第6話 アトリと鷹1

 アトリは窓から庭を眺めている。世界はこの幾日かで、すっかり冬になっていた。

 葉を落とした骸骨のような樹々や、灰色の水彩絵の具をゆっくりと滲ませていくような空の不穏な移り変わりを眺めるのが、アトリは好きだった。


 今年は不作だったと聞く。麓の村は飢えと寒さで、またたくさんの死者が出るかもしれない。

 

 父の代までの遺産でなんとか食い繋いでいるこの城も、アトリの寿命が尽きるまで保つかどうかわからない。

 身の回りのことをすべてやってくれる使用人たちに暇を出したら、自分は一日だって生き延びられないだろう。


 村に降りても、アトリに人並みの仕事はできない。それは、仕事というものをやったことがないというだけでなく、アトリの片身が腐っているからだ。車椅子がなければ、自由に城を移動することも叶わない。


 生まれ落ちた瞬間から、アトリは出来損ないのゴミだった。


「今日あたり、あの人が来るような気がするの」


 朝の紅茶を運んできた老執事に、アトリは言った。


「下男が昨日、麓の村へ買いだしへ行きましたが、旅人がやって来たという噂は聞かなかったそうです」


 老執事はアトリの期待をやんわりと否定した。


「では、今日来るのでしょう。それなら、日暮れごろにはここに着くはず。今日の夕食は、一人分多く作ってね。鹿肉のシチューをたっぷりと、パンも多めに焼いてバターの在庫も出しておいて」


 食材の無駄遣いはしたくない。この城にはもう、余裕がない。けれど、老執事は表情ひとつ動かさずに、恭しくお辞儀をした。


 老執事はポットを高く掲げて、黄金色の紅茶をカップに注ぐ。ブルーイヤーの華やかな香りが部屋を満たした。そうして窓辺に佇むアトリを残し、そっと部屋の扉を閉める。

 

 この姫君は冬が始まると毎日、かの旅人の訪れを待つ。ああやって、枯れた庭を一心に見つめて。


 不思議なことに姫が「来る」と言うと、その数日後に本当に彼がやって来るのだ。

 彼には麓の村に着いたときに、まずこちらに一報してもらいたいのだが。そうすれば、無駄に一食分多く作らずに済むのに。


 しかしまあ、今日のところはお嬢様の言う通りにしよう。かなりの確信がおありのようだから。

 

 それにしても、あの予言めいたものをどう解釈すればいいのだろう? 

 彼女は――この家系はやはり、穢れの巫女の血を受け継いでいるのだろうか――?

 

 老執事は首を振り、思考を止める。

 台所へ行って、料理人に指示を出さなければ。それから、地下の倉庫の鍵を開ける。この家に伝わる古い宝物をひっくり返して、めぼしいものを見繕っておこう。なるべく害のなさそうな物を……。


 と言っても、もう大体そういった物は売り尽くしてしまい、残っているはこの世に出してはならない恐ろしい遺物ばかり。


 けれどやはり、あの姫のためにもう少し探してみよう。彼がなにか高く買ってくれればこの城も、あと一年は安泰に過ごせるだろう。

 

 老人は疲れを感じながら、墓所のように薄暗い廊下を歩きだす。アトリの祖父の時代から仕え続けた体は、もはや限界を迎えていた。

 いつ、彼女に暇を告げるべきか、それが最近の老執事の脳内を占める事案だった。


────────────────────

 

 旅人は夕刻、嵐の中をやって来た。執事は扉を開きながら、彼自身を暴風のように感じていた。

 自分の手で、城の中にとんでもないものを招き入れてしまったと思った。明日は多分、吹雪になる。


「それで、その女性はどうなったのかしら?」


 アトリと旅人は長い食卓の端と端に座り、燭台の火だけを頼りに向かいあっている。

 鹿肉のシチューはベテランの料理人の手で肉がほろほろに崩れるまで煮こまれ、卓の中央には焼きたてのパンがうず高く積まれていた。


 旅人は、空になった皿にスプーンを置くと答えた。


「その後のことは、誰も知りません」

「でも、村人たちはどうなったの? 彼女に皆殺しにされてしまったのでなければ、今でも子孫が残っているんじゃない? そうじゃなかったら、近隣の村に皆殺しの話が伝わっているのでは?」

「姫。私が思うに、この話はわりと最近のことです」


 揺らめく灯の向こうに、アトリの仮面のように動かない硬い皮膚が見える。

 旅人の脇にそっとメイドが立ち、皿にもう一杯シチューを注いだ。


「古い言い伝え……昔話ではないの?」

「吟遊詩人が語る物語です。ただのおとぎ話なのか、なにかが起きてそれが脚色されたものなのかもわかりません。

 しかし、ここ数ヶ月のあいだに色々な場所で聞くようになったので、お話ができたのがつい最近だというのは確かだと思いますよ」


 アトリは小さく溜め息をついた。それには、感嘆の色が滲んでいた。


「そういうこともあるね。では、この女性が剣を持って、今このあたりを彷徨っている可能性もあるのね」

「怖いですか?」


 旅人は、ちらりと揶揄うような笑みを見せる。


「そうね……。でも、会ってみたい」

「あなたも、斬り殺されてしまうかもしれないのに?」

「もしかしたら、向こうが怖がるかもしれないわ。この腐った体を見て」


 彼女の顔の右側は、長い前髪に覆われて見えない。夜の帷が降りたような重たさのある漆黒だ。


 旅人はまだほんの少女だったころから彼女を知っているが、その体は常に隙のない布でぴっちりと包まれていて、いまだ腐っているという半身を目にしたことはない。


 顔の右側だけは、一度見たことがある。が、あとから落ち着いて考えてみれば、あれはただの火傷痕だったようにも思える。


 もちろんただの火傷であっても、若い娘の肌がそのように爛れているのはおぞましいことだ。

 けれどアトリ自身は、そんな肌とは裏腹に、世間の汚れも悪意も知らぬ純粋な娘だった。

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