第32話 広がる




 あまり眠れずに翌朝を迎え、重い体を起こして何とか会社に向かった。今日一日を乗り越えれば、帰りに霧島くんとゆっくり話せる――それだけを励みに何とか歩いている。


 会社に足を踏み入れ自分の部署へ向かっていると、ちらちらとこちらを見てくる人たちがいることに気が付いた。霧島くんとの交際が公になってからこうやって見られることはよくあったが、なんだか今日は違った視線を浴びている感じがして首を傾げた。


「何だろう?」


 不思議に思いつつも気にせず足を進めていると、後ろから敦美の声がした。


「あ、ああっ!! 璃子!!」


「あ、敦美。おはよう」


「ちょ、ちょっと来て!」


 彼女は挨拶を返すこともせず私の手をすぐに引いて、少し歩いた先にある会議室に入り込む。まだ早朝なのでもちろん誰もいなかった。


「ど、どうしたの?」


「これ、知ってるの!? 私もさっき気づいたばっかりなんだけど」


 敦美は青い顔をして私にスマホの画面を見せた。


「……え」


 それを見て絶句する。


 私と大輔のキスシーンが写真に収められていた。昨晩の出来事だと瞬時にわかる。しかも、よくよく見れば私たちの後ろにはホテルが映り込んでいた。そのすぐ下には、『浮気女』の一言だけが書かれていた。


「……なに、これ……」


「SNSで回ってるんだよ! 昨日の夜から流されてたみたいで……完全に『霧島くんと付き合いつつ浮気してる女』ってことになってるよ! どういうことなの?」


 頭の中がぐるぐる回って何も言葉が出てこなかった。


 一体こんな写真を誰が? あの一瞬を収めるなんて、誰か仕組んでいた? 霧島くんは知ってるの? だからさっきから、視線を感じていたんだ……


「璃子! しっかりして!」


「……違うの、これは無理やりされて……」


 私は何とか声を絞り出して昨晩のことを説明した。敦美は絶句し、顔を真っ青にしている。


「なにそれ……その一瞬を撮られたってこと? こんな、ホテルの前で、勘違いされそうなシーンをわざわざ……」


「混乱で何も頭が回らない。わけわかんない、どうしよう……」


 眩暈を覚えて体をふらつかせた私を、敦美が慌てて支えてくれる。


「と、とりあえず璃子がまずすべきなのは、霧島くんにちゃんと話すことだよ! 広がり方が尋常じゃないし、写真にまで残ってるから、今下手に周りに事情を説明しても受け入れてもらえない。私は璃子を信じてるけど、面白がってる人たちはそう思わないかもしれない」


「……確かに、言い訳してるって思われて、なおさらよくないかも……」


「正直に言うけど、『たまたま男に絡まれたのをたまたま元カレが助けてくれて、たまたまホテル前に逃げました』は……私みたいにこれまでの流れを知ってないと、みんな信じられないと思う。大輔は元々、璃子と別れてないって同期には言い振り回していたし……」


 敦美の言うことは尤もだった。そんな真実より、この写真一枚の方が圧倒的にインパクトが大きいし証拠として成り立ってしまっている。


 私が大輔と浮気だなんて……。


 ぐっと涙が出てきて顔を両手で覆った。


「霧島くんが言うように、一人で帰るんじゃなかった……」


「いや、霧島くんが交際宣言までしたんだから、もう大輔は諦めたんだろうって思う気持ちもわかるよ……元々、璃子はキチンと大輔と終わりにしてるんだし、何も非はないんだから」

 

「でも、私のせいだ……」


「今終わったことを悔やんでもしょうがないよ。霧島くんにきちんと説明しな? 大丈夫、霧島くんは絶対信じてくれるから! 私もだよ」


 私の肩に手を置いて力強く言ってくれた敦美に頷いた。




 とはいえ、私は今から仕事があるのですぐに霧島くんの元へ駆けていくわけにはいかない。とりあえずラインで仕事終わりにちゃんと話したい主旨を送ると、重い足で職場へ向かった。隣に敦美がいてくれたことだけが救いだった。


 自分の席につくと、普段より視線が刺さった。みんな口には出さないものの、あの写真を見てしまって気になっているようだ。好奇心丸出して見てくる人はまだよくて、軽蔑の視線で見られるのが一番つらかった。


 でも、社会人として責任を持って仕事をしないと。そう思い、私は振り払って仕事に取り掛かる。今は目の前の仕事に集中するしかないと思った。


 今日の予定を確認しながら淡々と仕事をこなしていく。始まってしまうと、みんな自分の仕事に夢中なので視線を送ってくることもなくなるのでほっとした。こんな時だからこそ、しっかり仕事はしないと……。


「高城さん」


 声を掛けられたので顔を上げると、仏頂面の中津川さんが立っていた。


「はい」


「ここ、数字間違ってますけど」


 彼女が指さしたのは、確かに私が以前入力したところだった。私は慌てて頭を下げる。


「あ、ほんとだ……! 助かった、見つけてくれてありがとう!」


 私はお礼を言うが、彼女は返事をせず書類をやや乱暴に私のデスクの上に置く。そして去り際小さく呟いた。


「浮気してる暇があるなら仕事くらいちゃんとすればいいのに」

 

 ハッとして振り返るも、すでに立ち去ってしまった後だった。違うの、と言葉がのどまで出かかったが、今そんなことを言っても絶対に聞いてもらえないし、火に油を注ぐだけだと分かっていたので黙った。それに、ミスしたのは確かに自分だ。


……しっかりしなきゃ。


 泣きそうになったのをぐっとこらえ、返された資料の訂正に集中した。隣の敦美がハラハラした様子で見ていることに気づき、大丈夫だよ、と答えるように微笑んで見せる。


 だがすぐに、今度は薫さんが苛立った様子で私の元へやってくる。


「高城さん。昨日までってお願いしておいた資料、まだ出せないの?」


「えっ……?」


 私は目を見開いてきょとんとしてしまった。頭の中で薫さんに頼まれた仕事のことを思い出してみるが、確かそれは来週までと言われていたはずだ。


「それって来週までじゃ……」


 私が恐る恐る言うと、薫さんは目を吊り上げた。


「はあ? 昨日までよ! すぐに使わなきゃいけないんだから!」


「えっ……」


「……もしかしてわざとやってる? 嫌がらせ? 前も会議の時間、伝えたのに聞いてないなんて言って……最近私の仕事で使う物が無くなったり壊されたりするなと思ってたけど、高城さんなんじゃない?」


 一気に周りの視線が集まってくる。薫さんは俯いて声を震わせる。


「私が嫌いならそれでもいいけど……仕事はちゃんとやってよ……私、こっちに来たばかりで知り合いだっていなくて不安な中頑張ってるのに」


「ち、違います……私は嫌がらせなんてしてないです!」


「どうだか。浮気するような人だから何するかわからないよね」


 冷たい声が響き、私は目の前が真っ白になった。違う、私は何もしていない、そう心では叫ぶが、現実では全身が固まってしまい何も言えなくなってしまう。だがとどめを刺すように、中津川さんが声を上げる。


「私見てましたよ。増田さん、昨日までってちゃんとお願いしてましたー」


 見かねた敦美が勢いよく立ち上がり、薫さんたちに言い返す。


「ちょっと! 好き勝手言うのもいい加減にしてよ!」


「好き勝手してるのは誰なの? 仕事もちゃんとしないでプライベートでもみんなを騒がせて、よく何食わぬ顔して仕事してるなって感心する。厚顔無恥もいいとこ!」


「なにを……!」


 顔を真っ赤にした敦美が、さらに言い返そうとするのを咄嗟に腕を摑んで止める。私のせいで敦美まで白い目で見られてしまう、と思ったのだ。悪いのは全部私なのに。


「敦美、ありがとう。大丈夫だから」


「だって、璃子!」


 興奮する敦美を制し、私は立ち上がってゆっくり頭を下げた。


「お騒がせして申し訳ありません。でも、私は宇野さんと浮気なんてしていません。霧島くんを裏切る真似は一切していませんし、増田さんを虐めているつもりも全くないです」


 きっぱりとそう言うと、周りからほっと息を吐いたような声が聞こえる。


「そうだよね。高城さんって真面目だし優しいし、ないよね」


 誰かが言ってくれたそんな微かな声。そんなこれが耳に届き、嬉しくて顔を綻ばせたが、すぐに薫さんが嚙みついた。


「口で言うだけなら何とでも言えるよね。写真の証拠もあるし、私が頼んだ仕事をやってないとかあからさまな嫌がらせしてるのが事実なのにー?」


「違います! それは……」


「何の騒ぎですか」


 凛とした声が響き渡り、一斉にみんながそっちを向いた。出社してきた霧島くんが、いつもとは違いどこか怒りを覚えたような顔で立っていた。


「霧島くん……!」


 彼はつかつかと歩み寄り、私の前に立って薫さんを見下ろす。


「なんの騒ぎですか、と聞いています」


「え、えっと……私が昨日までって言っておいた仕事を高城さんがしてなくて。来週だと思ってた、なんて嘘をつくから、私に嫌がらせしてるんじゃないかと……それに、例のしゃ――」


「先輩はそんなことしないって、普段の仕事ぶりを見て分かりませんか? ああ、増田さんは来て間もないからわかんないのかー。先輩は真面目でコツコツタイプでお人好しってぐらいだし、嫌がらせとかする人じゃないです」


「でも!」


「じゃあ、その資料作るの手伝います。すぐにいるんじゃないですか? 時間も余裕がないはずなので急いだほうがいいですよね?」


 霧島くんの言い方には『これ以上何も言うな』という圧力があった。私は直感的に、私が浮気のことで責められているのを聞いていたんだ、と思った。


 その上で庇ってくれてる……。


 まだ彼にきちんと説明できていないのに、こんな風に振舞ってくれることが何より嬉しかった。同時に、こんなことになるなら昨晩電話をしておけばよかったと深く後悔する。だって、会って彼の顔を見ながら話したかったんだ……。


 霧島くんは無言で座り、仕事に取り掛かる。それが何かの合図のように、みんな渋々仕事に戻っていった。


 私と敦美も座り、敦美が小声で励ましてくる。


 泣きそうになるのを必死に堪え、私は歯を食いしばって前を向いた。

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