第31話 エアハルトの悲しみの根源

 夫の逆鱗げきりんに触れてしまった……

 

 馬車が家の玄関前に停止すると、エアハルトは黙ってリーゼロッテの座席ベルトを外した。

 リーゼロッテの腕をつかむと馬車から下ろす。

 一人玄関先に降ろされたリーゼロッテは、呆然と走り去る馬車を見送った。

 

 夫を怒らせてしまった……おそらく夫が一番話したくないことだったのだ。それはそうだ、自分の家族が殺された話など、口にしたいわけがない……

 わかってはいたけれど、いてしまったのだ。夫の人生で一番の悲しみを共有したい……いや、共有なんて無理だけど、せめて話を聞いて、ただその辛かった心を抱きしめてあげたい……そう思うのは私の我儘わがままに違いない。傲慢ごうまんであったとも言えるかもしれない。

 夫のつらかった過去をほじくり返して、その地獄のような苦しみを思い出させて、いったい私は何をしたかったのだろう?

 

 リーゼロッテはゼンマイ仕掛けの人形のように歩いて、自室に上がった。

 家令のクラウスが何か言っていたような気がするが、全く頭に入ってこない。侍女のエルが慌てたように部屋に飛び込んで来た。

「奥様、何があったんです?」

 心配する声だ。乾いた口をこじ開けて言葉を絞り出す。

「……何かあったと思うの?」

「思いますよ。その顔を見れば……」

 エルはまだリーゼロッテの顔を正面から見たわけではない。けれどそれでもわかるくらい、リーゼロッテの様子がおかしいと察してくれている。

 

「エル……私……」

 リーゼロッテは部屋の真ん中に立ちつくすと、エルに背中を向けたまま、静かに肩をふるわせた。

「だ……だん、な…さまを、お…怒らせて、しまったの……」

 苦しくて、嗚咽おえつが出るのも止められず、言葉が出て来ない。

「……奥様……」

 エルがリーゼロッテにそっと歩み寄って肩を抱きしめてくれた。その腕が温かくリーゼロッテの心を包んでくれる。

 よしよしと背中を撫でられて、母のことを思い出した。幼かった頃、負けず嫌いだった私はいつも兄と競い合っていた。3つ違いの兄にかなうわけがないのに競っては負けて、その度に母がなぐさめてくれたっけ。

「大丈夫ですよ、落ち着いて……」

「あり、がとう……」

 エルは優しくリーゼロッテを着替えさせ、湯浴みをさせ、寝衣ねまきを着せて落ち着かせてくれた。

 それからゆっくりと話を聞いた。

 

 「……それは、頑張りましたね」

 (そう、私頑張ったの。でも旦那様には伝わらなかった……)

 頑張ったなんて、烏滸おこがましかったのかもしれない。ずけずけとエアハルトの踏み込んで欲しくないところに、土足で踏み込んでしまったのだ。

 

 「まあまあ、一歩一歩進みましょう。明けない夜はない、と言うじゃないですか。長い冬でも必ず春は来ますよ」

 エルはそう言って慰めてくれるけれど、私の想いは伝わらなかったばかりか、旦那様の機嫌を損ねてしまったのだ。

 そしてきっと今宵こよい旦那様は、あのひとのところに行ったのであろうから……

 そう思うと悲しくて涙が止まらない。自分はなんとおろかだったのだろうと思う。


 エルは紅茶を下げると、温かいミルクをれて来た。夕食も喉を通らないリーゼロッテはその温かいミルクを一口、二口と飲み込んだ。

 眠れば、明日は元気になれるだろうか? そう思った……

 エルにおやすみを言って、ベッドに横になる。目をつむっても頭の中をエアハルトの言葉だけがぐるぐるとよみがえる。


(眠れない……眠れるわけがない)

 起き上がってガウンを羽織はおる。

 所在なくうろうろと自室の机の引き出しを開ける。書きかけの原稿を眺めたが、今は何も書けそうもない。

(図書室に行って本でもあさろう……)

 そう思って部屋を出かけたが、私が部屋を出れば、もしかしたらエルが気づくかもしれない……夫婦の寝室を通って行こうと、そちらのドアを開ける。広くがらんとした寝室だ、夫の存在が無いとこんなにも空虚なのだ。きれいに整えられたベッドを見て、また悲しみが心の中に込み上げて来る。

 ふと、夫の私室へのドアが気になり、手を伸ばす。ガチャリと開いた。鍵は掛かっていなかった。

 

 自分から夫の部屋に行くことはあまりなかった。夫がいない私室に入るのはいけないことだと思ったし、いる時は仕事で忙しいだろうから尚更だ。部屋に入ると、当たり前だがベッドがあった。なんとなく “ここなら眠れる” ような気がして、ベッドに潜り込んだ。

 かすかにエアハルトの香りがする……その香りに包み込まれて、いつの間にかリーゼロッテは眠りに落ちていた。

 

 * * *

 

 「お前に本当のことを話す。聞いてくれるか?」

 浴室から出て来たエアハルトはバスローブを羽織って、ベッドに腰掛けていたリーゼロッテの手を取った。

 そのまま手を引いてカウチソファへ誘うと、リーゼロッテを座らせた。

 自身はテーブル越しに反対のソファーに掛けると、テーブルの上に置かれていた水差しから、コップに水を注ぐ。

 その水をごくごくと飲み干して、リーゼロッテに尋ねた。

「お前も飲むか?」

 リーゼロッテがかぶかぶりを振ると、エアハルトは話し始めた。


「俺が十七才の時だ。俺は学院を出てもう家業の仕事を始めていた。これからは “銃のの時代” が来ると思ってな。任されたばかりの新しい武器のことで頭がいっぱいだったんだ。

 その日は、皇都の郊外で皇帝の誕生日を祝う狩猟大会、『鷹狩り』が催される日だった。主な貴族という貴族はその『鷹狩り』に参加していた。我が家は両親が招待されていて、小さかった弟と妹は、鷹狩りの鷹が見たくて付いて行ったんだ。弟はまだ八才で、動物が好きだったのさ。

 お前も知っての通り、貴族は序列や作法にうるさいだろう? 我が家は下級貴族だから、上級貴族に道を譲って会場に着くのも最後、帰るのも最後だ。

 下級貴族が上級貴族よりもたくさんの護衛を連れて行くわけにはいかないから、その日の護衛は少なかった。精鋭だけを集めて数人だったんだ。ツェーザルもその一人さ。騎馬兵が数人馬車を守り、暗くなった道を家に向かっていた。

 そんなとき、何者かに馬車がおそわれたんだ。

 襲った奴らは真っ先に御者ぎょしゃを殺し、馬を止めさせた。

 そいつらはまるで兵士のような動きで連携を取り、周りの騎兵をかわして馬車の中に突入した。そして、馬車で寝ていた弟と妹、両親を殺したんだ。妹はまだ五才だった。

 ……俺はそんなことも知らずに、山の中の火薬工場で新しい銃に詰める火薬の相談なんかしてたんだよ……

 弟と妹は、剣で一刺しにされていた……母は弟たちをかばうように倒れ、背中から刺されていた。……父は応戦したらしく、あちこちに刺し傷があった……」


 そこまでエアハルトは一気に話すと、リーゼロッテの顔を見つめた。

「ここまでが、あの日あったことだ。俺がけつけた時には、もう亡骸なきがらは家に運ばれて、棺桶かんおけの中に静かに安置されていた。弟と妹の棺桶が小さくて……信じられなかった……」

 

 リーゼロッテはじいっと両手のこぶしを握りしめながら、その話を聞いていた。

 その菫青色きんせいしょくの瞳からは、ぽろぽろと涙があふれ続けている。

 なおもエアハルトは言葉を続ける。まるで今話してしまわなければ、その記憶がこぼれ落ちて無くなってしまうかのように、話し続けている。


「俺は、その時誓ったんだ。両親と弟、妹の亡骸なきがらに……必ず、真犯人を追い詰めて息の根を止める、と」

 エアハルトの眼光が一段と暗く鋭くなった。

「そしていろいろ調べて、“一番怪しい人物” というのが、エクスラー侯爵なんだ……あいつは以前から我が家を目の敵にしていた。エクスラー家も武器を扱っているからな……我が家を吸収して傘下さんかに収めたいんだ。その動きは随分前からあった。俺が新しい武器を主力にしようとしているとわかってから、その動きが活発になった。おそらく、親兄妹を奪って気力を無くせば言いなりになると思ったのだろうな……の明けぬうちから、俺に接触して来たんだ」


 リーゼロッテは夫が背負っているものが途轍とてつもなく大きいこと、その胸に抱える闇の深さに心が痛んだ。

 これがこの人の一番深い心の傷なのだ。傷は少しずつ癒えはしても無くなることはない……時々思い出したように血を流すのだ。

 傷を癒すことはリーゼロッテにはできないかもしれないが、家族を亡くした寂しさをなぐさめることぐらいはできるかもしれない。そう思い、リーゼロッテは勇気をふるい起こす。

 リーゼロッテは立ち上がると、エアハルトのそばへ行った。彼の頭を両の腕で包み込むと胸に抱き締めた。

(この人の心を、少しでも温めることができますように……)


 夫の髪はまだ濡れていて、石鹸の匂いがする。

 リーゼロッテの胸に顔を押し付けられていたエアハルトが、見上げて来た。

「もういいか……? そろそろ我慢がまんができそうにないんだが……」

「はい……?」

 リーゼロッテが両手で涙をぬぐうと、エアハルトのたくましい腕が腰に回されてからだが持ち上げられた。そのままベッドまで運ばれる。


 エアハルトの目が野獣のように輝いている。

「……お前は……たいした女だな……」

 そう呟きながら、愛しい女のからだを愛していく。舌で味わい、唇で吸い、手の平でさすり、握りしめる。

「ああ……エアハルト……」


 長い夜だった。薄明が迫り、辺りは白み始めている。

 二人のいとなみはまだまだ続くのだった。

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