【33:大切な人】

 雪が本格的に降り始めた空の下、イズラフェルはアランの腕に捕まりながら、リュシーの眠る施療院への道を歩いていた。


「すみませんね、厄介になってしまって」

「こんくらいならいいっすよ。オレもリュシーの様子見ときたいし」


 もしかしたら彼女に会うのはこれで最後になるかもしれない。最悪の不安と可能性を、イズラフェルは飲み込んでなかったことにする。


 二人はブーツの裏でザクザクと新雪を踏みながら、


「アラン」

「何すか?」

「あなたとこうして二人きりで話すのは、あの模擬戦以来ですかね」

「え、あ、ああ……」

「あなた、私のことが嫌いですよね?」

「……別に、嫌いってわけじゃ」

「でも、快くは思っていないはず」

「それは」


 さすがのアランも、主の夫に面と向かって「嫌いだ」と言えるほどの失礼さは持ち合わせていないらしい。イズラフェルは雪に足を取られそうになりながらも、満足して鼻を鳴らした。


「あなたがもっと早くに、彼女に想いを伝えていたら、結果は変わっていたかもしれませんよ」

「……何でそんな話になるんすか? お、オレはリュシーのことなんか、何も」

「私はリュシーなんて言っていませんよ。ひと言も」

「……」


 墓穴を掘った。アランが苦虫を噛み潰したような顔をし、イズラフェルは悪人のように微笑む。


「私の勝ちですね。だって今、リュシーは私の妻なのですから」

「でも、オレだってまだ負けてねえっすよ。まだリュシーと共謀して、あんたのこと暗殺するかもしれねえし。それがお望みなんだろ? それにオレ、知ってますよ。あんた、まだリュシーにちゃんと『好き』って伝えていないんでしょ?」


 イズラフェルは目を見開いた。悪人めいた笑みを引っ込めて、今度は顔を伏せて悲しそうに笑う。


「それを言われると痛いですね。……この戦いが終わったら、今度こそちゃんと言いますよ」

「それ、絶対死ぬやつじゃん」


 アランは肩をすくめて言った。そして数歩進んだ後、外套の肩からイズラフェルの手が離れているのに気がついた。


「アラン」

「どうしたんすか?」


 今まで軽い冗談を交わしていたのがウソのように、イズラフェルの声は深刻だ。


「知ってはいると思いますが、私たち魔術師の戦い方にはどうしても隙ができます」


 それは弓兵と同じだ。彼らが弓を引き、狙いを定め、そして矢を放つように。魔術師もまた、手中で術式を組み、魔力を込め、術を完成させる。剣のように一瞬とは行かないのだ。


「何言ってんだよ。あんたは攻撃魔法くらい、すぐ撃てるじゃないっすか」

「たまたまそう見えるだけですよ。今回は雪道ですし、夜中で、しかも相手はナイトメアです。ナイトメアは夜を支配する竜ですからね。そう簡単にはいかないかと」


 イズラフェルの杖の先が、真新しく降った雪をザクッと抉る。


「その一秒、一瞬の確保。それさえあれば、我々はあなた方と同じように戦える。……アラン。私はね、その一瞬をあなたに守ってもらいたいんです」


 彼はローブのポケットに手を突っ込み、


「これを」


 アランは言われるままに手を差し出した。鏡の破片のようなものが、革のグローブの上に落とされる。


「何すか、これ?」

「陽光鏡ですよ。太陽の光を封印した魔法道具です」

「オレが使うんですか? どうやって? オレ、魔法なんか分からないし」

「簡単ですよ。割れば一瞬だけですが、強い光を放ちます。これをナイトメアの顔に向かって投げてください」

「暗い中で、いきなり光る……。要するに、目潰しってことっすか?」

「そういうことです」

「でも真っ暗じゃないっすか。オレだって見えないのに、ちゃんと投げられるかな?」

「夜の【森】とはいえ、足元が雪ですからね。少しは明るいと思います」


 イズラフェルは焦点の合わない目でアランを見つめる。吐く空気が、煙突の煙のように白く凍る。


「ナイトメアは暗闇で活動しますが、目そのものは退化していません。むしろ大きくなっていて、少しの光でもモノがよく見えるんですよ。だから光で目を潰せばいい」

「目潰しって、そんな簡単に言うけどさ。暗闇でいきなり光るんでしょ? オレたちだって見えなくなっちゃうじゃないっすか。その後、どうするんですか?」

「だから私が倒すんですよ。私は最初から見えないんですから。暗闇なら、私は負けない」


 アランは「けーっ」と嫌そうな声を出し、赤くなった鼻をこすってすする。


「守ってもらいたいって、よく言うぜ。守る必要なんかねえだろ。っつーか、男に『守ってくれ』なんて言われてもさ。嬉しくもなんともねえっての」

「確かに、それは言えていますね」

「まあ、そう言われたら断れねえけどさ」


 アランは陽光鏡を投げたりキャッチしたりを繰り返す。そして外套のポケットにしまい、おもむろに、


「でも、あんたを守るのはオレだけじゃねえし」

「え?」

「なあ、そうだろ? 姉貴!」


 アランが誰もいないはずの藪へ向かって声を上げる。イズラフェルがポカンとしていると、木々を揺らしてエスターを筆頭に人々が出てくる。領立軍の若い魔術師が数人と、ブドウ農家のシモンズ一家、それと秋の市でモニカに暴行された服屋の親子もいた。知っている人も、知らない人も。本当にたくさんの人がいる。


「あの、えっと……」


 イズラフェルが困惑していると、エスターが一歩前に出た。そして、


「イズラフェル様、これを」


 彼女はイズラフェルの手を取り、包みを渡した。花柄の布に包まれたたくさんの小さな石。手の魔流痕が魔力に反応し、青緑色に光る。この温かい魔力の正体を、イズラフェルは知っている。


命鳴石めいめいせきですか?」

「はい。イズラフェル様が、これから竜と戦われると聞いたので」


 石の数は多く、包みは想像よりもずっと重い。


「エスター。これは一体、誰の寿命を」

「領民の寿命です。みんなから少しずつ集めました。竜と戦うのには不十分かもしれませんが、足しにしてください」

「皆さん……」


 イズラフェルは包みを受け取りながら、中の石に触れる。大きな石、小さな石。皆、それぞれに温もりを発している。そして小振りだが、強く熱を持った石に触れた時、エスターが、


「その石は、領の外れに住む元召喚術師のおじいさんのものです」

「元召喚術師って……。もしかして、偏屈老のことか? あの目の見えない」


 アランが言い、エスターは頷く。目が見えないと聞いた時、イズラフェルの心の底で何かが動いた。


「魔術師のご老人で、こんなにたくさんの寿命を……」


 エスターは皆まで言わなかったが、目を伏せながら、


「『いつか永久とこしえの光の野で会おう』と……。あなたに伝えてくれと、そう言っていました」


 暗くなる一同の肩に、薄く雪が積もり始める。重苦しい雰囲気を振り払うように、アランはわざと明るい声を出し、


「なあ、あんた。これであの竜、ぶっ殺せるだろ? こんだけ命鳴石があるんだ。だからあんたが寿命切れで死ぬこともねえ。よかったじゃねえっすか」


 イズラフェルはもう一度包みを持ち上げ、額を寄せて祈る。実際、竜を殺すにはやや足りない。自分の寿命が多少削れるのはやむを得ないことだろう。永久の光の野までたどり着かなくとも、片足を突っ込むことにはなるかもしれない。


 それでも、みんなの気持ちが嬉しかった。

 絞り出すような声で、イズラフェルは、


「なぜ皆さんは私のために、ここまでしてくれるんですか?」


 故郷の神殿で、冷たく石を投げてきた人々の顔を思い出す。


 エスターは笑う。若い魔術師たちも、シモンズ一家も服屋の親子も、みんな笑った。その横でアランが呆れながら「そんなことも分かんねえのか。こいつアホだろ」と呟いて曇天を仰いだ。


 みんなを代表して、エスターが答えを教えてくれた。


「あなたはリュシー様の大切な人です。彼女が大切にしているあなたもまた、私たちにとっては大切な人です。ですから、当たり前でしょう?」

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