後、睡蓮から不本意そうな声をかけられた。


「……お二人とも、見ていたなら声をかけていただけますか」


 立ち上がってひよりたちのほうを向いた睡蓮は、頬を赤く染めていた。




 犬を抱えて屋敷に戻りながら、ひよりは犬に声をかけた。


「よかったですね、可愛がってもらえて」


 わおん、と返事をするように鳴き声が上がった。


「違います。上下関係をわからせていただけですから」

「じゃあそういうことにしておきます」

「勝手に納得しないでください。蛇が犬の面倒を見るはずがないでしょう」

「蛇……?」


「言ってなかったか。睡蓮は蛇の神使だ」

「そうだったんですか。じゃあ、獣に食べられそうになったことがあったとか……」

「……弱っていた頃に何度かありましたね」


 睡蓮は渋面になり、犬を見やった。


「しかしこの犬の大きさでは、人の姿を取っているわたくしを食べようなどとは」

「あ、この犬、倒れたときにこの大きさに縮みましたけど、もとはもっと大きかったですよ」


 睡蓮は肩を跳ねさせて、飛びのくようにして犬から距離を取った。


「やはり獣と共存するのは不可能です。早く怪我が治ることを祈っています」

「えー。でも、子犬の姿だと可愛いですよね」

「その見た目で油断させているのですよ。なんたる策士でしょう」


 それは外見の愛らしさを認めているようなものではないのか。

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