第9話:クレメンティアとフィデス

「クレメンティアさん!」


 春の風が、晴天の芝生の上を舞い、聖典の頁をそっと撫でていく。

 クレメンティアは、銀糸のように輝く髪を耳に掛けながら読書に集中していたが、その呼びかけに顔を上げた。

 見習い神官フィデスが、白い神官装束を翻して駆けてくる姿が見えた。

 頬が紅潮している。


「お気を付けて。転んでしまいますよ」

 クレメンティアは優しく諭すように言った。その仕草には、かつての暗黒姫騎士の面影はない。


 フィデスは深呼吸をして息を整えると、クレメンティアの隣に腰を下ろした。緑の芝生が、彼女の重みで僅かに沈む。

「クレメンティアさんのことを探していたんです」

「私のことを?」


「はい。昨日の浄化の舞踏の練習のとき、クレメンティアさんの剣舞のような動きがすっごく格好良くて……!」

 フィデスは両手を胸の前で組んで、目を輝かせた。

「もしよろしければ、お教えいただけませんか?」


「私も修行中の身です」クレメンティアは少し困ったように微笑んだ。

「でも、クレメンティアさまは、とても堂々とされていて……」

 フィデスは言いかけて、急に声を潜めた。


「あの、実は……噂では、クレメンティアさまは以前、テネブリアの」



 クレメンティアの表情が一瞬こわばる。しかし、すぐに穏やかな微笑みを取り戻した。

「はい。私はテネブリアの姫で、騎士でもありました」


 フィデスは息を呑んだ。かつて恐れられていた存在が、今こうして隣で優しく微笑んでいる。


「神カリタスの慈愛により、私は救われました」

 クレメンティアは背中に刻まれた聖印に手を当てた。

「今は、その恵みに感謝する日々です」


「素敵です」フィデスは思わず声を上げた。

「こんなにも人を変えられる神カリタスの力も……、クレメンティアさまも」

 風が吹き、二人の白装束がなびく。クレメンティアの銀髪が陽光に輝いた。


「フィデスさん」クレメンティアは聖典を開いたまま言った。

「一緒に学びませんか?」

「はい!」

 フィデスは嬉しそうにクレメンティアの傍らに寄り添った。二人で一つの聖典を覗き込む姿は、まるで姉妹のようだった。

 聖典から立ち上る古書の香りと、周囲の花々の芳香が混ざり合う。サクラの尖塔の影は、ゆっくりと動きながら、二人の姿を優しく見守っているようだった。


(これが本当の私なのかもしれない)

 クレメンティアはそう思った。その瞬間、背中の聖印が微かに温かくなり、春の陽光のような優しさが全身に広がった。


「クレメンティアさま」フィデスが恥ずかしそうに言う。

「テネブリアでの……、その……、お話を聞かせていただけないでしょうか?」

 クレメンティアは一瞬、目を伏せた。「それは……」


「ごめんなさい!差し出がましいことを言ってしまいました!」

フィデスは慌てて謝ったが、クレメンティアは静かに首を振った。

「いいえ。ただ私自身、あの頃のことは、……もう遠い夢のようで」

 その言葉に、フィデスは少し落胆した。しかし、クレメンティアの傍らにいることは、幸せだった。


 二人は再び聖典に目を落とし、昼の鐘が鳴るまで、共に祈りの言葉を紡いでいった。

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