第2章:幕間の記憶

 その夜、千代は不思議な夢を見た。


 古びた鏡の前に座る若い踊り子。薄紫色のドレスに身を包み、化粧を直している。まもなく本番。客席は既に、華やかな衣装に身を包んだ観客たちで埋め尽くされているはずだ。


「紫苑さん、もうすぐですよ」


 楽屋に声がかかる。


「ええ、わかっているわ」


 鏡に映る顔が、紫苑だった。しかし、どこか表情が違う。今よりもずっと生き生きとして、希望に満ちている。


 夢は場面を変えた。


 舞台の上で舞う紫苑。スポットライトを浴びて、まるで蝶のように軽やかに。観客たちは、その姿に息を呑む。特に、最前列の若い女性は、紫苑から目を離すことができない。


 その女性の姿が、どこか自分に似ている――。


 千代は目を覚ました。朝日が窓から差し込んでいる。


「夢……だったの?」


 しかし、それは単なる夢とは違う気がした。まるで、誰かの記憶を覗き見たような。


 千代は急いで身支度を整えた。今日は大学の授業がある。でも、その前に確かめたいことがあった。


「おはよう、千代」


 朝食の席で、祖母の直子が千代を出迎えた。80歳を過ぎた直子は、まだ矍鑠としていた。


「おばあちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


「なあに?」


「帝都座って、知ってる?」


 直子は箸を止めた。その表情が、わずかに曇る。


「ええ、もちろんよ。若い頃によく通った劇場だもの」


「へえ! そうなんだ」


 千代は目を輝かせた。


「確か1920年代に建てられたのよね。私が子供の頃は、まだ現役の劇場として使われていたわ」


 直子は懐かしそうに目を細めた。


「そこで、紫苑って名前の踊り子さんのこと、知ってる?」


 今度は、直子の表情が明らかに変化した。


「まあ……どうしてその名前を?」


「じゃあ、知ってるんだね?」


「ええ。伝説の踊り子さんよ。私の母、つまりあなたの曾祖母がよく話してくれたわ」


 直子は深いため息をついた。


「紫苑さんは、帝都座きっての人気者だったの。でも、ある日突然姿を消してしまった。失踪事件として、大きな話題になったそうよ」


 千代は息を呑んだ。


「失踪……?」


「ええ。舞台の本番を目前に、忽然と姿を消したの。それ以来、誰も彼女を見ていない」


 直子は続けた。


「でも、おもしろい言い伝えがあるのよ。満月の夜、劇場に行くと、紫苑さんの踊る姿が見えるという」


 千代は昨日の出来事を思い出していた。あれは幻覚だったのだろうか? でも、あまりにも鮮明すぎる。


「あのね、実は――」


 千代は昨日のことを話そうとした。でも、直子の次の言葉で、その声は途切れた。


「そういえば、紫苑さんには婚約者がいたそうよ」


「え?」


「若い女性。名前は……確か、千世(ちよ)さんとか」


 千代の背筋が凍る。


「でも、紫苑さんの失踪の後、その方も姿を消してしまったそうよ。二人して、まるで霧の中に消えるように」


 直子の声が遠くなる。千代の頭の中で、昨日見た紫苑の姿と、夢の中の光景が重なり合う。


 そして、自分の名前の由来を思い出していた。確か曾祖母の親友の名前から取ったと、母から聞いたことがある。その親友の名は――。


「千代? どうしたの?」


 直子の声で、我に返る。


「ううん、なんでもない。ごちそうさま」


 千代は急いで席を立った。今日は、できるだけ早く授業を終わらせて、あの劇場に行かなければ。

確かめたいことが、たくさんある。


 大学での授業は、ほとんど頭に入らなかった。千代の思考は、常に帝都座と紫苑のことでいっぱいだった。スケッチブックには、無意識のうちに紫苑の横顔を描いている自分がいた。


「一条さん、その絵、素敵ね」


 後ろから声をかけられて、千代は慌ててスケッチブックを閉じた。振り向くと、クラスメイトの春野(はるの)椿(つばき)が立っていた。


「あ、ありがとう……」


「でも、どこか寂しそうな女性だったわね。モデルはいるの?」


「うん、まあ……」


 千代は曖昧に答えた。紫苑のことを、どう説明すればいいのかわからない。


「あ、そうだ。春野さんって、古い建物とか歴史とか詳しいよね?」


「ええ、まあ。特に大正時代から昭和初期の建築が好きなの」


「じゃあ、帝都座のこと知ってる?」


 椿の表情が明るくなった。


「もちろん! 私の研究テーマの一つよ。アール・デコ様式の傑作として有名だもの」


「じゃあ、そこにまつわる話とかも?」


「ええ。特に最後の公演の謎は、よく知られているわ」


 千代は身を乗り出した。


「最後の公演?」


「1927年5月3日。伝説の踊り子・紫苑の最後の舞台になるはずだった夜よ。でも、開演直前に彼女が失踪して、公演は中止になったの」


 椿は続けた。


「面白いのは、その夜に他にも一人、行方不明者が出ているのよ。紫苑の婚約者だった千世という女性」


 千代は息を呑んだ。今朝、祖母から聞いた話と重なる。


「二人の関係については、いろんな噂があるわ。単なる婚約者以上の、特別な絆があったんじゃないかって」


「特別な……絆?」


「ええ。二人は相思相愛だったという説もあるの。でも当時は、そういう関係は認められなかった。だから、駆け落ちしたんじゃないかって」


 千代の胸が高鳴る。


「あ、でもこれは噂だけよ。確かな証拠があるわけじゃない」


 椿は慌てて付け加えた。


「ねえ、春野さん。その時の写真とか、残ってたりする?」


「ええ、図書館の資料室にあるわ。見てみる?」


 千代は喜んでうなずいた。


 図書館の資料室は、古い本の匂いが漂う静かな空間だった。椿は手慣れた様子で、古い新聞や雑誌のファイルを探し出す。


「これよ」


 開かれたページには、かすかに色褪せた写真が載っていた。舞台の上で踊る紫苑。まさに、夢で見た光景そのものだ。


「これは紫苑の最後のリハーサルの写真ね。そして、これが……」


 椿がもう一枚の写真を指さす。客席で紫苑を見つめる若い女性の姿。その横顔は、まぎれもなく千代自身に瓜二つだった。


「千世さん……」


 千代は思わず声を漏らした。


「どうしたの?」


「ううん、なんでもない」


 千代は急いで視線を逸らした。


「あ、もう5時! ごめん、春野さん。私、これから用事があるの」


「え? あ、うん。また今度ゆっくり話しましょう」


 千代は図書館を飛び出した。空は既に夕暮れ近く、薄暗くなり始めている。急がなければ。


 帝都座に着いた時、空は完全に暗くなっていた。しかし今日は、月明かりが建物を優しく照らしている。


「紫苑さん……」


 千代は劇場の扉を開けた。中は相変わらず薄暗い。しかし、舞台上にはぼんやりとした光が差している。そこに、紫苑の姿があった。


「来てくれたのね、千代」


 紫苑の声には、安堵の色が混じっていた。


「紫苑さん、私、いろいろ調べてきたの」


 千代は舞台に駆け寄った。


「ええ、きっとそうだと思っていたわ」


「あなたと千世さんのこと。そして、私が千世さんの名前を受け継いでいること」


 紫苑は静かにうなずいた。


「私たちは、運命で結ばれているのよ。100年の時を超えて」


「でも、どうして失踪したの? 二人して」


 紫苑の表情が曇った。


「あの夜のこと、話してあげる」


 紫苑は千代の手を取り、特別席へと導いた。月明かりが窓から差し込み、二人の姿を幻想的に照らしている。

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