第三章:文化の架け橋
春から夏へと季節が移り変わる中、咲は着実に言語の記録を進めていた。彼女の文字体系は、徐々に部族の若者たちの間で学ばれるようになっていた。
ある日、*Peth₂-tērが興奮した様子で咲のもとを訪れた。
「*Kʷekʷlos newos gʷem-」(新しい車輪が来た)
咲は耳を疑った。「車輪」という単語に使われている音の組み合わせが、明らかに彼女の知る再構成形と異なっていたのだ。
(言語変化の瞬間を、この目で見られるなんて!)
急いで岩場に向かい、新しい単語を記録する。その過程で、咲は重要な発見をしていた。農耕に関する語彙が、明らかに異なる言語系統から借用されているのだ。
それを確認するため、咲は*Peth₂-tērに農耕民との交流について尋ねた。
「*H₂eg-ros-jo kʷei?」(農夫たちはどこに?)
彼は南の方向を指さした。そこには、まだ見ぬ文明が待っているはずだった。
数日後、咲は*Peth₂-tērと共に農耕民の集落を訪れた。そこで彼女が目にしたのは、まったく異なる文化だった。
泥レンガの家々が整然と並び、畑には麦が実っている。人々の言葉は、明らかに印欧語族とは異なる音体系を持っていた。
(これは……原アフロアジア語族かもしれない)
農耕民たちは、遊牧民である*Peth₂-tērたちを警戒した様子だった。しかし、咲が彼らの言葉をまねようとすると、表情が和らいだ。
特に、年老いた農夫が親切に接してくれた。彼の名は「アブ・カリム」。その名前自体が、セム語族の特徴を持っていた。
「私たちの言葉を学びたいのか?」
アブ・カリムは、ゆっくりと丁寧に話してくれた。咲は熱心にうなずいた。
それから毎日、咲は二つの集落を行き来するようになった。両方の言語を学び、その違いを記録していく。特に、農耕に関する語彙の違いは顕著だった。
例えば、「種を蒔く」という概念。遊牧民たちは「*seh₁-」という語根を使うが、農耕民は全く異なる音素で表現する。しかし、徐々に遊牧民たちも農耕民の言葉を取り入れ始めていた。
(これこそが、アナトリア仮説が示唆している文化と言語の相互作用の証拠!)
咲は興奮を抑えきれなかった。目の前で起きている言語変化は、まさに彼女の論文で予測していた通りのプロセスだった。
ある日、アブ・カリムが咲に尋ねた。
「おまえの文字は、私たちの言葉も書けるのか?」
咲は考え込んだ。彼女の文字体系は、印欧語の音体系を基に作られていた。しかし、若干の修正を加えれば……。
「できます。少し改良が必要ですが」
その日から、咲は文字体系の拡張作業を始めた。セム語特有の咽頭音や強調子音を表現するための新しい記号を考案した。
二つの文化の架け橋となっていく中で、咲は自分の立場の重要性を痛感していた。
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