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「……お父さん。」
ひとりきりになった家、向かい合う人もいない食卓に座って、スマホに注いだ自分の声は、不自然に揺れていた。父に電話なんかかけるのは生まれてはじめてで、さらに言えば、父と話すのは四年前、結婚すると一方的に言い置いて以来だった。電話の向こうの父は、黙り込んでいた。それでも伝わってくるほどの困惑が、お互いの真ん中にあった。なんで今になって電話なんかかけてくる、と、父は戸惑いながら迷惑にも思っているのだろう。
「……離婚しました。東京に戻るつもりです。」
東京に戻るつもりではあったけれど、実家に戻るつもりはなかった。私が去って、定年退職もし、終に一人きりで本に埋もれる暮らしを手にした父を、今更煩わせるのも嫌だった。それでも父に電話をしたのには、理由がある。それを切り出すのに、唇が躊躇った。父も私も、言葉を発しない無言の数秒間。その間に腹を決めて、私は言葉を紡いだ。
「アサヒさんの連絡先、分かりますか。」
電話の向こうの沈黙が、ひときわ濃度を増した。父がこちらを警戒している様子がうかがえる。今更なにを言い出すのだ、と思っているのだろう。9歳だった私をアサヒさんに引き合わせたのは、確かに父だったけれど、父はここまで私がアサヒさんの影を引きずっていることには、気が付いていなかったはずだ。これまで私は、父と話なんかしなかったのだから。
「……教えてください。お願いします。」
半ば、祈るような気持だった。父に拒まれれば、私にはもう、あの人の姿を追う術は残されていない。父がアサヒさんの連絡先を知らない、という可能性は、少しも考えていなかった。銀座の喫茶店で、しかとアサヒさんを見つめていた父の眼差しを思い出す。あの、熱さえ感じられるような真摯さ。あそこまでの執着が、あっさり途切れているとは思えない。
『……連絡、しておく。あの喫茶店に、いつなら行ける。』
長い沈黙の後、吐き出された父の言葉は、重かった。本当は連絡なんかしたくないのだと如実に分かった。父は、アサヒさんを私になど会わせたくないのだ。でも、それならどうして9歳の頃、私をあのひとに引き合わせなどしたのか。
「明日。」
時間を空けると決意が鈍りそうで、私は早口になりながら言った。
「はじめの新幹線で、あの喫茶店に行きます。」
そうか、と、父が呟くように言った。私は、なにか父に言いたかった。ごめんなさい、なのか、ありがとう、なのか、それ以外のなにがしかなのか、自分でも分からないまま、震える指で通話を切った。
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