狩人の詩 (3)

「逃げろ」

その狩人の冷静な声が、まるで鋭い刃のように少年の耳に突き刺さった。その一言によって、少年はようやく自分がおかれている情況を理解し始める。


目の前で横たわる友の姿。血の匂いが鼻をつき、友の鋼の鎧にはいくつもの傷が刻まれている。視線を上げると、狩人と猛獣の間に張り詰めた空気が漂い、その緊張感が彼の全身を硬直させた。


「……っ!」

喉が詰まり、何か言葉を発しようとするが声にならない。彼はただその場に立ち尽くしていた。体は震え、冷や汗が背中を伝う。頭の中は真っ白で、どうすればいいのか分からない。


しかし、狩人の次の一言が彼を現実に引き戻した。

「今すぐ仲間を連れて、安全な場所へ行け」

その言葉は、命令というよりも、冷静な状況判断に基づく指示だった。その確かさに、少年は思考を完全に奪われた。


「……安全な場所に……?」

かすれた声で繰り返した少年は、次第にその言葉に縋るような気持ちになっていく。自分で考えることをやめ、その命令に従うことだけを目的とすることで、恐怖から目を背けようとしていた。



少年は無意識のうちに傷ついた友に手を伸ばした。その手は震え、力が入らない。

「大丈夫……運ばなきゃ……」

誰に言うでもなく、呟く声が漏れる。だが、自分が何をしているのか、本当に理解しているわけではなかった。ただ手を動かし、友の体をなんとか引きずるようにして動かし始める。


今の彼は、まるで感情をどこかに置き忘れたかのようだった。心が凍りついた状態で、ただ命令に従うことだけを目指す――その姿は、感情を持たない荷馬車のようだった。



狩人の指示が全てだった。自分で考える余裕などない。胸の奥に浮かび上がったのは恐怖でもなく、悔しさでもなく、ただ目の前の「次にやるべきこと」だけ。

「早く……安全な場所に……連れていかなきゃ……」

少年の中で繰り返されるのは、その単調な思考だけだった。それはまるで、壊れた歯車が同じ場所で空回りし続けるような感覚だった。


友の体を抱える少年の足取りはふらついていたが、それでも何とか前に進んでいた。狩人の声に感じたかすかな嘲りや、彼を見下しているのではないかという疑念――それらを考える余裕など、今の彼には全く無かった。


ただ一つの命令、それが彼を動かしている唯一の力だった。



----------



カタルパは、自分自身に腹を立てていた。

矢を外したことが理由ではない。百発百中などというものは幻想であり、それを狩人としての理想に据えるのはただの自惚れだ。


足を挫いたことが理由でもない。突然の攻撃に対応し、最悪の状況を回避しただけでも十分な成果と言える。そこから先の出来事は、もはや運不運の問題に過ぎない。


彼が腹を立てている原因――それは自分の判断だ。

獲物を見くびった。狩人として、決してしてはならない思い込みをしてしまったのだ。


「前足を負傷しているから大した動きはできないだろう」「その体型では素早く動けるはずがない」――そんな安易な決めつけが、現状を生んだ。その結果、今この場で獲物と対峙し、弓を構えることすらままならない状態に追い込まれている。カタルパは己の未熟さに歯噛みした。



二人――いや、一人と一頭は、じりじりと互いの間合いを計りながら動き始める。

剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、木々の影を利用して回り込もうとし、カタルパはその動きを冷静に追いながら、射線に障害物が入らない位置を取ろうと足を進める。


周囲は、鬱蒼とした森に囲まれた狭い空間だ。木々が密集し、風の通りすらほとんどない。湿度が高く、汗がじわりとにじむような蒸し暑さが肌にまとわりつく。カタルパは鍛えられた身体で汗を流すことこそ抑えているが、それでも額に薄い湿り気を感じた。一方、剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、この環境に適応しているかのように落ち着いて見えた。


「……密林の虎は、この湿度を好む。だが、獅子は?」

カタルパは心の中でそう呟き、慎重に相手を見極める。もちろん、剣歯獅子が密林で狩りをする生物ではないことなど知る由もない。だが、侮ることを恐れ、虎に関する知識を基にして対応しようとしていた。狩人としての本能が、わずかな油断すら許さない。



互いに分かっていた。

次の一撃が、この戦いの勝敗を決める――そのことを。


剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェは、前足に受けた深手の痛みのため、一気に攻め込むことができずにいる。傷からにじむ血が地面に染み込み、息遣いも荒い。だが、その鋭い瞳には未だに強烈な殺気が宿っていた。


一方のカタルパもまた、まともに弓を構えられる状態ではなかった。足を挫いた痛みが響き、力を込めるたびに膝がわずかに震える。

「確実に仕留めなければ、次は俺がやられる……」

彼の心に宿るのは、狩人としての冷徹な覚悟だった。軽率な行動は命取り――その思いが、カタルパの全身を緊張させていた。



木々に囲まれた空間で、二つの影がゆっくりと動く。互いに相手の出方を伺いながら、細かな一歩を刻んでいた。木の根を避ける足音、葉がかすれる微かな音――そのわずかな物音すら、異様に響くように感じられる静寂の中。


カタルパは、手にした弓を微かに持ち直した。

「今の俺には、一撃しかチャンスがない」

狩人の本能が、彼に残された可能性を冷静に計算していた。獣を仕留めるか、仕留められるか。そのどちらかしかない。


剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの瞳が一瞬光を放つ。それは、次に動く瞬間を見定めている合図だった。


互いの呼吸が重なるかのような緊迫した時間が流れる。汗が滲む肌に風はなく、森の湿度が皮膚にまとわりつく。それでも、カタルパの視線は獣の動きから一瞬たりとも外れない。


次の一撃――その一瞬のために、全てが張り詰めていた。



----------



少年たちが道に迷うことなく村へたどり着いたのは、まさに奇跡と言っていいだろう。

咲き乱れる白い花も、流水で磨かれた巌の苔も、少年たちにとって目印にはならなかった。目に映ってはいたかもしれないが、それらに気を留める余裕などなかった。ただひたすらに、その場から離れること――それだけに全ての意識を注いでいた。


だからこそ、急に視界が開け、種付け前の畝が広がる田畑が見えたことにも気づかず、小鳥たちのさえずりが高く軽やかなものに変わったことにも耳を貸さなかった。彼らは、自分たちが村に到着した事実すら、最初は理解できなかったほどだった。



黄色の陣羽織サーコートの少年が、重装備の青い陣羽織の少年を抱えてここまでたどり着けたことは、それだけで賞賛されるべきことだった。

青い少年は板金製の全身鎧を身にまとい、その上、剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの牙によって深い傷を負っていた。そんな重さを支えながら歩き続けることが、どれだけの体力を必要とするかは容易に想像がつく。それでも彼は、食いしばった歯を離さず、一歩一歩足を前へと運んだ。


若さ――それが彼を支えた最大の要因だったのかもしれない。だがそれだけではなかった。少年は、貴族の子弟としては十分鍛錬を積んでいたのだ。おそらく、それがなければ途中で力尽きていただろう。


剣歯獅子ゼーベル・ツァーン・リューヴェの襲撃を防ぎきったことが、彼の能力を物語っていた。彼の剣捌きは見事で、騎士としての基本をしっかりと身につけていた。だが、それはあくまで「基礎」だった。初めての実戦という緊張感と恐怖の中、思うように動けなかったのも無理はない。

経験がなかっただけ――それは、彼が能力に欠けているわけではない証だった。



しかし、その「経験のなさ」は全てを悪い方向へと導いた。

友人を背負い、村へ向けて一歩一歩進むたびに、彼の胸には新たな怒りと恥辱が募っていった。

食いしばるように結ばれた唇は、次第にさらに固く結ばれ、伏せがちな顔の中で彷徨う目は、何かを必死に探し求めていた。


だが、その「何か」が何であるのか――それすらも彼には分からなかった。


「俺は……」

言葉にならない声が胸の奥で震えた。


少年は、自分自身に怒りを抱いていた。

友人が襲われている時、腰を抜かして小便を漏らし、何もできなかった自分に――そして、そんな自分を許せないまま、ただ剣を闇雲に振り回していただけの無様な自分に。彼は自分を見限りかけていた。


「なんで……なんで動けなかった……!」


彼の中で繰り返される自責の声。脳裏には、襲い来る剣歯獅子の牙、その鋭さに恐怖で動けなくなった瞬間が何度も何度も浮かび上がった。その時、どうすれば良かったのか――何をすれば友人を助けられたのか――その答えを彼は持ち合わせていなかった。


彼は自分が何を求めているのかさえ分からなかった。ただ、「何かが足りない」と感じるだけだった。そして、その「足りない何か」が、自分に与えられることはないように思えていた。



少年は、それでも歩き続けた。足が震え、疲労が体を蝕んでいく中で、彼は自分に問い続けていた。

「何が足りない……? 俺は……何をすれば……」


その答えが見つかることを願いながら、少年は視線を伏せたまま村への道を進んだ。



「あんた……いえ、若様。どうなさいました?」

少年の姿を見つけた男は、彼が身にまとった立派な甲冑に気づき、慌てて口調を改めた。


最初に目に飛び込んできたのは、重傷を負った友を抱え、引きずるようにして歩く黄色い陣羽織サーコートの少年だった。その姿は異様そのものだった。少年の顔には血の気がなく、表情は虚ろで、まるで幽鬼ファントムのように脇目も振らず村へ向かっていた。


「若様?」

男は再び声をかけたが、少年は何も答えず、まるで彼の存在すら認識していないかのようにその横を通り過ぎようとした。


男は一瞬、そのまま見過ごそうかとも思った。だが、異様な少年の様子と、友を抱えた姿に嫌な予感を覚え、改めて問いかけた。

「若様、どちらからいらしたんです? どなたかに急ぎご用ですか?」

その声には、恩を売りたいという下心よりも、後難を恐れる気持ちが混じっていた。村人にとって、外から来た貴族の子弟は厄介な存在だ。助けて礼を言われるならまだいい。だが、何か手を差し伸べずに死なれでもしたら、それがきっかけで領主筋やその縁者から理不尽な報復を受ける可能性だってある。


男は少年の顔をじっと見つめ、その異様さに気づいた。

「……ああ、この顔は……」

記憶が蘇る――それは、かつて初めて森に入った若者が、その場で父親を亡くしたときの顔と同じだった。恐怖とショック、そしてまだ現実を受け止めきれていない虚ろな表情。それを見た瞬間、男は胸の奥に嫌な重みを感じた。


「こっちです、若様」

男は静かに少年の肩に手を置いた。その瞬間、少年はびくりと体を震わせたが、それでも目を合わせることもなく、反応らしい反応を見せなかった。それでも、男はあきらめずに話しかけ続けた。

村長むらおさの家までお連れします。まずはそこで落ち着きましょう」

そう言いながら、男は少年の肩に手を置いたまま、ゆっくりと村長の家へと誘導していった。



少年が村人に見つかり、駆け寄られたときも、彼はその状況をほとんど理解していなかった。


足元の土が固くなり、周囲に人影が増えたことにも気づかない。ただ足を動かし続けている間に、いつの間にか友は簡素な部屋に寝かされ、その傷の手当が施されていた。彼はその光景を認識してはいたが、頭の中でそれを「理解する」ことはできていなかった。


少年の意識は現実から遊離し、自分自身の中へと深く沈んでいた。

彼の心は、自分自身への憎悪と恥辱に苛まれていた。


「俺は……なんで……」

少年の視線は床に落ちたまま動かない。


村人たちは親切だった。手際よく動き、友の傷を縫い、血を洗い流し、包帯を巻く。だがその親切さは、少年にとって救いではなかった。むしろ、その一挙手一投足が、自分自身の無力さを突きつけるように感じられた。

彼の心には、村人たちが密かに嘲笑しているという妄想じみた思いが広がっていた。実際にはそんなことはないと分かっていても、その感情を拭うことはできない。


「自分を守ることもできない。友を守ることもできない」

その現実が、彼を無力感の底へと押し込んでいく。




友人が運び込まれ、村長の家らしき場所に寝かされたときも、少年は何も感じていなかった。周囲で村人たちが何かを話し合っている声も耳には入らず、ただぼんやりと、先ほどの老狩人とのやり取りを思い返していた。


老狩人の冷静な言葉、鋭い目、そして戦いの中で見せた圧倒的な強さ。それに対する憧れと、自分への嘲笑の記憶が入り混じり、心をかき乱す。


「俺は……あの人とは違う。全然……違う」

そう呟くと、少年はぼんやりとした目で、誰かが自分の甲冑に手をかけるのを感じた。


甲冑が剥がされていく――それは、少年にとって自分を守る最後の砦だった。硬い鎧が外されるたび、むき出しの自分が現れる気がして、居たたまれない感情に襲われる。

「……剣も……」

そう感じた瞬間、全身に鳥肌が立った。自分の力不足を守るかのように握りしめていた剣もまた、手元から奪い取られていくように思えた。


少年はただ無言でそれを受け入れるしかなかった。胸の中には、冷たい虚無感と、それに押しつぶされそうな自分がいるだけだった。

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