婆ちゃん幽霊
嶋田覚蔵
第1話 夢枕
「タツヤが握ってくれたお鮨は、ホント美味しいね。やっぱり銀座で修業した人は違うよね」
不思議なことに10年前に亡くなった婆ちゃんが今朝、夢枕に立ってそう言った。
今までこんなことは経験したことがなかった。なぜ今頃になって、俺はこんな夢を見たのだろう。何かの「虫の知らせ」なのだろうか。良いことが起きるのならいいけれど、悪いことなら嫌だな。その日は朝から、夢のことが頭にこびりついて、なかなか仕事に集中できなかった。
ウチは代々鮨屋を営んでいて、100人は座れる座敷があるのが自慢だ。
実はこれだけ大きな広間がある鮨屋っていうのは意外と少なくて、バスツアーを企画している旅行会社からはとても有難がられる。
ウチとしても、毎日50人から100人、必ずお客が入ってくれるというのは嬉しい話で、そこそこ儲けさせてもらっている。ただそれだけまとまった数の鮨を用意するのは、なかなか大変な話で、一番苦労させられるのが、全部同じ見た目にしないといけないということだ。まぁ魚がとれている時はいいんだけど、台風が来たりして何日も漁ができない時なんかは、ホント苦労させられる。せっかく房総に来てくれたんだから、地元でとれた新鮮な魚を食べて欲しいのだけど、なかなかそうもいかなくなっちゃう。それに例えば100人分の鮨を用意しようとする。ウチは一人前10貫プラス巻き物だから、1000貫握らなくちゃいけない。とてもそんなことできないから、結局、海鮮丼になっちゃうわけ。もうそうなっちゃうと流れ作業で、ふつうのお弁当屋さんと何も変わらない。俺、鮨ってお客と会話しながら握る物だと思っているから、なんか違和感というか納得いかないというか、消化不良というか、不満が残っちゃうんだよね。まぁ、それでもさ、ぶっちゃけ儲けさせてもらっているんだから、文句も言えないんだけどね。
で、その日も朝からバス2台分、だいたい80人前の仕込みをしなくちゃいけなくて朝から大忙し。婆ちゃんの夢の話は気になっていたけど、忙しくってさ、仕事に集中しなくちゃいけなくて、なんかぎこちない思いをしていたんだ。
その日の昼頃、団体さんが到着したらさ、珍しく俺のところにバスガイドが走って来たんだ。何だろうと思ったら、
「目が不自由なお客様がいるので、ちょっと気にかけて欲しい」って言う。
何をどうすればいいのか俺にはよく分からなかったけれど、「分かったよ」とテキトーに答えておいた。まぁ一応フロア係でベテランの松田さんにはひと言言っておいたけど。
その女の子は彼氏かな、旦那さんかな、男の子に連れられて店に入ってきた。目が見えないというのは、ホント大変なことだね。店はそこそこ広いんだけど、さすがにお客とスタッフとで総勢100人くらいがドーッと店に押し寄せるんだから、人でごった返してグッチャグチャになるわけ。そしたら、その女の子と男の子は、入り口のあたりで立ちすくんでいるわけ。まぁそしたら松田さんが気を利かせて、開いているスぺースに案内して、座ってもらって、ほかのお客にはセルフでやってもらっているお茶も出してあげていた。
「まぁ、これで大丈夫だろう」と思っていたら松田さんが走ってきた。何だろうと思ったら、「お箸じゃ食べにくいから、スプーンを用意したい」と言う。
「あぁ、そっか」と思ったけど、ウチは鮨屋でしょ。茶碗蒸し用の小さいのならあるけれど、大きいのは用意していないわけ。大騒ぎしてスプーン1本やっと見つけたら、2本必要だと松田さんが言う。
実は彼氏の方は右腕がなくて、やっぱりお箸では食べにくそうなのだ。
また大騒ぎして、それでもスプーン2本見つけて用意することができた。
でも問題はそれだけじゃ終わらなかった。スプーンでもやっぱり食べにくいのだ。ウチはどんぶりからはみ出るくらいにネタをのせる。それが好評でお客には大評判なのだが、目が不自由だったり右腕がないお客だと、これほど食べにくいものはない。スプーンは用意したけれど、やっぱり食べにくいのは変わらない。それでどうしようかと考えた。そして俺は「カウンターに来てもらおう」と言ったんだ。
カップルがちょっとおどおどしながらやって来た。そして俺の真ん前ののカウンターに座ると女の子が、
「よろしくお願いします。あの、私、今日お鮨食べるのホント楽しみにしていて、お金も貯金して、いっぱい持ってきたから、美味しいの食べさせてください」って言った。
「面白い子だな」と思った。ひと目で女の子が気に入っちゃった俺は、精一杯ご馳走してあげようと決めた。そしたらなんだか、とても楽しい気分になってきた。
「う~ん、じゃあ何から食べようか」と聞いたけど、「よく分からないから、お任せします」と言う。
「じゃあ、サヨリ、イカ、シラウオでいこうかな」と言うと「お願いします」と返事する。俺は手早く握って鮨下駄の上にお鮨を並べる。
「へい、お待ち」
女の子がサヨリの握りを手でつかみ、「ジローちゃん、このお鮨は何のお鮨」と聞いた。
俺はまた「ハッ」としたね。そうか、目が見えないと鮨ネタが何か、見て分からないのだ。
それで「ジローちゃん」と呼ばれた男の子は、
「うーん、シラウオかな」なんてトンチンカンなことを言っている。
俺は思わず「バカやろ、それはサヨリだよ」と突っ込んでしまう。
女の子は面白そうに笑う。ジローちゃんは気まずそうに頭をポリポリと掻いた。
それから女の子が握り鮨を頬張る。食べ終わるとちょっと興奮気味に、
「あ~、びっくりした。お魚って生だと甘みがあるんですね」と言う。
聞けば、女の子は小さい頃から病気がちで、病院とか施設とかでおもに生活してきた。それでそういう所では、生のものを食べることがなくて、魚と言えば焼いたものか煮たものしか食べたことがないという。俺はずいぶん気の毒な話だと思った。子供の頃から、海の幸に囲まれて育った自分には、まるっきり想像することができない世界だ。
「お魚がしょっぱいのは、海の中にいるからだと思っていたの、私。ホントは魚の身ってこんなに甘いものなんだね」
女の子は、男の子にそう話す。
「ホント、今まで食べたことがない物ばっかりだよね。辛口のカレーとか、ぶ厚いロースかつだとか、こってりラーメン。それにオムライスもこの間初めて食べたばかりだしね」
「そうよね。最近はジローちゃんとこうやって食べ歩きすることができるからいろいろ食べるようになったけど、病院で出される主菜は、うす味のおでんとか、きんぴらごぼうとか、冷めたあげ出汁豆腐とかばっかりだったから、外食すると、お料理がなんでも美味しくて、ついつい食べ過ぎちゃう」
そう言うと、女の子は恥ずかしそうに笑った。
「だから,最近は太ってしょうがないし,お金も掛るから、週に一回・木曜日だけ、食べ歩きすることに決めているの。だから最近は木曜日のことで頭かいっぱい。待ち遠しくて仕方がないの」
「あぁ、そういえば今日は木曜日だったね。どうだい、念願のお鮨屋に始めてきた気分は」
「はい、磯の香りがして、食欲をそそられるお酢の香りとご飯の香り、それと白木のカウンターは白木の心地よい香りがして、自然に包まれているような気分になります。それと…空気がとてもキレイで、掃除か行き届いているのも感じますね」
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