【25:貴族の娘、モニカ・グレイン】

 遅い昼食と談笑の後、二人は時計塔から飛翔し、市街地へと降り立った。広場には市が立っており、そこから延びる大通りや小路にも日用品や飲食物、さまざまな露店が並んでいる。


 イズラフェルは鼻をクンクンさせる。


「いい匂いですね。肉――羊肉に香辛料をつけて焼いたのでしょうか。あと、果物の匂いもします」

「今日は秋の市なんですよ。冬は雪で、ここまで来る道はほとんど閉ざされてしまいますから。多くの旅人や商人が、特産品を買い込んで東部へと帰ります。……何か食べますか?」

「いいえ、お腹いっぱいですよ。しかし雪が降るとは聞いていましたが、交通が断絶するとは……。そんなに降るんですか?」


 果物屋のご婦人が「どうぞどうぞ」と手招いていたが、会釈しやんわり断った。イズラフェルの手がしっかりと肩に触れているのを確認してから、リュシーは歩き出す。


「ええ、冬は忍耐の季節ですから。雪かきは労力が入りますし、日照時間も少ないでしょう? だから魔物の数も増えますし」

「なるほど。それは大変だ」


 リュシーはゆっくり歩きながら、何の店にどんな商品が置いてあるのか聞かせた。


「リュシーは何か欲しいものはありますか?」

「エスターにお塩と胡椒を買ってきてと頼まれているんです。必要なものはそれくらいですね」

「ああ、いや。そうじゃなくて。その、何かあなたが個人的に欲しいもの……。例えば髪飾りとか、アクセサリー――」


 イズラフェルが言い切る前に、リュシーが立ち止まった。

 少し先の店で、何やら騒ぎが起きているようだ。


「何でしょうか?」

「さあ……。お金がどうとか、聞こえてきますけど」


 どうやら支払いを巡って、店主と客が言い合いになっているらしい。聞き覚えのある声が、秋の穏やかな賑わいを不穏に変えていく。


「イズラフェル様」

「ええ」


 二人は走り、人垣を掻き分けてトラブルへと首を突っ込んだ。そこは服屋の露店だった。そして思った通り、聞き覚えのある声の持ち主が――モニカがいた。


 敷物の上に、女物のシャツやブラウス、スカートが散乱していた。彼女は試着でもしていたのだろうか。真新しい絹のローブに身を通したまま、


「支払いはいいわよね? あたし、貴族なんだから」

「モニカ様、そう仰られても困ります」

「何よ? あたしは貴族で、しかも魔術師なのよ! あんたたち、非魔術師を守ってやっているんだから、それくらい大目に見なさいよ‼︎」


 モニカは『もう自分のものだ』と言わんばかりに、ローブの胸元をかき抱いた。状況を見かねたリュシーが「モニカ!」と声をかけようとするが、イズラフェルが「待って」と体に手を回して止める。


 その間に、店主の息子だろうか。十歳くらいの男の子が駆け寄ってくる。彼はモニカに近づき、


「お姉ちゃん」

「何よ?」

「あんた、去年も同じこと言って、お金払わなかったよな? その前も、その前の年だって踏み倒したじゃないか!」


 領民の、しかも一般市民に対してそんなこと。リュシーはハッとして、それからすぐにゾッとする。大切な領民にこんな迷惑をかけていたモニカにも、それに気づかなかった自分自身に対しても。


 モニカはなおも、試着したままのローブを引っ張り、


「何よ⁉︎ このクソガキ、何か文句でもあるの⁉︎ 魔術師でもないくせに、魔術師で貴族のあたしに、何の文句があるっていうの⁉︎」


 そう叫び、モニカは杖でガンっ! と少年の頭を叩いた。いや、そんな軽いものではない。あれは『叩いた』ではなく『殴った』だ。


 鈍い音と共に血が飛び散り、少年が倒れる。


「あっ――!」


 成り行きを見ていた野次馬たちからどよめきが上がる。モニカは店主を突き飛ばし、息子と同じように杖で殴ろうとする。


 リュシーは走った。


 呪文、術式、魔法陣の展開。左手で店主を庇い、右手で防御魔法を放つ。防壁はモニカの一撃を受け止め、すぐにガラスのように砕け散った。


 呆気に取られる店主に、リュシーは銀貨を手渡した。


「ごめんなさい。足りないと思いますが、後日、ちゃんとお支払いしますので」


 お金の問題ではないのは分かる。だがモニカがリュシーの言葉に耳を貸すはずはなく、他に場を収める方法が思いつかなかった。

 だが、


「何よ⁉︎」


 リュシーは顔を上げる。イズラフェルの手が、モニカの腕を掴んでいた。


「触らないでよ! 気持ち悪い! 離してよ‼︎」


 だがイズラフェルは頑として手を離さない。それどころか、ぐっとモニカを引き寄せて、


「モニカさん。あなたね、そんな振る舞いをして、何か貴族ですか!」

「うるさいわね! あんたには関係ないでしょ⁉︎」

「いいえ、関係あります。同じグレイン家の人間として、見過ごせるわけがありません。いいですか? 自分を優れている人間だと思っているならば、よく考えて行動しなさい‼︎」


 リュシーは驚いた。知る限り、イズラフェルが大声を上げたのは初めてだ。


 だがリュシーより、モニカの方が驚いていたようだ。彼女は目を見開き、血のついた杖と新しいローブにしがみつきながら、


「ふん……! 何が同じグレイン家の人間よ? めくらのくせに偉そうなこと言って」


 モニカは銀貨数枚をこちらに投げつけ、イズラフェルの手を振り払う。リュシーはモニカの目を見た。


「モニカ……」

「……何よ?」


 モニカの瞳は、かすかに揺れていた。

 彼女は舌打ちと共に立ち去った。野次馬をかき分け、退かない人を突き飛ばしたり、肩をぶつけたり。「邪魔よ! あっち行きなさい!」と怒鳴りながら。


 野次馬がはけ始める。店主と息子はリュシーに深々と頭を下げ、「ありがとうございます」と礼を言う。誰かがかけた回復魔法のおかげだろうか。息子の流血は止まっていた。


「リュシー」


 イズラフェルが手を貸してくれた。立ち上がりながら、


「申し訳ありません。嫌なものをお見せしてしまって」

「大丈夫ですよ。私、見えませんから」


 彼は冗談を口にしながら微笑んだ。リュシーも「そうでしたね」と言いながら、少しだけ口角を緩める。


 二人は頭を下げ、露店を後にしながら、


「怪我はない?」

「はい、でもお塩を買うお金がなくなってしまいました。エスターが困ってしまうかも」

「大丈夫ですよ。私も多少の手持ちはあります」


 そして二人は塩と胡椒を買い、少しだけ市を歩いて回った。イズラフェルは「せっかくですから、エスターとアランにお土産を買いましょう」と干した果物をいくつかと茶葉を買い求めた。


「ところでリュシー。あなたはモニカさんのこと、どう思っているんですか?」


 不遜な振る舞いをくり返す、血の繋がらない妹をどう思っているか。難しい質問だ。


「いい気持ちはしませんよ」


 リュシーは軽く親指の爪を噛みながら、


「イズラフェル様。わたしは、貴族は何よりも民を大切にするべきだと考えています。だからモニカが領民を悲しませたり、傷つけたりしているのが嫌なんです。とても。

 でも、一応は姉妹ですから。今はうまく行っていませんけど、大切な妹であることに変わりはありません。いつかきっと仲良くなれるって、そう思っているんです」


 イズラフェルは呆れたよう笑う。見えない瞳が、慈しむような色を帯びてリュシーに向いた。


「優しいですね、あなたは」

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