共犯者の誓い

「俺たちは一心同体だからさ」


 そう言いながら、史雄はすっと立ち上がり、皐月の斜め前の席へと移動した。照明を背にして、彼女からは後光のように見える。皐月を呪いの実行者に仕立て上げるには、心を開ききった今が絶好のチャンスだ。


「……どうしたの? なんでそんなとこに座るの?」


 皐月は少し不満げに史雄を見つめた。もう少し甘えていたかったのに、夫は突然距離を取った。


「皐月……」

「なに?」


 史雄は妻の名を呼び、意図的に間を置いてから、静かに口を開く。


「この話は、誰にも話したことがない。俺だけが知ってることなんだけど……」

「……う、うん」


 史雄の真剣な口調に何事かを察したのか、皐月は真顔で身を乗り出す。その様子を確認して、彼は一枚の紙を取り出し、そっと彼女の前に差し出した。


「……なにこれ?」


 皐月は紙を手に取り、書かれた文字を読み上げた。


「漁村に衝撃──若き女性が変死……?」


 紙にプリントされていたのは、牛尾清子の死亡記事である。


「この人は……おじいちゃんの浮気相手だったんだ」


 皐月が驚いて顔を上げる。


「えっ……?」

「おばあちゃんは何度も別れてくれるよう頼みに行ったけど、まったく相手にされなかった。それどころか、逆に嘲笑されたんだ」

「そんな……おばあちゃん、可哀想……。訴えたりは……?」

「戦後直後の混乱期だったし、当時は女性の立場も今とは比べ物にならないくらい弱かったんだ。だから、誰もおばあちゃんの味方にはなってくれなかったんだよ」


 そこまで言うと、史雄はゆっくりと口元に手を当て、悲しげに目を伏せた。そして、小さく震える声で続ける。


「おばあちゃんは……誰にも頼れなかった。でも、ある方法だけが残されていたんだ」


 皐月は息をのんだ。史雄の狙い通り、彼女の心は完全に物語に引き込まれていた。


「ある方法って……?」

「呪殺…………おばあちゃんはこの人を呪い殺したんだ」

「うそ……」


 皐月は思わず驚きの声を漏らした。史雄は彼女の前に置いた新聞記事にそっと指を置き、ある一文を示す。


「ここを読んでみて」


 皐月は目を走らせる。


「被害者の喉元は炭と化すまで焼け爛れ、肺は煤で真っ黒になっていた。しかしながら、現場には火の手が上がった形跡もなく、出火原因となるものは一切見当たらなかった……」

「──そう。不審火でも放火でもない。ただ、彼女の身体だけが焼け爛れた。まるで内側から燃えたみたいにね」


 皐月の喉が、ごくりと鳴る。


「そのとき、おじいちゃんも一緒にいたんだ。普通なら、殺人の容疑者として逮捕されてもおかしくない。でも……」


 史雄は少し声を潜める。


「死に方があまりにも異様すぎた。だから、おじいちゃんに犯行は不可能だって判断されて、逮捕はされなかったんだ」


 皐月の指先が震えているのがわかる。彼女は記事から目を離せずにいた。


「ほ……本当に呪いってあるんだ……」


 今さらながら皐月はつぶやいた。自ら「光彦を呪い殺す」と言っていたくせに、呪いの存在を示唆する根拠を目の当たりにして戸惑っている。だが、少なくとも彼女の中で「呪殺」に対する解像度が上がったことだけは間違いない。


「俺はこの話を小六の時におばあちゃんに聞かされたんだ。聞いたときは半信半疑だったし、ついこの前まで忘れていたんだけど……」

「どうして思い出したの?」

「皐月が占い師に頼んでお義兄さんを呪い殺すなんて言うからさ、最初はそんな馬鹿なって思ったよ。けど、その時おばあちゃんの話が頭をよぎったんだ」

「そうなんだ……」

「俺自身も気になってきたからさ、確かめようと思ったんだ」

「そっか……グアムをキャンセルして島根に行ったのはそのためだったんだ……だったら言ってくれれば良かったのに」


 皐月は安堵した顔でソファーの背もたれに身を預けた。史雄がグアム行きを急遽取りやめた裏で、彼女なりに色々と考えていたのだろう。それが今解消された。


「中途半端な話をして皐月をガッカリさせたくなかったんだ。実際、俺も島根に行くまでほとんど信じていなかったし」

「それが今は違うんだ……」

「見つけたからね。その記事と…………」


 ────呪殺の方法を。


 それを聞いた皐月は両手で口元を覆い、目を大きく開いて史雄を見つめている。言葉こそ発しなかったが、瞳に喜びの色が広がって行くのはありありとわかった。


「それで皐月、この先の話をする前に俺の本心を聞いて欲しいんだけど、大丈夫かな?」

「う、うん、なに?」

「俺は、お義兄さんとは仕事の付き合いがほとんどで、家族としての付き合いは最低限しかなかっただろ?」

「そうだね……本当は結婚式にも呼びたくなかった……」

「だから正直言ってお義兄さんのこと、殺してやりたいなんて思うほど憎んでいないんだ」


 史雄はあえて心にもない言葉を口にした。 それは、皐月の殺意がどれほどのものかを見極める試金石であり、彼女を呪殺の実行犯に仕立て上げるための布石でもあった。


 そして──思惑通り。


 皐月の表情からは期待の色が消え、代わりに失望の陰りが落ちる。前かがみになり、肩を落とすその姿からは、彼女が深く落胆していることが手に取るようにわかった。

 ここまでくれば、あと一押しでいい。ほんの僅かな導線を示すだけで、皐月は迷わず呪殺へと足を踏み入れるだろう。史雄はわずかに唇の端を持ち上げた。


「だけど、俺は皐月やお義母さんの痛みを理解できていない。出来るだけ寄り添ってきたつもりだけど、この前の皐月の怒りっぷりを見るまでは、そこまで深刻だとは思っていなかったんだ。それを痛感したよ」

「あの時は……今まで溜まってたのが一気に出ちゃって……」

「いいんだ。俺も反省した。俺は何にもわかっていなかったって……だから、皐月がどうしてもお義兄さんを呪殺したいって言うなら、力を貸すよ」


 その言葉に皐月は史雄の顔を真っ直ぐ見つめ、小さな声で「いいの?」と言った。両方の目尻からは涙がこぼれ、頬を伝っている。


「ただ最後に……最後に言わせてくれ。それでも俺は皐月にお義兄さんを殺してほしくない。でも、どうしてもやるって言うなら、俺は喜んで共犯者になるよ。それで皐月が地獄に行くとしたら、もちろん俺も一緒に行く。俺達は夫婦だ。永遠に……」


 皐月はなにも言わず、史雄に抱きついて号泣した。だが、その肩越しに見えた史雄の顔は、優しげな夫のものではなかった。


 彼は密かに笑っていた。


 ようやく計画が動き出す。


 そう思うと、胸の奥がざわつくほどの愉悦に包まれた。皐月の感情を巧みに操り、光彦を殺す駒として完全に仕立て上げた。あとは彼女を最後の一線まで追い込むだけ。


 史雄の唇が、微かに歪んだ。

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