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「別れて下さい。」
父の不倫相手は、震える声を振り絞ってそう言った。
「娘さんは私が育てます。」
当の『娘さん』である私は、さやえんどうを湯がきながら、軽く首をひねってしまった。育てるとか育てないとかいうには、私は少々育ち過ぎた後のように思えた。母もそれは同じだったようで、少しだけ息を吐き出して、笑った。
「娘がいくつかご存じ? 14ですよ。」
あなたがいくつだか存じ上げないけれど、夫より娘とのほうが年が近いんじゃないですか。
母がそう言うと、電話越しの女性の声は、鬼の首でも取ったみたいなトーンに変わった。
「誰に対してでも、あなたには、全然愛情なんてものはないのね。」
そうかもしれませんね、と、母は半分呆れたみたいに答えた。私は、父の女の趣味の悪さに辟易した。そしてアサヒさんの白いきれいな顔を思い浮かべ、気持ちを穏やかに保とうとした。いつも、心に波が立ちそうなとき、私はそうやって気持ちを抑えてきた。
「今晩、夫が帰ってきたら話し合います。その結果をあなたにお知らせすればよろしいですか?」
呆れたままの声で母が言い、女はまた、母の冷静さを罵った。母はその罵り言葉を最後まで聞き終えると、では失礼いたします、と電話を切った。窓の外はすっかり日が暮れて、父が帰ってくるまではもう一時間もない。父の不倫相手は、一年ほど関係をもっていると言っていたけれど、この一年で、帰りが遅くなったり、休日に出かけて行ったり、という変化は父になかった。あれで案外、要領はいいのかもしれない、と、私はぼんやり思った。
受話器を置いた母は、それ以上電話のことには触れなかった。毎日しているように私に料理の指示をだし、食卓を整えさせた。食卓の準備が整ったタイミングで、計ったように玄関のインターフォンが鳴る。父だ。いつもなら、母が玄関を開けるのだけれど、母は私をちらりと見て、開けてきて、と言った。私は黙って頷き、玄関のドアを開けた。父は、いつもと変わらぬ素振りでドアをくぐり、靴を脱ぎ、私に鞄を預けた。
なんで、アサヒさんじゃないの?
私は父にこっそり、そう囁いてみたかった。囁かれた父がどんなに動転するか、分かっていたからだ。でも、やっぱり私は、なにも言わなかった。なんで、アサヒさんじゃないのか。そんなこと、父が一番疑問に思っているはずだ。
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