第32話 迷える少女とほほ笑むアイドル
どうしたって、つないだ手に全部の神経が吸い寄せられるなか、相変わらず、僕の鼓動は耳元でうるさく鳴り響いていた。
「え、あの子……めっちゃ可愛くない?」
「モデルさんとかやってそう……」
すれ違いざま、そんな声がひそひそと耳に入る。
本来なら、瑠香さんがバレてしまわないかとヒヤヒヤするべきところなのに──。
どこか、他人事のように聞き流していたのはきっと、目の前のことで頭がいっぱいだったからだと思う。
ようやく人波を抜けた頃、ふいに隣から手を引かれた。
立ち止まって振り向くと、俯きがちだった瑠香さんと、ようやく目が合う。
「……はぐれちゃうとこだったね」
そう言って、小さくはにかんだ彼女の頬が、屋台の灯りに照らされて、ほのかに赤く染まっていた。
その表情に、また胸の奥が無意識に熱を帯びる。
何か言わなきゃ──そう思うのに、喉がうまく動かなくて。
握った手を離した方がいいんだろうか──そんなことを考えかけて……でも、こんな顔を見せられたら、どうしたって離せるはずもなかった。
そんななか、瑠香さんが何かに気づいたように顔を上げた。
「和樹くん、あの子って──」
彼女の視線を追うと、境内の脇、屋台と屋台のすき間で、小さな女の子がひとり、ぽつんと立っていた。
白いワンピースに赤いサンダル。手には、小さな紙袋をぎゅっと握りしめている。年の頃は、たぶん五歳くらい。
迷子、だろうか?
あたりを見回しても、それらしい保護者の姿は見当たらなかった。
彼女のもとへと歩み寄る僕たち。近づくにつれて、その顔に見覚えがあることに気がついた。
この子は、確か──以前、川辺で。
「君……あの時の」
「あっ、お兄ちゃんだ!! この前はありがとう!」
僕の顔を見るなり、女の子がぱっと笑顔を咲かせた。
「えっ、和樹くん……この子のこと、知ってるの?」
尋ねる瑠香さんに、少し照れながら頷く。
と、言っても誇らしくないほうの照れだ。
「この前、川で困ってたところを、ちょっと……ほら、僕がびしょ濡れで帰った日のこと、覚えてます?」
「それって……
と、そのとき。
女の子が、僕たちの手元をじっと見ていることに気づいた。
「お姉ちゃんは、お兄ちゃんのカノジョさん?」
無邪気さそのままのストレートな問いかけに、僕たちは思わず顔を見合わせると、どちらからともなく、慌てたように手を離した。
「はは。え、えっと……」
言葉に詰まる僕をよそに、瑠香さんがにっこりと微笑む。
「そうじゃないけど。そうね……仲良しかな」
そう言って、「ねっ」と僕の方を向く。
「え、ええ……そうですね」
どこかくすぐったい心持ちで答えると、瑠香さんは女の子の目線に合わせて、そっとしゃがみ込んだ。
「パパとママはどこ? 迷子になっちゃったのかな?」
「ママはおでかけしてるの。パパはどこかに行っちゃった」
女の子は寂しそうに俯く。
瑠香さんは、そんな彼女の頭をそっと撫でた。
「よしっ、じゃあ一緒に探そっか」
そう言って、やわらかく微笑んだ彼女の声は、とても頼もしく聞こえた。
その後、歩きながら名前を尋ねると、女の子はぱっと表情を明るくして答えてくれる。
「のぐち、まりだよ! ひらがなで、まりって書くの!」
元気いっぱいの自己紹介に、思わず僕も笑ってしまう。
「まりちゃんか。可愛い名前だね。僕は、小野寺和樹」
「わたしは、脇坂瑠香。よろしくね、まりちゃん」
「うんっ、よろしくね! かずきおにーちゃんと、るかおねーちゃん!」
混じり気のない瞳で名前を呼ばれて、僕も瑠香さんも、少しくすぐったい気持ちになる。
「ねえ、まりちゃん。パパとはぐれちゃったの?」
問いかける瑠香さんに、まりちゃんはこくんと頷いた。
「うん。電話してる間にいなくなっちゃったの。いっぱい人がいて……」
ちょっと唇を尖らせる仕草が、いかにも五歳らしくて、微笑ましい。
「でもね、パパ、すごいんだよ! 悪いひとをやっつけるお仕事してるの! 正義の味方なんだ〜」
「そうなんだ。まりちゃんのパパは、カッコいいんだね」
そう言う瑠香さんに、まりちゃんは満面の笑みで「うんっ」と頷いた。
その様子を見ながら、僕はなんとなく彼女の言葉を思い返す。
電話、悪い人、正義の味方──もしかすると、警察か、弁護士あたりの仕事なんだろうか。
そんなことを考えていると、ふと立ち止まった瑠香さんが、まりちゃんに向けて、手を差し出した。
「ねぇ、まりちゃん。よかったら、手をつながない? この辺りはちょっと人が多いから、はぐれないように」
まりちゃんは顔を上げて──ぱっと笑った。
「うんっ!」
小さな手が、彼女の指をしっかりと握る。
「ありがと」
瑠香さんも、にこっと笑ってそれに応えた。
そんなふたりの姿を、僕は数歩うしろから見守りながら、どこか微笑ましく感じていた。
時刻は、もうすぐ夜の八時になろうとしていた。
人波も、少しずつ落ち着きはじめている。
けれど、それらしい人物は、いまだ見当たらなかった。
「闇雲に探しても駄目そうですし、とりあえず、社務所に行ってみましょうか」
「そうね、それがいいかも」
そんな言葉を交わしていたときだった。
「……あっ、パパ!」
まりちゃんが境内の奥を指差し、ぱっと目を輝かせて駆け出そうとする。
そして──彼女の視線を追った瞬間、僕の心臓はぎゅっと縮むような思いに駆られることになる。
まりちゃんが駆け寄った先にいたのは、スーツ姿の三十代半ばの男性だった。
少し着崩れたシャツに……疲れたような顔。
僕には──その顔に見覚えがあった。
(待てよ……のぐち、まりって……?)
まりちゃんが名乗った名字が、脳裏で、ゆっくりと繋がってゆく。
見れば見るほどに、不安は確信へと変わっていった。
間違いない……。あの男性は──以前、瑠香さんを探してアパートに押しかけてきた記者。
──週刊EASTの、野口だ。
「和樹くん?」
僕の顔色に気づいたのか、瑠香さんが不思議そうに見上げてくる。
その瞳に浮かぶわずかな不安は、あくまで僕を見たからで──
当然だ。彼女はあのとき部屋の奥にいて、野口とは会っていないんだから……。
そして──その瞬間、ようやく気づいた。
……瑠香さんが、マスクをしていないことに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます