マイ・ディア!!

月浦 晶

± 人間至らず

 脆い心に触れたかった。ほんの少し、ちょっとした、どうということのない衝撃で崩れ、壊れ、戻らぬような。粗末で卑俗で取るに足らない、何にも恵まれぬ心に触れたかった。それが私の指先ひとつの気まぐれで粉々に砕ける様を馬鹿にして見下して、悦に浸りたかったのだ。


「………………」


 赤い眼が私を見つめている。


「……奇遇ですね」


 ただ真っ直ぐに私を縫いつけるそれを振り切りたくて、私は街の往来の中、無理矢理笑みを浮かべた。ついでに、一般人が旧友にでも投げかけるかのような言葉を取ってつけて。


「……、ええ。はい」


 あまり目立たぬ建物の影に立ち、それでいて酷く目を引く白い髪を靡かせたこの存在の名を、ジーアと言う。嗚呼、こんな場所で出会うなど、気まぐれに街に出たのが間違いだったか。この世で一番殺めたい相手との不意の遭遇は、路上を行き交う人間共の喧騒も遠く感じさせた。


「ミアンは共に居ないのか」


 私の最高傑作、私のミアン。腹立たしいことにジーアを神と崇め、ジーアへ付き従うようになってしまった彼女が傍に控えていないとは、随分と珍しい事だ。眼球だけで辺りを見回せど、桃色は何処にもない。


「はい。僕一人です」


 予想通りの返答に、自然と舌打ちが漏れた。何を考えているんだ? やはり気に食わない。


「君、死にたいんですか?」


 だが、まだだ。ここで彼への恨みを暴発させたとて、捕まるのがオチである。一旦外れかけた愛想の仮面をまた繕う。


「そんなことは……一応ないですけど」

「ならば何故ここに居る」

「貴方に会いに」

「は?」

「と、言ったら許されますか」

「………………」


 しかしそれもすぐに捨てざるを得なかった。なんだ、なんだそれは!

 得体の知れない言葉を話すこれを逃すことが許容出来ず、数歩近づく。深く息を吸い、追尾式の赤を持つ、不気味な人型を見下ろした。


「……そうか、結局君は自殺志願者というわけだ」

「違いますけど……」

「っ……君は、私が散々言っていることを忘れたのか!!」


 それでも、どうしようもなかった。本当にジーアは私の気持ちを逆撫でする存在だ。胸ぐらを掴めばジーアの足が少し浮き、私の引っ張る力に合わせて彼のつま先だけがたたらを踏む。


「忘れてませんよ」

「……尚更意味がわからない」

「でしょうね……あの、離してください」

「それを聞き入れる義理があるとでも?」

「ないとは思いますけど、観衆に見られて困るのは貴方では」


 仮にも人としてあるならば、苦を感じる機能も有しているだろうに。瞳の模様を一切変えぬ彼にまた、舌打ちをした。


「……逃げないのならば許可しましょう」

「はい」


 確かに他人より頭一つ分以上飛び抜けた私の背丈は人目を集める。渋々ながら、ジーアを落とした。

 地に足をつけた彼は、途端小さく咳き込む。ざまあみろ。と思うと同時に、どうせそうなるならもっと早くにその無様を曝け出せ。と不快感が増す。ここまで来ると、ジーアがどう動いたとて、一挙手一投足にケチをつけるのは当たり前だった。


「……ミアンにも、会いますか?」


 これすら、譲歩されているようで気色が悪い。こんなにも私と相容れない存在など、後にも先にもいない。いや、増やしてたまるものか。


「君は本当に憎らしい」

「それは……まあ、すみません」

「ミアンの名を出さずとも、君がどこそこへ行くならば監視するに決まっている」

「はあ……」

「……死にたくなければさっさと歩け」

「……そうですね。わかりました」


 ジーアが日陰の中を歩き出す。赤い眼が漸く私を見なくなったことに、悔しくも安堵を覚えた。


 決して地下には足を踏み入れず、しかし敢えて人通りの少ない薄暗い道をジーアは進む。これは彼の外見と関係しているのだろうが、少なくとも私にとっては好都合だ。


 あくまでも手を伸ばせば捕まえられる距離を保ち歩く彼はきっと、殺すことなど容易い。何せジーアは急に走り出すだとか、大声をあげるだとか、そんなことを一切行わないのだから。

 それどころかこうして、何度も命を狙った私に対して無防備に背中を晒す。危機感が欠如しているとしか思えず、嘲笑がこぼれた。


 嗚呼、蹴り飛ばしてやりたい。だが、地に膝をつき、手を擦りむいたとしても。君は私を見上げるのだろう。淡々と、悠々と。


「君、何故私に会いに来たんです」


 気づけば余計な質問をしていた。冷静でいたいならば、こんなことを尋ねるなど愚行でしかない。なのに。


「……貴方は、変だから。でしょうか」

「はあ? 同情などやめろ」

「違います。僕から見た、単なる事実です。それに、ミアンもイルも、おかしいところは有ります。僕だって"変な子"ですから」

「……。ミアンはともかく、イル。あれと一緒くたにされたくはないんですが?」


 嗚呼やはりおかしい。波が安定しない。これだから君は嫌なのだ。咄嗟に数歩先で揺れる長い三つ編みを掴んだ。これが藁にも縋るというやつか、それとも単なる八つ当たりなのか、それすら私には定かでない。


「っ……、だからって髪を引かずとも……。ただ、僕は貴方と僕達には、あまり違いがないのかもしれないと。思っただけですよ」

「………………」


 ジーアがこちらへ振り向いた。彼の口から溢れ出た世迷言を、一蹴出来たら良かった。二の句が告げない。私の歩みが勝手に止まる。

 もう駄目だと悟るのは、一度目の……ジーアが神となったのを目の当たりにした時より、遥かに早かった。


 脆い心は私だった。とっくの昔に破損して、もう二度と元の形にはならないそれを、愚かな過去の私が掻き集め拾い上げ無理矢理纏めてひとかたまりにした。そしてそんな心とも呼べない紛い物の粗大ゴミに暗幕をかけて、スポットライト越しの影法師で誤魔化して。また崩壊しかける度に固く硬く縛り付けることで、グチャグチャのまま体裁だけを保っていた。


 脆い心に触れたかった。自分と同じ、もしくは似た痛みや苦しみを経験したであろうそれ。そのくせ自分と違ってまだ壊れ切っていない、妬ましく憎らしく感じるそれ。それを、私の手で堕として、踏みつけて、嗚呼やはり同類じゃないかと安心したかった。


「ジーア」

「はい、なんですか」

「いつか。いつか、君を殺そう。絶対に」

「……この流れで殺害予告、ですか?」


 赤い眼が私を見つめている。


 私と向き直ったジーアの、本当に殺せるのかと私の覚悟を疑うような、もしくはどうでもいいことを聞いた時のような、はたまた死の宣告すら受け入れるかのようなその問いかけは、真意がどれであれ、忌々しい。


 嗚呼、嗚呼。殺してみせる。殺してみせようとも。嫉妬と憎悪と羨望と信仰と、認めたくないその全てを持ってして君を殺そう。

 これは最早改心するなど不可能な、妄執の念。


 君だけは、私の手で。惨たらしく、残酷に。


 しかし、本当は何処かで理解してもいる。私は幾度もジーアの死に目を夢想した。その度、頭の中の君は全てが不明瞭で、笑うのか泣くのか黙って瞼を下ろすのか……そんなことすら分からなかった。


「ジーア」

「はい」

「ジーア」


 こちらのことなど素知らぬ顔でただ佇む君が気に食わない。当てつけで名前を呼ぶ。脳の裏まで染み入りそうなその音の苛立つ響きを噛み締めて、それから尚のこと噛み砕いてやりたく思った。


「……今日はよく呼びますね。貴方、僕のこと嫌いなのでは」

「はあ? 嫌いですけど?」

「………………」

「………………」


 ムカムカとした思いのまま、ジーアの声を遮るように言葉を発すれば、彼は素直に口を噤む。その顔に浮かぶのは呆れかもしれないが、まあ不満げに見えないこともない。いや、そうだ。何故ならその方が私の気分がせいせいするから。

 いっそ、このまま殴ってやろうかとも思う。その衝動に従いジーアへ手を伸ばせば、彼はゆっくりと瞬きをした。


「僕は、貴方のこと……嫌いじゃないですよ」


 その時、赤い眼に、はじめて私が映った。いや、違う。私がこの姿を、見て見ぬふりをしていただけなのだろう。赤の中囚われた私の輪郭が揺らめく。気持ち悪い。君も、私も。


「殺そうとしてくるのはやめて欲しいですけど」


 いつの間にか手の進行は止まっていた。また、勝手に。私の意思に反して。それはまるで、ジーアの願いを聞き入れるかのようで癪に障る。虫唾が走る。


「まあでも……本当に僕が死んだら、貴方はそれはそれで怒りそうですね」


 当たり前だ。反射的に思考回路が叩き出した。


 そうだ、死ぬな。ジーア。私が殺すまで。否、私に殺されようとも、死ぬなど許さない。


 これは本来、論理として破綻している。あまりにも矛盾している。だが、そんなことはどうでもいいことだった。何せ私の心はとうの昔にドロドロとした醜い塊へと変貌してしまったのだから。今更整合性を求めたところで意味は無い。


 しかも更に悪いことに、私が殺したいと願う程、君を殺してやると決意する程。歪な形で固定された、すっかり別物の心もどきが、微かに遺った灰の山を突きつけてくる。

 純然たる純粋たる感情でもって私に囁くのだ。それは夢物語に過ぎないと。


 そうかもしれない。


 物言わぬ冷たい君……生ぬるく意思持つ君の、真なる死体。それを私は永遠に想像が出来ないのだろう。


 君を看取れないなら、君に看取られたい。


 そんな中ふと湧き上がった一文に反吐が出る。馬鹿げた弱音だ。それでも、これすら嘘ではなかった。だからこそ、否定出来ないのが嫌で、嫌で、嫌で!


 気づけば私は顔を顰めていたらしい。長い袖に包まれたましろの指先が、中途半端な位置で停滞したままだった私の手のひらを押し戻そうとする。咄嗟に腕を掴んだ。布地越しに捉えたジーアの手首、これも折ってしまえたら。じわりと伝わる大したことない感覚のせいで、手のひらがひどく熱かった。


「……どうかしましたか」

「君のせいだ」

「はあ」

「早く死んでくれ。いや、死ぬな」

「どっちですか」

「私が殺す」

「はあ……」


 ジーアは離せとは言わない。ジーアは痛みを訴えることもない。どれだけ握る力を強めても。ジーアは謝れとは言わない。ジーアは私を怖がることもない。どれだけ罵詈雑言をぶつけても。


「……とりあえず、歩きませんか」

「何故」

「ミアンが待っているので……」

「……仕方ないですね」


 ガラクタになりたい。今度こそ、もう一度……私が抱く君への殺意と同じくらいの何かで、君が完璧に私を創り替えてくれたなら。どうしようもないくらいの不良品へと、完膚なきまでに変貌させてくれたなら。その時ばかりは君を受け入れられる気がした。


 嗚呼しかし、やはり私は知っている。須らく、叶わないから夢なのだ。

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