ウィークエンドに■氏100度の温もりを

透川月

PM11:00の3分間


 チチチチ


 タイマーをセットする。

 横で彼女がお湯を注ぎ込み、ふわりと乾麺特有の抑え込まれた匂いが立ちのぼる。

 文明の発展とは目覚ましいものだ。白く照らされたリビングは、深夜十一時を過ぎたというのに、まるで朝のようだった。しかしながら、カーテンの裾から漏れる闇やしんとした静けさに、もう世界が眠る時間であることを告げられている気がした。


 私はカップ麺を待つ三分が好きだ。何か時間を潰しながら待つのではなく、三分という時間の長さを噛み締めながら過ごすのがいい。コップに水を注ぎ、人数分の箸を用意して──薬味のネギを刻んでもいい。それでもなお余る時間に、焦れったさを感じながら部屋を歩き回るのだ。

 そうして過ぎた三分には、大きな意味があるような気がする。タイマーが静かな部屋に鳴り響いた瞬間、蓋を剥がし湯気を顔面に浴びて、落とさないよう気を付けながら麺を箸に挟む。その行為への覚悟ができているのである。

 そんな話を彼女にすると、きまって笑われる。でもちょっとだけ頷いてもくれるのだ。


 彼女は深夜に食べるカップ麺が好きだと言った。

 自分で調理する過程が含まれる袋麺はダメ、デリバリーのラーメン店のやつもダメ。こんな夜中に、楽して早く食欲を満たしたいという人間の煩悩が詰まった逆円錐台形の容器へ覆いかぶさって、一心不乱に貪る。カロリーも明日の事も忘れ、少しの罪悪感と多幸感に包まれるその瞬間が何よりも自分へのご褒美なのだ、と。

 でも理性が勝っちゃって、夜食するのは週末だけだよ。はにかんだ彼女に、それじゃあ週末の夜はカップ麺パーティーだ、なんて言ったのは確か同棲し始めの頃だったか。

 彼女にその背徳を教えたのは、親戚の男らしい。幼いながら母に怒られないかしきりに気にした彼女に、秘密だよ、と囁いたのだという。お兄ちゃんは大人だったけど親戚の中では年が近くて、一緒にいると色んなことを教えてくれるから楽しくて、と語る彼女の目には恋する少女の面影があった。


 その男は十年前に旅に出て以来、ぱたりと連絡が途絶えたそうだ。


 ピピピピ


 思考を遮るように鳴り響いたタイマーの音に、ハッと現実に引き戻される。

 慌てて席につき、先に麺をかき混ぜ始めている彼女を見る。なにか思い詰めたような真顔だったが、目が合うと嬉しそうに口元をほころばせた。色々と思うところはあるのだろうが、今楽しそうならそれでよかった。

 いただきます、の合図で部屋に濃厚な匂いが満ち、一瞬だけ換気扇を意識した。近隣への匂い漏れって大丈夫かな。受験生なんかがいたら飯テロだって怒鳴り込んで来そう。冗談めかして言う私に彼女は大笑いしながら口元を吹く。

「もうそんなこと、気にする必要ないでしょ」

 そうだね、と返事をして申し訳程度のかやくをつまんだ。

 カーテンの裾からは、ただ夜の闇だけが漏れ出していた。


 カレーラーメンは、食べるのが深夜であるほど満足感が増える気がする。そんなことを最初に言い出したのは誰なのだろうか。全くもってそのとおり、弁論大会に出たならばスタンディングオベーションと最優秀賞を送ろう。

 スパイシーな匂いに少し涙をにじませながら麺をすする。給食で出るカレーと家のカレー、カップ焼きそばと焼きそばが全く違うものであるように「カレールーをかけたラーメン」と「カレーラーメン」は別物だ。作ろうと思って作れるものではない。欲を満たす代替にはなるがこの感動は味わえない。我ながら安上がりな感動だ。

 スープの絡みつく風味とさらさらとした舌触り。フリーズドライならではのポテトのパサパサ感。ちぢれ麺を嚥下する。この細かさがたまらない。安定の美味しさだった。

 彼女も美味しそうに醤油ラーメンのスープを飲んでいた。いつだったかカップ麺の食べ比べをした時、やっぱり王道が一番だと笑っていたはずだ。

「いつまで食べれるんだろうね」

 思わず自分の口から出た言葉の重みに数秒してから気づき、目を見開く。

 夜食だけではない。これから何ができなくなるのか、何をしたかったのか、何ができなかったのか。まだ把握していなかった。現実を思い出し徐々に青くなる私の顔を、能面のような表情で彼女が覗き込む。沈黙の空白に滑り込む醤油の香。

「カップ麺は、水と火さえあればできるから」

 一番原始的な食事と言えなくもないよ、ね。へにゃりと笑う彼女。

 なるほどね、と目を伏せた私の顔を、白色LEDが朝日のように照らす。

いやはや本当に文明の発展とは目覚ましいもので、


目覚ましい………目覚ましいものだった、のだ。


「午後十一時って、言ってもそんなに深夜かな」

 彼女はスープに卵を溶きながらぼそりと零した。

「こんなことになるまで、いつからが『夜』なのか忘れてたみたい」 

 深夜バラエティはうずうずとお堅いニュース番組が終わるのを待っているし、お隣の中学生は友達と電話している。電車は二十分おきに来るし、これから夕飯の人だっているだろう。

 恐るべき暗闇は消えた。人も街も、何もかもが眠らなくなった。

 しかし、街は何をもって眠らないと言えるのか。

 眠らない人が溢れているからこそ、眠らない街は存在できるのではないか。

 それならば、今この世界は永遠に深夜なのかもしれない、と私は言った。日が昇って植物が光合成を始めても、鳥が美しい声を奏でても、街を起こす人々はもういないのだから。永遠に眠った世界の中で、私たちは娯楽を啜る。誰に対してでもない罪悪感を抱えて、「やっぱり夜食は最高だね」と笑い合って。

 〆の茶碗蒸しを食べ終わった彼女は、舌を火傷した、と少し悲しそうな顔をした。


 ××××年××月××日、人類が跡形もなく消え去ってから三日が経過した。

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