第19話 カストラート
「死の商人? 何だそんなことぐらいで席を立つなんて……お前らしくないな」
皇后陛下のお茶会での
「申し訳ございません……」
(そうですね、確かに私の忍耐が足りませんでした。でもでも、夫や家を
落ち込んでいると、そんなリーゼロッテを見かねてか、エアハルトがプレセントをくれた。
「そう言えばお前、
“
ゴールデンチケットである。
しかも今回の公演は隣国から来た歌劇団らしい。
『ラ・リベルタ』自由へ。なかなかいいタイトルではないか。
「ありがとうございます、旦那様! 行かせていただきます!」
できれば、旦那様と一緒に行きたかったが、南部の反乱がまだ収束しそうにない今は、それも無理な話だ。
ボックス席ならば、別に一人で行ってもいいはずだが、護衛を兼ねてエルに一緒に行ってもらうことにする。
お茶会の失敗で落ち込んでいたので、ちょうどいい気分転換になるはずだ。
ここのところ、貴族令嬢誘拐事件も収まっているので、貴族令嬢はみな買い物や観劇に忙しい。
この夜の
そして何と言っても今回の目玉は、その悲しく美しい
“カストラート” はかつては教会音楽を語るにはなくてなならない存在だった『
その残された最後のカストラートと言われているのが今回の主演、デルフィーノ・ラニエリその人だ。
カストラートとは言うが、その外見は背が高くサラサラの長い金髪。
果たして近年まで、本当に去勢手術が行われていたのかは定かではないが、その声を聞いたものの話では『天上の歌声』だと言う噂だ。
古めかしい公爵家所有のオペラ劇場の、凝った装飾が施されたボックス席は、エルとリーゼロッテがたった二人で余裕の広さである。
夜向きのドレスにオペラグラスで、優雅な観劇と
楽団の前奏が始まった。
大衆演劇の公演とは違うので動きは少ないが、やはり
その中でひときわ目を引くカストラート。
古風な衣装を着て舞台に立つその姿は、確かに男性なのだ。
だが、その声は!
……まさに天上の歌声……どこか影で女性のソプラニストが歌っているのでは?
そう思ってしまうほどの高い声。声量は男性なのに、女性の声が出ていることに、脳が
私を泣くがままにさせてください
そして『自由』に焦がれることをお許しください
悲しみが、私の苦悩の
ただ憐みのために
終わりの一語が消えた時、会場から大歓声と大拍手が起こった。
公演の興奮も冷めやらぬまま、しばらくボックス席の中で
「ハァ〜、やっぱり
「そうですね……今まで歌劇を観たいなんて思ったこともなかったんですが……これは、すごかったです!」
エルが珍しく感激してくれた。以前、大衆演劇を見て以来だ。
「ね、また見に来ましょう。旦那様におねだりして」
「そうですね。奥様はほとんど外出しないから、たまにはいいんじゃないですか?」
そんなふうに言い合って馬車で帰路に着く。
「このいい気分で、たまにはワインでも飲みたいわ」
「あ、それ。私もお付き合いします。……じつは地下のワイン倉庫にいいコレクションがあるんですよ〜」
エルが
馬車が急停止した。
馬が暴れて、静止させようとする御者のマティアスの『ドゥ、ドゥッ!』と言う声が聞こえて来る。座席に取り付けられているベルトをしっかり締めていたお陰でリーゼロットもエルも何ともなかった。
やっと止まったところで、エルが狭い窓から外を確認した。
「何か、人ですかね……馬が
「ええっ、大変じゃないの!」
「奥様はこのまま、車内でお待ちください。いいですね」
エルはそう言うとドアを開けて出て行った。
数分後、エルが戻って来た。
「申し訳ありません。馬が人を
「何言ってるの! すぐうちに運んで主治医を呼ぶのよ!」
「は、はい、奥様」
この馬車は座面が広く取ってあって、しかも固定するベルトまで付いている。
怪我人を運ぶにはもってこいの仕様だ。
それにノイエンドルフ家の主治医なら、呼べばすぐに駆けつけてくれるだろう。
すぐにマティアスとエルが怪我人を座席に運び込んで、ベルトで固定した。
リーゼロッテは固定したその怪我人の顔を見て、思わず固まった。
「エル……この人って……?」
「そうですね……おそらく、
先ほどまで劇場の舞台で歌っていたカストラート、デルフィーノ・ラニエリその人だった。
急ぎ屋敷に
すぐに主治医がやって来た。
「肋骨が折れています。しばらくこのままで安静になさってください」
「肋骨……しばらくは歌えませんね。公演は中止でしょうか……」
青白い顔で眠っている
「そうね、歌手が肋骨を折ったんだから、中止でしょうね。エル、劇場に使いを出してくれるかしら。きっと心配して探しているわ」
「わかりました」
エルが部屋を出て行き、リーゼロッテが先ほどの歌劇公演をお思い出してため息をついていると、怪我人の目が開いた。
「ここ、どこ?」
ちょっと外国の
「ここは私の屋敷です。あなたはうちの馬車に
「……そう……」
「今、劇場に使いを出しました。みなさん、心配しているでしょうから」
その言葉を聞いて、彼はいきなり起きようとしたが、痛みでそのまままたベッドに横になった。
「わたし、ここにいる、言わないで、ください」
「え?」
「だれにも、言わないで、ください。わたし、殺されます」
「え? わ、わかったわ。ちょっと待っていて、止めてくるから」
リーゼロッテは慌てて階段を駆けおりた。今まさに使いの者が出ようとしていたところだった。
「待って! 劇場に行かないで!」
みんながキョトンとした目でこちらを見る。
「彼が、殺されるって言ってるの!」
「殺される?」
「何ですか? 穏やかじゃないですね」
「とりあえず、知らせに行くのはもう少し待ってくれる?」
「わかりました」
エルが不思議そうな顔で聞いてくる。
「何なんですかね?」
「分からないけれど、もう少し事情を
エルと二人、賓客室に戻ってみると怪我人の男はまた眠りについていた。
「仕方ないわね、また明日訊きましょう」
賓客室のドアを閉めながら、エルが何か言いたそうにしている。
「どうかした?」
「無いんですかね……彼?」
「何が?」
「彼、カストラートでしょう。本当に無いのかなって……」
エルが言っている意味が分かって、リーゼロッテは顔を赤くした。
「エル。だめよ、そんな失礼なことを言っては……」
「失礼しました。こんどそっと確認しておきます……」
「もう! エルったら……」
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