第22話 ……幸せ?(疑問符)

 賓客室ひんきゃくしつに入って行くと、デルフィーノの着替えをメイドが手伝っていた。

「下がれ」

 エアハルトが短くメイドに言うと、メイドは部屋から出ていった。

「おはよう、リーゼロッテ、エル、マティアス、クラウス。こちらのひと、ごしゅじん?」

 デルがくと、クラウスが紹介する。

 

「ご主人様、こちらの方がデルフィーノ・ラニエリ殿です。デルフィーノ殿、こちらがこのの主人エアハルト・ノイエンドルフ子爵様です」

 するとデルフィーノは姿勢を正して、舞台の上でお辞儀をするときのように、ペコリと頭を下げた。

「デルフィーノ・ラニエリ、です。いご、おみしりおきを」

「うちの馬車が君に怪我をさせたそうだな、すまなかった。少し話がしたいんだがいいかな?」

 賓客室の長椅子に座り直し、話を聞くことになった。

 家令のクラウスはデルフィーノの国の言葉もしゃべれるらしく、主人の言うことを隣で訳しながら伝えていく。そうして話を全て聞き終えると、エアハルトが言った。


「君は隣国の歌劇団の歌い手で、国王夫妻に懇意こんいにされていた。だが、王妃に個人的に離宮に呼ばれるようになり、体の関係を結んだ。そのことが国王の耳に入り、たびたび命を狙われることになった。折よく隣国へ出張公演の話があり、『逃げるならこの時しかない』と思い逃げた。暗い道を走って逃げていると、馬にられた……これで、合っているか?」

「はい、ただしい、はなし」

「フム。では聞こう、君は今後どうしたいのだ?」

「じぶん、しにたくない……ころしや、にげる」

「追手の届かない国へ送ることはできるが、そのあとは何をする? また歌いたいか?」

「じぶん、うたう! それだけ! ほか、できない」

「わかった……だが、この家には置けない。しばらく君の身柄を預かってくれるところを探しておく。怪我が治ったら他国にでも送ってやる。それでいいかな?」

 デルフィーノはエアハルトの言ったことを、もう一度クラウスから自国語で聞き直すと、頭をこくこくと振って感謝した。

「ししゃくさま、ありがとう、かんしゃします」

「それではこれで、この話は終わりだ。エル、この男がいつでも出られるように用意しておいてくれ。それから……リーゼロッテはちょっと俺の部屋に来い」


 そう言われて、ドキリとした。なんだか、怖い気がするのだが……行かないわけにも……

 エアハルトについて部屋に入ると、入った途端振り向きざまにドンッとドアにい止められた。鋭い眼光で見下ろしてくる背の高い夫が、リーゼロッテの左手首をつかんだままドアに手を突いたのだ。

 一瞬、恐怖で全身に鳥肌が立った。


「お前、俺のいない屋敷に俺の知らん男を連れ込んだのだな……」

 恐怖で声が出ない……

(いいえ、落ち着くのよリーゼロッテ。恐怖は自分の心の中にしか存在しないのよ、状況をよく観察するの……)

 そう思い直して、言葉を振りしぼる。

 

「旦那さま……申し訳ございません。緊急時だと判断したため、家に連れ帰りました……」

「ほう。それでは、あいつがおとりで、おそわれていたらどうする気だった?」

「……そ、それは、考えが至りませんでした……」

「お前は、用心が足らんな……おおかた、あの歌劇役者に見惚みとれて考えることもしなかったのだろう」

「いいえ、歌劇役者と気付いたのは、馬車にくくり付けてからです。エルとマティアスが周囲の気配に気を配っていたと思いますし、そこでどうこう考えるよりは、連れ帰った方が早いと判断したのです」


「……お前は本当に用心が足らん。同じ屋根の下に知らぬ男を招き入れて、こんなことをされたらどうする?」

 夫の唇が不意にリーゼロッテの口を塞いだ。

「んん……」

「それにこんなことも…」

 いきなりもう一方の手で胸を鷲掴わしづかみにされた。

「やっ。だ、だんな様……」

 服の上からギュッと頂上をつままれ、思わずのけぞった。

「お前など、男の力でどうにでもなるんだぞ……」

「あっ、いやぁっ」

 スカートをめくり上げられ、下着に手が入ってくる。

 

「そんな甘い声を上げて……あの男とわけじゃないだろうな……?」

 手が、指が、躰に侵入して来た。

「もう二度と家に知らぬ者を入れるな、わかったな?」

「……はい……」

「これはお仕置きだ……」

 リーゼロッテはドアに向かって押しつけられ、エアハルトにされるがままになった。後ろから押さえ込まれ激しく突き上げられて、息ができない。



 くやしい……自分では何もかもエアハルトにかなわない……

 コトの後、長椅子に座ってエアハルトに肩を抱かれながら、自分の力の無さに悲しくなる。

「お前は、俺のなんだ。頼むからもっと慎重に行動してくれ」

「……はい」


(『大事な妻』ってなんですか? 私に意思などりますか? 子がなせればそれでいい妻ですか?)


 顔が無表情になっていたらしく、エアハルトに気づかれる。

「どうした、元気を出せ」

 額にチュッと口付けられる。いつもはこうされることももっと嬉しいのに、今は何もかも色褪いろあせて見える。だが、顔に力を入れて微笑ほほえんで見せる。

「大丈夫ですわ、旦那さま。ちょっと激しかったものですから……」


 物語を書こう。私にできること、私にしかできないことを。

“カストラートに恋をした王妃さまの物語” もしくは “王妃さまに恋をしたカストラートの物語” 書いてやろうじゃないの!

 そう考えたら、少しだけ元気が湧いて来た。


 部屋に戻り、机に向かってペンを取る。

 紙を広げ、インクビンにペン先をひたす。

 まず何と書こう、そう思ってペン先を見ると小刻みに震えている。

 手が震えているのだ……一文字も書けず、ただ虚無きょむ感が広がる。

 

 自分が思うよりショックだったのかもしれない。

 でも、何がそんなにショックだったのだろうか?

 エアハルトが怖かった? それもある。

 自分の判断が甘かった? それもそうかもしれない。

 自分が無力だと思い知った?

 どれも当てはまって、なんだか身動きが取れない。


 ポタリと音がして、紙の上にいびつな模様が広がる。

 気がつくと涙が頬を伝っていた。目に映った景色がぼやけて、こぼれ落ちてゆく。

 紙の上に落ちた涙のあとはポツポツといくつも広がり、模様となってみてゆく。

 実家で、貧しいけれど好きな物語を書いているあいだは、いつも幸せだった。

 今は立派なお屋敷に住み、きれいな服を着せてもらって、食べきれないほどの美味しい食事も出してもらえる……幸せ?

 なぜか、“幸せ” に疑問符が付いた。



「奥様……」

 エルが恐る恐る部屋に入って来た。あわてて涙をいて、顔を上げる。

「デルフィーノ様がお立ちになります。『奥様に一言お礼をと』おっしゃっています」

「えっ、もう出て行くの?」

 

「はい、旦那様が『信用のできるところに預ける』とおっしゃって……」

「わかったわ。旦那様は?」

「これからまた、出かけられるようです」

「そう……」

 リーゼロッテは化粧台の前に立つと、少しお化粧を直した。

「行きましょう。お待たせしては申し訳ないわ……」


 玄関ホールに何人かが立っているのが見えた。

 エアハルトとギルは何かを話していたが、リーゼロッテの顔が見えると話を終えて、待っている。

 その横にデルフィーノが心許こころもとなさそうに立っていた。


 エアハルトがリーゼロッテに歩み寄ると、じいっと顔を見た。

「お前、泣いていたのか……?」

「いえ、目にゴミが入りましたの……」

 エアハルトはフッと笑って言う。

「お前は、絶対認めないのだな……意地っ張りなやつだ。これから、歌劇歌手を知り合いのところに連れて行く。大丈夫だ、殺しはしない。別れのキスはさせるなよ、殺したくなるからな」

「わかりましたわ、握手も控えます。殺させたくないので……」

 そう答えると、エアハルトは先に出て行った。


「デルフィーノ様、ごめんなさい。このままでお別れですわ。またどこかで、あなたの歌が聴けますことを祈っております」

「リーゼロッテ、ありがとう。しばいかく、いつか、うたう……」

「そうですね、書きますわ。お元気でいてくださいね」


 デルフィーノは、エルやクラウス、他のメイドたちにも挨拶して、みんなに見送られて出て行った。


 部屋に戻ると、エルが紅茶をれてくれた。

「よかったですね、旦那様が寛大かんだいで……」

 その言葉に、リーゼロッテはピクリと眉を動かす。

「あれって、寛大なの?」

「寛大ですよー。怒られただけで終わりましたし。誰も死ななかったじゃないですか」

「もしかして、家に入れたら殺されるかも、ってこと?」

「そうですよ。デルフィーノ様、殺されなくてよかったですねー。奥様はまだ来たばかりで知らなかったから、ゆるされたんだと思います」

 

 リーゼロッテは自分の左手首についた青いあざを見る。明日には紫になっているかもしれないその痣は、夫に掴まれたあとだった。

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