武藤みどりの旅人 母恋し
青 劉一郎 (あい ころいちろう)
第1話
武藤みどりは上田城の堀を眺めていた。今日は一人で来ていた。いつもは祖父の武藤条太郎がみどりに付き添っていた。最も条太郎が付き添ってそわなくても、武藤みどりは今のどうにもならない輩にやられるようなことはない。やんちゃな若者であっても、手の付けられない暴力団であっても・・・である。それでも、一人で外出させるのは十歳の娘だから心配なのである。だから゜、外出する時には必ず、
「分かっていると思うけど、油断をするな。分からん奴には片足を切ってしまえ・・・・」
と、送り出すのである。だが、今日は、その条太郎に急な用事ができたのである。それに、いつも一緒に外出する友達も珍しん張る風邪をひいてしまい、三十八度の熱を出し、一人でベッドに寝ているしかった。だから、今日はみどり一人であった。彼女はいつものように上田城に向かった。この日のみどりの一日の始まのは、上田の城を見ることであった。ここに立つと心が落ち着くのである。今日は桜が満開であった。
桜並木は人で歩みを進めるのに困難を極めた。もちろん地元の人も多いが、この時期観光客も押し寄せて来ていた。みどりは知っている人がいないかきょろきょろと見回したが、そんな人はいなかった。
「まあ、いいか・・・」
みどりは独り言を言い、自然と口元に笑みがうかんだ。毎年機会あるごとに、みどりは何度でも春のこと時期と秋には訪れることにしていた。
そんな中、何やら言い合いをしている親子連れに眼を奪われ、足を止めた。よく見ると、四十半ばの女性が二人の子供を連れて、上田城の桜並木を歩いていた。少し離れて、やはり四十くらいの男性が優しいくらいの笑みを浮かべている。女の方は峯といい、六才である。もう一人は夕也といい、十歳になっていた。
「みね・・・」
姉夕也は妹の手を引っ張って、こっちに来い、という素振りを見せる。どうやら母から妹を引き離したいようだ。理由はよくわかななかった。
「いや、いやよ、お姉ちゃん。おかあさまと手をつないでいるって・・・」
妹は母の手を放そうとしない。桜並木の桜の見ごろはもう終わりかけていた。まだまだ人出は多く、歩きづらいくらいごった返している。それでも、桜の心地よい匂いが並木道一帯に多くの人で満ち溢れていた。人出はまだ多かった。
季節はまだ春たけなわであり、上田の風はすっと人と人との間を通り抜け、気持ち良かった。
「止めなさい、夕也」
母の郁子は姉の夕也を睨み付けた。郁子は峰の肩を持っているのではない。普段から、この子は眼を放すと何処かに行ってしまうことがあった。その度に、近所を探し回ったことがあった。一番最悪だったのは夕方から見えなくなり、明朝まで見つからなかったこともあった。何処にいたかというと、知らない小父さんの後を付いて行ったらしい。ただ気になったからだという。それだけの理由からなのである。何でも好奇心が大せいなのはいいが、郁子は肝を冷やした。そんなことだから、郁子は峯以上に手を強く握っていたのだ。
こんなことがあった。ほんの二週間ほど前のことである。夕也の友達がその日いなくなったことがあった。佐久間雪菜といい、七歳だった。遅生まれで、峯とは一つ違いということもあり、雪菜と気が合った。雪菜は峰ほど幼くないが、気性のしっかりした女の子であった。その性格は誰しも認める所であった。
峯とは気が合い、同学年の夕也より一つ違いの雪菜とよく一緒に遊んだりしていた。
二週間前のその日は肌寒く、上田の町は冬に戻ったようで、冷たい風が凍えるほどではないが思わず、寒い、と口にしてしまう日であった。
その日、多田峯は家に一人で人を待っていたのである。この時、誰かが来た。
「一緒に遊ぼう」
佐久間雪菜と約束していた。母の郁子は厳しい人で、峯は塾通いを強いられていた。これは郁子が育った武藤の家の教育とは全く違う方針であった。古い仕来りの家系に対する郁子の反発であった。
峯は立ち上がり、やって来て雪菜と一緒に家から飛び出した。もちろん、こんな約束が無かったら、峯は塾に行っていたことになる。
さて、ここから先が、何がどうなったか分からない。今度の場合、峯は何事もなく自宅に帰って来た。ところが、雪菜は自宅に帰って来なかった。
いや、雪菜は明朝朝早く家の玄関に一人で立っていた。最初に気付いたのは、父親の喜一郎で、彼は朝新聞を取りに顔を出すのである。それからが大騒ぎで、まず何をしたらいいのか戸惑い、あたふたとしたが、まず家の中に向かって、
「おい、たいへんだ!」
と奇声を発したのだった。もちろん飛び出して来たのは母の菊枝であった。こんな時、女は男以上に冷静で、
「あなた、警察よ、警察にしらせて・・・」
と喜一郎を促したのであった。
その日から四五日たったが、雪菜に何があったのか判然としない。全く覚えていないのである。ただ、雪枝の服はひどくはないがしっとりと濡れていたのである。その佐久間雪菜の家は五百メートルほど東に行ったところに峯の家があった。
多田の家は小泉下ノ城の麓にあった。その途中にあるのが、小泉氏館跡である。もっとも広い庭から見上げれば樹林ばかりで城は見えない。城といっても石垣だけが残っているだけであった。
「ここですの?」
八年くらいまえのことてある。
「ここ・・・?」
郁子はそれ以上の返事をしない。広い庭は整備はされておらず、木々や石ころが散らばり鬱蒼としていた。
巣寂れた家であったが、敷地は広く、背後には小高い丘のような山があり、静寂としていて、ひっそりとしていた。その山の中に小泉城跡があった。初めて訪れた郁子はこう言っただけで夫である雄一を見つめただけで、それ以上一言も付け加えなかった。彼女に不満があるわけではなかった。
「いい所ですね」
郁子はこう言い、苦笑した。彼女はその初めは別の場所に住んでいた。郁子が埋まり育った上田城近く遠くに住んでいたが、そこを嫌い、そこの場所から多田雄一とともに逃走し、多田の実家に住んだ。素直にいえば、祖父への反抗から出た行動であったし、その時郁子には生まれて数か月の女の子がいた。彼女はその子供を捨てた。
その時にはまだ雄一の母がいた。九年前のことである。その時には郁子はすでに夕也を妊娠していた。郁子は男のような性格だったが、そうかといって、浅はかな行動をする人間ではなかった。ただ、祖父への反感は・・・いや、武藤の家への激しい反感だった。
「私・・・出るよ・・・」
こういうと、郁子は家を身一つで飛び出たのであった。
祖父の武藤条太郎は一言も言わなかった。こうなることは分かっていたのである。だれと・・・この時には多田雄一は武藤の家に何度も来ていた。条太郎は多田雄一に対して口数が多くなかった。
条太郎の妻であるねやは五年前に死んでいたのだが、元々若い時から身体が弱く生んだのは女の子が一人で、それが郁子だった。避けらない宿命のようなものであった。
条太郎はそのことでねやを攻めることは無かった。そして、何よりも残念だったのは、条太郎のその子の郁子が生んだのも女であった。だが、孫のみどりもそうだが、子の郁子も武藤の家に相応しい人柄、才能を有していたのである。
《男・・・》
であったら・・・と、条太郎は悔やんだ。だが、それは悔やんでもどうしようもないことであった。
ところで、郁子は祖父である条太郎が雄一を嫌っているのをよく感じていた。条太郎は人嫌いではなかった。分かり易く言えば、ただ雄一とも郁子とも相性が合わなかっただけのことである。そして、由緒ある武藤家の末裔としてとても誇りうる存在ではなかったのである。条太郎の妻ねやは雄一の存在を知らないで死んだ。それはそれで、条太郎は満足していた。
郁子は家を出ていった。
条太郎は無言で娘を見送った。
その時、祖父条太郎の腕に中にはまだ六か月に満たないみどりが抱かれていたのである。
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