愛の七つの扉 『 バージンロードを目指して』

神崎 小太郎

第一話 アラサーの独白

「百合子、誕生日おめでとう!」


 あと七日で私は二十九歳を迎える。そんなとき、両親は明日から旅に出る準備をしながら、ごちそうを用意して私の誕生日を祝ってくれた。私は感謝の気持ちを込めて「ありがとう」とお礼を伝えた。


 しかし、心の中では複雑な感情が渦巻き、素直に喜べなかった。特に、誕生日を前倒しで祝うということが、まるで早く三十歳に近づくことを急かされているような気がして、心が追いつかないのだ。


 私の女性としての価値は、あとどれくらい残されているのだろうか……。二十九歳の誕生日が近づくと、その思いが脳裏をよぎる。自分に「ナンセンスだ」と言い聞かせてみても、「アラサー」と呼ばれる恐ろしいさざ波が私の心に押し寄せてくる。


 今年に限っては、これまで以上に人生を振り返るたびに悔しさがこみ上げ、猜疑心が湧き上がってくる。心の中で「百合子、泣いちゃだめ!」と自分に呼びかけながら、葛藤の日々を送っている。


 二十三歳のときに付き合ったイケメンとの恋は、私の嫉妬心と束縛の強さからはかなくも短命に終わった。二十五歳で新しい男性と出会ったが、彼の浮気でその恋も終焉を迎えた。『本気で愛していたのに、冗談じゃないよ!』と叫びたくなる。


 長い間、私は教会の鐘が鳴り響くバージンロードを感涙にむせびながら歩くことを夢見てきた。けれど、縁結びの神様は冷たく、学生時代の失恋を含めて、私は六回も負のスパイラルを繰り返し、男運に恵まれていない。それ以来、神様など信じなくなった。


 二十九歳が目の前に迫り、独身生活に対する葛藤が現実味を帯びてきた。このまま一人でずっと寂しく生きていくのかもしれない。


 私の恋は木蓮の涙のように、いつも切なく儚いものだった。そう思うと、自分らしい爽やかな笑顔が消え失せ、胸が張り裂けそうになる。


 私とは対照的に、周りの友人たちは次々と結婚し、職場を去っていく。彼女たちを祝福しながらも、心のどこかに違和感が残る。


 既婚者の友達は心配して知り合いの男性たちを紹介してくれたが、マザコンや女たらし、ギャンブル依存症の男性ばかりで、良い出会いには恵まれなかった。


 ますます不安と焦りが募り、涙とともに孤独が心を蝕んでいく。少しだけ頭が良い理系女子になんかならなければよかった。いつしか、笑顔も少なくなり、言葉に詰まることも多くなった。


 世の中では結婚なんてしたくないと言われるZ世代の女性が多いと聞くけれど、これが私の本音だ。なんと言われようと、私は子どもを生みたい。


 まもなく三十歳という数字が勝手にひとり歩きし、結婚と出産という夢を壊し、タイムリミットとして容赦なく迫ってくる。この切実な気持ちは、きっと男性たちにはわからないだろう。


 職場の上司から「野々村さんの仕事は男性顔負けで、本当に可愛らしい女性だ!」と言われ続けてきた。そんなお世辞は、ただセクハラを避けるための絵空事のように聞こえてしまう。


 言葉にはしないが、男たちは若い女の子が好きに違いない。それでも、そのおだてに乗ってしまい、気づけば独身のまま六年の歳月が過ぎていた。


 どんなに仕事を頑張っても、心から望んでいた純愛を叶える運命の人との出会いは、黄昏の空に消えてしまうような気がしていた。やはり、純愛なんてこの世には存在しない儚い夢なのだろうか……。


 私は自慢するほど美人でもなく、ましてや強い女性でもない。現代風の言葉で説明すれば、理系の風変わりな働き女子の一人だ。


 大学を卒業してからの六年間、仕事に没頭して新規化粧品の開発までやり遂げたのに、自信を失っていた。「縁結びの神様なんて大嫌い!」と八つ当たりしたくなる気持ちだ。私はどこで道を踏み間違えたのだろう。


 二十八歳、私の名前は野々村百合子。その奥ゆかしい名前とは裏腹に、私は強情で意見を変えず、時間が一刻も早く止まってほしいと願いながら、まだ二十八歳にしがみついているのだ。


 肌を整える化粧品の仕事をしているにもかかわらず、独身生活で彼氏がいない。肌の色つやも悪くなり、いつの間にか心まで荒んでしまった。


 そんな孤独と苦しみに苛まれていたとき、助け舟が現れた。偶然立ち寄ったフリーマーケットで目に飛び込んできた一冊の不思議な詩集。「七つの愛の扉」というバージンロードを目指すタイトルが私の心を捉えた。キャッチフレーズには、心に染み渡る言葉がフランス語で書かれていた。


 Les larmes d’amour qu’une femme verse ne sont qu’une occasion d’ouvrir les sept portes de l’amour.――女性が浮かべる恋の涙は、七つの愛の扉を開けるためのきっかけにすぎない。キャッチフレーズには、その日本語訳も添えられていた。


 詩集の表紙には、学生時代の卒業旅行で訪れた『郡上本染、鯉のぼり寒ざらし』の光景が描かれている。それは郡上八幡の凍える清流の中で見られる冬の風物詩だ。


 本来なら子供たちの夢を乗せて青空に揺らめくはずの鯉のぼりが、今は私の青春の穢れを祓う如く小駄良川にさらされ、その布に染みついた糊を静かに落としているのだった。


 夢や希望に満ちあふれた青春真っ只中の卒業旅行には、私の遅い初恋相手である祐介さんも同行していた。あの頃の私は、純愛をプラトニックラブと勘違いしていたのかもしれない。その結果、縁結びの神様に見放され、私たちは社会人になってから離れ離れになってしまった。


 今ごろ、祐介さんは旅行会社に就職し、全国をエネルギッシュに飛び回っているのだろう。けれど、その姿は私の遥か彼方を飛び去り、見えなくなっている。



 裏表紙をめくると、著者が私の思い出の詰まった郡上八幡の出身であることが書かれていた。フランス文学に精通した詩人、綾瀬みすずさんと紹介されていた。この思いがけない出会いに、私は彼女との不思議な縁を感じた。


 突然、詩人の言葉が心に突き刺さり、それまで闇に覆われていた私の日常に温もりと安らぎがもたらされた。特に『七つの愛の扉』という表現に心を奪われた。それはまるで新たな元気と自信が吹き込まれ、私は見えない不思議な糸によって誰かと結ばれているかのように感じた。


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