猫と社畜は癒されたい

わたなべよしみ

第1話 七瀬紗月(ななせ さつき)

冷たい風がビルの谷間を吹き抜ける冬の朝。七瀬紗月(ななせ さつき)は、いつも通りの満員電車に揺られて職場へ向かっていた。窓ガラスに映る自分の顔は、疲れのせいか少しやつれて見える。27歳。銀行の窓口業務で日々追われる毎日。学生時代に抱いていた理想とはほど遠い現実だった。


「これが大人になるってことか…」

七瀬は誰にともなくつぶやく。朝から上司に叱られるのも、客から理不尽なクレームを受けるのも、もはや日常だ。自分はただの歯車なのだと、心のどこかで諦めていた。


七瀬の心の支えは、家で待っている三匹の猫たちだ。

仕事から疲れて帰ると、玄関を開けた瞬間、彼らが勢いよく駆け寄ってくる。


「ただいま、フド、カマ、ツン。」

その声に答えるように、まず食いしん坊のフドが彼女の足元で「ニャー」と鳴き、キッチンへ走っていく。彼の狙いはいつものおやつだ。次にカマが、七瀬の足にスリスリと身体をこすりつけながら甘えた声をあげる。そしてツンは少し離れたところから、そっぽを向いているようで、実はしっぽをピンと立てて七瀬を迎えていた。


七瀬が仕事の疲れでぐったりしている日も、彼らは変わらず彼女を癒してくれる。

ソファに倒れ込むように座ると、カマがひょいと膝の上に飛び乗ってくる。柔らかな毛並みと温かい体温が心地よい。フドはいつの間にかキッチンの前でスタンバイしており、目をキラキラさせておやつを待っている。一方でツンは、遠くの窓際に座りながら、七瀬をちらりと見るだけだ。


「なんでそんなに素っ気ないのよ…でも、ありがとうね。」

ツンの気まぐれな態度に苦笑しつつ、七瀬は少しだけ心が軽くなるのを感じていた。


紗月はカップに注いだ温かいハーブティーを一口飲み、ソファに体を沈めた。柔らかいライトに照らされた部屋には、静かな音楽と三匹の猫の気配が満ちている。


「フド、またキッチンでおやつ待ってるの?」

キッチンの前で座り込む茶トラ模様のフドに目をやり、紗月は苦笑いした。

「ほんと、食べることしか考えてないんだから。でも、あんたが楽しそうに食べてると、私もなんか元気出るんだよね。」

冷蔵庫を開ける音が聞こえたわけでもないのに、期待に満ちた瞳でこちらを見つめるフド。そのぽっちゃりとした体型が、妙に愛おしい。


「カマ、そんなにくっつかなくてもいいのに。」

紗月の膝の上では、真っ黒な毛並みのカマが甘えるように喉を鳴らしている。

「もう、どれだけ甘えん坊なのよ。ずっとついて回って、私がどこに行くかまで気にしてさ。でも、あんたのおかげで家に帰るのが楽しみになるんだから、不思議なもんだよね。」

そっとカマの頭を撫でると、彼は満足そうに目を細めた。


「ツン、そこから動かないの?」

窓際のキャットタワーにいる灰色の毛並みのツンは、ちらりと紗月を一瞥しただけで、すぐに視線を窓の外に戻した。

「ほんとに素っ気ないんだから。でも、あんたが一番気を使ってくれてるの、分かってるよ。」

紗月は小さく笑う。ツンはクールで距離を取るように見えるが、彼女が泣いているときや疲れ果てて動けなくなったとき、いつもそっと寄り添ってくれるのだ。


「こんな毎日でも、あんたたちがいてくれるだけで救われるよ。」

紗月は三匹に向けてぽつりとつぶやいた。フドはキッチンで尻尾を振り、カマは膝の上で眠り始め、ツンは窓越しの景色を見ながら静かに耳を動かす。


仕事でどれだけ疲れても、帰ってきたこの空間だけは温かい。紗月は三匹の猫たちに感謝しながら、明日も頑張れる気がしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る