第46話「夢幻」
夢を見ていた。
樹木の隙間よりこぼれる、柔らかな木漏れ日。
耳に心地よい、涼やかな渓流の調べ。
穏やかな空気に混じり合う新緑の香り。
鉱樹にほど近い、
周囲に広がる光景は、あまりにも鮮やかで美しく。
それ故に一目見て、夢だと理解出来てしまったのが悲しかった。
「はんも! はんも!」
そして、焚火を挟んで目の前に居るのは、恐ろしい勢いで手にした川魚に喰らいつく、
「はんも! はんも!」
「…………」
幻想が、死ぬ。
人は自分の記憶を都合よく美化する生き物だとは言ったものだが、自分がこれまで、どれほど都合の良い幻を見て来た事か、今更ながらに思い知らされる。
こんなにも美しい幻夢の中で、彼女の浅ましさだけは、かつてと何一つ変わっていないのが悲しかった。
「んん? なんじゃそのしけたツラは?
喰わんのなら寄越せ」
「意地汚い事を言うなッ!」
初恋の小鬼を叱り飛ばしながら、ノヅチもまた、手にした魚に齧り付いた。
あの日は炭と白身の味しかしなかったが、今日は何の味もしなかった。
ここで夢が醒めなかった事に安堵しつつ、改めて白銀の少女と向かい合う。
「お前、もう死んだぞ」
「な、なんじゃとぉ!?
違うわー! 死んではおーらーぬーっ!
命の在り方が変わるだけだと、そなたにはちゃんと伝えたハズじゃあ!
頭の中に綿でも詰まっておるのではないのか!」
バタバタと両足をばたつかせて抗議するチャクアの姿に、思わず苦笑が漏れる。
夢でも、幻でも、面倒くさい小鬼でも、やはり自分はこの女の子の事が好きなのだと実感する。
「だいたいのう、そなたは
言葉というのは一旦形にしてしまうと、当人たちの思う以上に強い力を持つ、と。
そなたには再三に渡り忠告しておいたハズじゃぞ?」
「まあ、そういじめてくれるなよ」
咎め立てるようなチャクアに視線に、ノヅチは思わず頭を掻いた。
デザイアの件を責められているのだと直感的に理解できた。
二年前、ノヅチは魔王の館にて「次の勇者の剣を打つ」と豪語した。
あの放言がいつしか、ノヅチ自身も知らぬ力を得て、巡り巡って、次代の勇者を志す少女が目の前に現れたのだ。
今のノヅチの置かれた立場は、お前自身の蒔いた種だと、チャクアはそう言いたいのだろう。
「ったく、そなたはいつも、そう言った事に鈍感じゃからのう。
その分では、妾が今日までそなたの為に、陰ながらどれほど骨を折って来たかも、理解出来てはおらんじゃろうなあ?」
「……そんな事は、無い」
なおも呆れた様子のチャクアに対し、ノヅチは少し真剣な口調で返した。
「見えなくても、声が聞こえなくても。
お前が身近に居る事は、心の奥底でちゃんと感じていたさ」
「……
「そう思えなきゃ、なんで今日まで生きて来れる?」
「そうか、うむ、そうかそうか。
ならば良い、許す」
ノヅチの返答を受け、すぐにチャクアは上機嫌となり、腰元の竹筒を引き抜いた。
美味そうに火酒を嗜む姿を見つめながら、意を決し、ノヅチは再び口を開いた。
「……俺の事は、もう、本当にどうだっていいんだ」
「なんじゃ? 藪から棒に。
辛気臭い顔をしおってからに」
「お前の時と同じだよ、チャクア。
運命だのというワケの分からんものの為に、命を捧げようとしている少女が居る。
俺にはそれが、どうしたって許せねえ」
「…………」
「デザイアの力になってやってくれねえか?
情けない話だが、俺にはもう、他に何の手立ても浮かばねえんだ」
「……運命という言葉が、そんなに嫌いかね、そなたは?」
「運命なんぞ、クソだ」
焚火越しに放られた竹筒を片手で受け止め、一息に呷る。
強いのが欲しい気分だったが、案の定、何の味もしなかった。
親父殿の時は、単に選択を誤った。
あの日、錯乱した亡父を無理にでも連れ出し、共に皇都を離れていれば、その後の悲劇は回避できていた筈なのだ。
チャクアの時は、自分が最低だっただけだ。
たとえ分かれ道の先が行き止まりだったとしても、その選択を彼女に示す事が出来なかった。
レインの時は、全てが終わった後だった。
それでも、本当は何か、自分にも出来る事が残っていたのでは、と考えずにはいられない。
少年の時は、どうだったであろうか……?
運命という言葉は、諦観と同義だ。
救えなかった命を、償いようのない罪を。
人の身を超えた御大層な嘘に委ねてやり過ごすのだ。
先の勇者は、自らの命と引き換えにして世界を救ったという。
ノヅチはもうこれ以上、デザイアの運命を見過ごしたく無かった。
「――じゃが、妾にとっては、そうでもないぞ」
深刻な表情で俯いたノヅチに対し、チャクアはまるで聞き分けの無い子供でも慰めるように微笑んだ。
「そなたも妾も、本気の恋をしたではないか?」
「……!」
「ニッヒヒヒ!」
思いもよらぬ言葉に、一瞬、息が詰まった。
その隙を突いて、いつぞやのように、チャクアが焚火を跳び越え、眼前に荒々しく着地した。
ふわり、と鼻先で白銀の前髪が揺れる。
睦言のように、悪戯のように、少女がノヅチの耳元に、そっと唇を寄せる。
「妾の
そなたには以前、そのような事を伝えたよな」
「……ああ」
「ならば今度はそなたの運命を、妾の運命に変えてやろう。
打て、ノヅチ、心のままに。
後の事は、全て妾に任せておけ」
「…………」
「そなたと妾の出会いには、その程度の値打ちは当然あった、そうであろう?」
ザリザリと、ノヅチの心臓が、少女の
ここに至ってなお、自分はまだ、彼女の幻影に赦される事を願っている。
こんなにも近くいると言うのに、彼女の吐息も、何の体温も感じられないのが寂しかった。
「大好きじゃよ、ノヅチ。
何処にあろうと、どんな姿になろうとも」
ザッ、と鮮やかな風が吹いて、銀色の髪が逆光の中に解けていく。
ノヅチは静かに瞼を閉じ、消えゆく少女の名残を、光の中に探していた。
・
・
・
赤々と燃える炭の奥、炎とは異なる、柔らかな白い光が籠っている。
闇夜に浮かぶ、月光の冴え。
今日まで幾度と無くノヅチの窮地を救い、その道を照らし続けて来た柔らかな光。
頃合いだ。
肚を括り
だが、その奇跡がどれほどの神秘を宿そうとも、槌振りの知る「鉱」の性質からは逃れられない。
白熱する刃を手鋏で掴み、一息に水舟へと突っ込む。
ドジュウ、と水面が沸き、この世の奇跡の輝きが徐々に、徐々にと薄らいでいく。
ビキッ、ビキキ、と船の中で霊銀が哭き、手鋏ごしにノヅチの左手を震わせる。
急冷を終えた刃を取り出し、金床に据える。
混じりっ気のない無垢なる銀は、奇跡の光を失おうとも、やはり冴えた輝きを宿していた。
高らかと右手を掲げ、裂帛の意志と共に手槌を打ち下ろす。
ビギン、と衝撃が走り、この世の奇跡が半ばより破断する。
傍らで見ていたタタラが堪らず顔を背けた。
鉄は、炎の中で何度でも甦る。
今日の霊銀の死は、明日の再生への布石でもある。
だがタタラは、あの小刀がノヅチにとって、どのような存在であったかを知っているのだ。
ノヅチの方は顔色一つ変えなかった。
歯を食いしばり、二度、三度と立て続けに鉄槌を下す。
金床が震え、鉄よりも鉄らしかった金属が、白銀の欠片に戻っていく。
霊銀の小刀を颪し直し、隕鉄の
そう決めたのはノヅチであった。
霊銀と、他の金属との合金。
かつてノヅチは霊銀を鍛えた折、一度はその可能性を模索し、そして断念した。
この世で最も純粋なる金属、という霊銀の特性を損なう結果にしかならないと感じたからだ。
あの日の結論は、今もノヅチの中で変わっていない。
理屈の上では、今のノヅチは酷く矛盾した行動を取っている。
強いて言うならば、霊性。
槌振りの槌では推し図れない、金属の内に宿る、見えざるもの。
この霊銀は、白銀の巫女の剣と同じ株から生まれた兄妹刀だ。
鉱と樹を調律する、乙女の魂が宿っている。
悠久の鉱と、命ある樹を調律するため、自らの身を剣と変えた白銀の巫女。
彼女ならばあるいは、あの星鉄の奥底に眠り続けている、鋼鉄の生命の存在に気付いてくれるのではないか?
幼き日に見た赤子の産声を、もう一度、地上に目覚めさせてくれるのではないか?
くだらない妄想である。
今のノヅチが見ているのは、理屈でも感性でもない、ただの祈りだ。
剣は凶器。
古今も東西も正邪も問わず、あらゆる聖剣魔剣の類には血生臭い伝承が付き纏う。
かつて、白銀の巫女が言ったその一言を、ノヅチは惰弱と斬って捨てた。
ただの道具に迷信や犠牲を求めるのは、扱う槌振りの怠慢、単なる実力不足だと。
今、ノヅチはその先人達と、全く同じ事をしている。
古の時代、東方では名工の妻がその身を大窯に投じ、後に乱世をも治むる神刀を鋳したという。
今日、ノヅチも確かに捧げた。
人生の
己の半身にも等しい物。
鍛刀は、偶然の連続である。
用いる鉱石の成分、火床の誂え、炭の並べ方、水舟の温度に空気の粘り。
一期一会、同じ作業は二度と存在せず、その僅かの差に神が宿り、悪魔が微笑む。
どれほど熟練の職人であろうとも、この世の全ての事象を見通す事など叶わない。
故に古来より鍛冶場には炎を操る神が在り、職人たちは彼らの神に祈りを捧げる。
西方においては戦槌を担いだ勇ましい男神であり、
自らの征く道が天に通ずる事をひたむきに祈りながら。
一方では、奇跡の正体を見定める、峻厳な観測者であろうとする。
その相反する二面性を保ち続けていなければ、本物の槌振りとは言えないのだ。
今日、イズノハ・ノヅチは漸く、東島の刀工としての一合目を踏んだ。
もう、少女の声は聞こえない。
それを望んだのは自分自身だ。
何処にあろうと、どんな姿になろうとも、この地上から彼女が消えてしまった訳ではない。
彼女の声は、次の勇者の傍らに在ればいい。
白銀の亡骸に祈りを捧げながら、峻厳な槌振りの瞳は、聖剣を支える心金の姿を追い求めていた。
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