第4話 同居のルールと無防備な寝顔
ソファに腰を下ろした脇坂さんが、膝の上に広げた小さなメモ帳に、さらさらとペンを走らせている。
僕はダイニングの椅子に座り、冷めかけたコーヒーを啜りながら、その様子をぼんやりと眺めていた。
「掃除、洗濯、料理、買い出し、ゴミ出し……。他に何かあるかな?」
「家事としては、それでだいたいカバーできてると思います。ただ、お風呂の順番とか生活リズムとか、細かいところは決めておいたほうがいいかもしれませんね」
「たしかにそうね。じゃあ、まずは家事の分担から決めましょ。掃除、洗濯、料理はわたしがやるとして……買い出しとゴミ出しは、しばらくお願いできる?」
「記者とか、まだ近所に張ってるかもしれませんしね。でもそれ、ほとんど脇坂さんがやることになってませんか?」
「居候させてもらうのはわたしのほうだもの。
「いえ、いま“和樹くん”って……」
「あっ、ごめん。学生証に書いてあったから、つい。もしかして、読み間違えてた?」
「言いたいのはそこじゃなくて、呼び方のほうです。“小野寺”でいいですよ」
「ダメよ。これから一緒に暮らすんだし、よそよそしいのは嫌だもの。だから和樹くんも、わたしのことは“
「いやいや、初対面に近い人をいきなり名前で呼び捨てなんて……無理ですって」
「じゃあ、“瑠香さん”で。わたしのほうが一つ上だし」
その表情から、どうやら誘導されたらしいと気づく。おそらく最初から僕が呼び捨てに出来ないことを見越していたんだろう。そして、さん付けならば折れることも。
にこっと笑うその顔には、アイドルっぽさはほとんどなかった。
淡いクリーム色のパーカーにショートパンツ。髪は後ろでラフにまとめられ、肩の力が抜けたその姿は、どこにでもいそうな、同年代の女の子のようだった。
――ただし、容姿とスタイルのレベルだけは、完全に別次元だけれど。
でもそれ以上に、この人の“普通さ”が妙に印象に残る。
作ってる感じがない。動きも、言葉も、どこか自然体で、隙があるようでいて芯がある。
普段の芸能人って、実はこういうものなのだろうか。
「でも、人気アイドルなのに、家事とかできるんですか?」
「大丈夫よ。忙しくなる前は寮生活だったから、家事には慣れてるの」
「寮って、グループの?」
「うん。事務所のスタッフが全部やってくれるわけじゃないから、掃除も料理も当番制で、洗濯も一人一回。あの頃に比べたら、今なんて全然余裕」
「へえ……意外です。もっとこう……生活感がないのかと思ってました」
「それはこっちのセリフ。冷蔵庫、空っぽだったわよ? ちゃんとご飯食べてる?」
「えっと……ほぼ、外食ですね」
「ちなみに聞くけど洗濯は?」
「基本クリーニングに出してます……」
「やっぱり。それはお金も足りなくなるわけよ」
「すみません。でも、自分で洗うの苦手で……シャツを縮ませた過去があるので」
「なるほど……。うん、やっぱり料理も洗濯もわたしがやる。だから当面の買い出しは和樹くんがお願いね」
こんなふうに頼まれて、断れるわけがない。
結局、料理に掃除、洗濯は瑠香さん。ゴミ出しと買い出しは僕が担当するということで話はまとまった。
「……でも、本当にいいんですか? 料理はともかく、アイドルが僕のシャツ洗うなんて、ちょっと現実感なさすぎて」
と、そこで重大なことに気づく。
「どうかした?」
「……いえ、洗濯って、下着とかもあるよなと思って。そういうのはさすがに、自分でやりますから」
僕が言うと、彼女はふと手を止め、顔を上げた。
「別にいいわよ」
「えっ?」
「だって、洗剤も水道代も意外とバカにならないのよ? 分けて洗うほうが電気代もかかるし。それに――」
少し考えるようにして、こう続けた。
「……年下の男の子の下着くらい、べつに気にしないし」
さらっと言いながらも、どこか視線を逸らす彼女。
もしかして耳の先が、少しだけ赤く染まっている?
「……ま、気になるなら自分で洗って。どうせ干すのも取り込むのも、わたしがやることになると思うけど」
「結局お願いしてるような気もしますが……すみません。ありがとうございます」
「どういたしまして」
そう言って、メモ帳に「洗濯物分別→要検討」と書き加える彼女を見て、僕は少しだけ苦笑いをこぼした。
◆◇
本格的な同居が始まった翌日。
バイト帰り、鍵を静かに回して玄関のドアを閉めた僕は、ふと空気の変化に気づいた。
――なんだか、部屋が昨日よりも整っている。
もともと物が少なく、散らかった印象はなかったが、床のざらつきや髪の毛など、気になっていた細かな汚れがきれいに消えていた。柔らかな香りが、どこか生活感と安心感をもたらしてくれる。
……掃除、してくれたんだ。
手に持っていたレジ袋をキッチンに置き、リビングに目をやる。
ソファの上で、瑠香さんが寝ていた。
薄手のTシャツにショートパンツという部屋着姿で、横向きに丸くなって眠っている。毛布もブランケットもかけず、肩を少しすくめながら、穏やかな寝息を立てていた。
その無防備な姿に、思わず息をのむ。
ほんの数日前まで、彼女が芸能人だなんて知らなかった。けれど、名前をネットで検索したときに見た写真の数々――煌びやかな舞台、鮮やかなスポットライト、その中心にいた彼女の姿は、現実味のないほど輝いていた。
……その彼女が、今こうして、目の前で無防備に眠っている。
目に入ったのは、肩に流れるようにかかった黒髪。光を柔らかく受けて、さらりとした艶があった。
――少しだけ、触ってみたい。
そんな衝動に、僕は手を伸ばしていた。
人差し指で、そっと一房に触れる。指先を滑らせると、絹のようにさらりとすり抜ける感触があった。
そのとき――
ぴくり、と彼女の体が小さく反応した。
はっとして、すぐに手を引っ込める。
「……なにやってるんだ、僕は」
小さくつぶやき、額に手をやる。そしてそっと近くにあったブランケットを取り、彼女の肩に優しくかけてやった。
「今日はゆっくり休んでください」
そう一言、言葉をこぼしてから、僕はキッチンに向かった。
袋の中には、瑠香さんに頼まれていた食材。
本来なら、夕食の準備は彼女の担当だ。でも、彼女はギリギリまで仕事を詰め込んでいたと言っていたし、逃げるようにウチへ飛び込んできたのだ。慣れない環境の中で気を張り詰めていたに違いない。
それなのに掃除も洗濯も嫌な顔ひとつ見せず、不公平な役割分担を自ら名乗り出た瑠香さん。
せっかくあんなに安心した顔で眠れてるんだ。今日はゆっくりさせてあげたい。
僕はスマホのメモを頼りに、彼女が「今夜はこれを作るつもりだった」と言っていたメニューに挑戦することにした。
とはいえ、自炊経験はほぼ皆無。野菜を切るのも、調味料を入れるのも、すべてが手探り状態だった。
◇◆
ちょうど料理が出来上がる頃、リビングからふわりと寝返りの音がした。
「ん……」
小さく声が漏れ、起き上がった彼女が、ぼんやりした目でこちらを見た。
「……えっ。和樹くん、なにしてるの!? 食事はわたしが担当だったのに!」
飛び起きるようにソファから立ち上がり、慌ててキッチンに駆け寄ってくる。
「いえ、大丈夫です。それに、ちょうどできたところですし」
「……ほんとだ」
彼女は鍋の中をのぞき込み、目をぱちくりとさせた。
「すみません、普段作らないので……レシピは参考にしたんですが、どうにも味がまとまらなくて」
僕が苦い顔を向けると、彼女はお玉ですくい、ひと口食べて、小さく頷いた。
「……優しい味。美味しいわ」
「本当ですか?」
煮込んでいる間に味が変わったのだろうか? 彼女が使ったお玉は使用せず、脇に置いていた小さじでひとすくい。と、食べてみるが――驚くほど味がしない。
「……やっぱり薄いですよ」
「うん、たしかにちょっと味は薄いかも。でも、わたし、こういうの好きよ。……なんていうか、気持ちがこもってて」
そう言って、ふわりと笑った。
心が、少しだけふっと温かくなる。
「なんだかお腹が空いてきちゃった。じゃあ、食べましょ。今日はありがとう。ほんとに助かったわ」
その後、にこにこと食事を進める彼女を見ながら、僕も箸を手に取った。
ほんの少し前まで、他人だったはずの人と、こんなふうに笑っているなんて。
――なんてことのない食卓。
けれど今は、この時間が、少しだけ特別に感じられた。
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