第13話 ダイヴァース
もう捕まる心配はない。
テレビのニュースは容疑者逮捕を伝えた。
ただその容疑者が犯人でないことだけは確かだ。
本当の犯人はここにいるからだ。
憐れな容疑者は誤認逮捕で真犯人の身代わりとなったのだ。
中華食堂を出た九一は繁華街に向かった。
黄昏時だった。
逃げる理由はなくなった。
顔を隠す必要もない。
九一は帽子を取り、顔を上げた。
日中の暑さは残っているが、時折り心地よい風が吹いた。
食欲が満たされた直後、九一は突然の性欲に襲われた。
尋常な性欲ではなかった。
これまでに感じたことのない、腹の底から噴き上げるような性欲だった。
マインドボムの感染により抑圧されていたそれは、重しが取れたことで一気に噴出した。
飢えた犬にでもなった気分だった。
裸の女を見たら舌を出してよだれを垂らすに違いない。
もはや鎮静は不可能だった。
九一は風俗店が連なる繁華街に足早に向かった。
九一は歩きながら、男とは二度とやらないと心に誓った。
今までは男女を問わず誰彼となく体を重ねてきた。
しかし、今回、サキという女より美しい男と関係を持ったことでMBウィルスの感染に怯えるはめになった。
もちろんMBは同性間の性行為のみで感染するわけではない。
同性、異性に関わらず保菌者と性行為を持つことで80%の確率で感染する。
にも関わらず、九一の中には男同士は危険だと言う認識が植え付けられた。
当然のことだ。
今回の件は九一を死の目前まで追いやったのだ。
体験は理論に先行する。
頭では分かっていても味わった死の恐怖を拭い去ることはできそうもなかった。
九一は「黄昏のレンガ路」に足を踏み入れた。そこはソープ街としても有名だった。
九一が犯行に及んだゲイバー「つぶらな瞳」もここにある。もっとも犯人が捕まったとされる今、警戒心は全くない。
警察が注力しているのは容疑者の犯行立証であり追跡ではない。
レンガを敷き詰めた歩道が外周を取り囲む。「黄昏のレンガ路」と呼ばれる所以だった。
その一画を三本の裏道が貫き、それぞれの道沿いに飲食店、風俗店がひしめき合っている。行き交う酔客の頭上で原色の看板が猥雑な光を放つ。
汗や香水やアルコールや食用油の匂いが層を成して通りに充満している。
九一はこの一画が好きだった。
「黄昏のレンガ路」は無節操な人間性の具現化だった。九一が愛するのは精神の混沌だった。アナーキズムであり増大したエントロピーだった。
それがこの一画には渦巻いていた。
九一は「黄昏のレンガ路」に足を踏みいれると優しさに包まれるようなホッとした気持ちになれた。彼に必要なのは、法の統治ではなく無法者を受け入れてくれる寛容だった。
この一画を貫く3本の通りは西から「1本目」「2本目」「3本目」と呼ばれていた。
ゲイバー「つぶらな瞳」は1本目にあり、九一が今歩いているのは2本目だった。
九一は確信に満ちた足取りで雑居ビルに足を踏み入れ、エレベーターに乗り込んだ。
3階のボタンを押す。
建物同様に古くて狭いエレベーターは上昇しながら小刻みに揺れた。
チンという呼び鈴のような音がしてエレベーターが止まった。
ドアが開くとそこはもう受付だった。
ソープランド「ダイヴァース」。
「多様性」を意味する店名の通り、コンパニオンの国籍は様々だった。
九一はソープランド自体初めてだったが、「ダイヴァース」はコンパニオンが美人なことで有名だった。
体格の良い男が二人、受付カウンターの前に立っていた。腕を組んで直立している。
白いシャツに黒の蝶ネクタイ、黒のパンツをサスペンダーで吊っていた。
両者とも清潔な身なりではごまかし切れない暴力性を発していた。
受付兼用心棒だろう。
「いらっしゃいませ」
男たちは丁重に迎えた。
カウンターの向こうには年配の女性が立っていた。
白いワイシャツに黒のベスト、玉ねぎのように髪を頭頂部にまとめていた。
濃いめの化粧を施し、不自然なほど豊かなまつ毛を付けていた。
老婦人は無愛想だった。
何も言わずにカウンターの上のアルバムを開いた。
この中から選べということだろう。
うわさ通り写真の女性はどれも美しかった。
右上に国旗と国名が記されていた。
九一はソヨンという名前の韓国人女性を選んだ。
オプションは?と聞かれたが、よく分からないし説明されるのも面倒なので、なしでいいと答えた。
「それではご案内します」
男の一人が先に立って歩き始めた。
階段で1階分だけ下に降りた。
フロアを左に曲がると廊下がまっすぐ伸びていた。赤いカーペットが敷いてあり、両側に扉が四つずつあった。
九一は左側の1番奥の部屋に案内された。
男は九一のためにドアを大きく開けた。
「どうぞ」
部屋は二つに分かれていた。
手前の部屋にはマッサージ台が置かれていた。
奥の部屋はガラス張りのシャワー室で、そこにもマッサージ台があった。
「そちらに掛けて少々お待ちください」
九一は言われるままにマッサージ台に腰を下ろした。
男は部屋を出て行った。
九一は室内を見渡した。
マッサージ台の他には小さな丸テーブルが一つあるだけだった。その上にガラスの灰皿、灰皿の中にライターが置いてあった。まさにやるためだけの部屋だった。
九一は煙草を取り出し火をつけた。
初めてのソープランドで我知らず緊張しているのか、気づくと性欲が後退していた。
激しい性欲に突き動かされてここまで来たのに、それが今は鎮火していた。
ノックの音がして返事をする前に扉が開いた。
ガウン姿の女が入ってきた。
写真通りの女だった。
長い黒髪で背がすらりとしていた。
切長の瞳はわずかに潤んでいた。
「アンニョンハセヨー、こんにちはー」
女は笑顔で挨拶をした。
作り笑いのようにも見えた。
九一は特に返事をしなかった。
こんにちは、と返すのは間が抜けている気がした。かと言って他に何と言っていいのか分からなかった。
女は返事がないことなど気にしていないようだった。
服、脱いで、と不自然なアクセントのある日本語で九一に言った。
「全部?」
九一が聞き返すと当たり前でしょというように頷き、手本を見せるようにガウンを脱いだ。
下半身を覆う白の下着1枚だった。
この後2人は交わるのだが、互いが運命の相手になろうとはまだ思いもよらなかった。
(つづく)
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