第3話(10年程前:前編)
雪は降っていなかった。ただ、乾いた風が窓をたたいていた。葉が枯れて黒いうろこに覆われた木々は、白い空を際立たせている。薄曇りである。男は、透明な窓に手をあてた。手の形を覆うようにして、ガラスは曇った。もちろん、手は透明のままである。男は、その透明な手を見つめているようで、過去を深々と回想していた。
……………
翌朝、目を覚ますと、僕は透明になっていた。あるいは透明ではなかったのかもしれない。幽霊のように、形を失ってしまっただけなのかもしれない。どちらにせよ、僕は、自身の手や足を目視することができなくなった。今の僕を揶揄するように冷たい部屋には、鏡の働きをするものを置いていなかった。だから、服を脱いで、全身の有様を確認できなかった。もどかしさともに、酷い恐怖を感じた。目が、耳が、髪が見えない。見えないのなら、それはないのと同じだ。パジャマの袖口は、ひとりでに形を保っている。腕を動かす(イメージをする)と、袖はそのまま移動した。手は、そこにあるのか。光がうまく当たらないだけで、実際に存在しているのか。左手を、右手で触ってみた。感触がした。そこにあるのだろうか。ただ、見えない。見えないから、急に不安になる。本当に手は、この袖の先にあるのか。あの窓下にある、机の上ではないのか。僕はどこにいる。ここはどこだ。本当に存在するのか。わからない。わからない!どうしても、視えない。視えなければないのと同じだ。僕は、存在していない。僕は、、、!僕は、、、!発作のような衝動が、何度も耳を駆け抜けた。
その時、扉を軽くたたく音が聞こえた。コンッ、コンッ、コンッ。三音の連続は、僕を外の世界へ引き戻すには充分だった。そして、「■■、朝よー」と僕を呼ぶ女性の声がした。酷い耳鳴りのせいで、それが母の声だと認識するのに時間がかかった。その声を頭の中で反芻しながら、視られてはならない、と僕は思った。だから、「起きてるよ、母さん。大丈夫。」と返した。しかし、母はそれが聞こえなかったらしく、「入るよ」と続けた。僕は焦った。見られてはいけない。僕は服を着ているから、頭や手が透明ではまずい。服が浮いているように見えてしまう。本当は、そんなこと、透明になってしまったの一言で解決するのだ。けれども、僕は錯乱していた。兎に角、見られてはならない。視られてはならない。その一念が、僕の心を脅迫していた。心臓が、激しく脈を打っている。鼓動に合わせて、耳や足が震えているように感じた。再び外の世界に意識を戻すと、扉のノブをガチャガチャと回す音が聞こえた。どうやら、こちら側から鍵がかかっているらしい。しめたっ、と思った。母が合鍵を取るため下の階へ降りる間に、服をすべて脱げばいい。そうすれば、視られることはない。僕は焦りながら、けれども妙に落ち着いた手つきでパジャマを脱いだ。そして、服を布団の上に投げ捨て、母が鍵を開け扉を開くのを待った。
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