初恋の彼女と君はよく似ている。

 ――とかくこの世はままならぬ。それは人生と良く似ている。


 この一節は本の虫である親父の書斎部屋で、偶然に読んだ小説に書かれていた一節だ。


 書斎部屋は幼い僕たちにとって格好の遊び場だった。子供が無断で部屋に入るのを普通の親は嫌がるだろう。なぜか親父は僕と妹の天音には何も言わなかった。


 当時は気にもとめなかったが、いまなら親父の考えが理解できる。


 我が子にも自分の趣味である本に興味を持って欲しかったのだろう。まんまと思惑に乗っかってしまった。それまで学校の授業でやる読書感想文が苦手で、夏休みの最終日が迫って慌てて読み始めるのが定番だった。


 親父の書斎に出入りするようになったある日、僕は天音と対戦していた携帯ゲームのやりとりにも飽きて、ふと書斎の壁面に視線をむけた。


 壁一面の本棚に並ぶ一冊の背表紙にとても興味を覚えた。


 読書感想文で嫌々読まされる本とはサイズが違う。当時の僕は文庫本の存在を知らなかった。何気なくその本を手にとったのは単なる気まぐれだった……。


 僕の興味を惹いたのは文庫本の表紙に描かれたイラストだった。


 落ちてくる錯覚すら覚えそうな満月が照らし出す森を背景に、髪の長い少女が微笑みを浮かべこちらを見つめている。瞳にはまるで深い湖のような悲しみの蒼をたたえていた。


 一瞬で恋に落ちた……。


 心臓が早鐘のように高鳴り、身体中に血液が送られるのが感じられるほどの強い衝撃に戸惑いを覚えた。これが僕の初恋だったに違いない。


 頭の中で皮肉屋な自分がささやきかける。


 おいおい、頭に何か悪い虫でも湧いたんじゃないのか? 本物の女の子が苦手なお前は血迷って絵の中の少女にひとめぼれか? とんだお笑い草じゃないか!!


 だけど冷静な自分の声もまったく届かなかった。なぜなら運命の彼女と僕は出会ってしまったから。


「ああん、また失敗しちゃったぁ!!」


 僕の動揺に気つかず隣で携帯ゲームに興じる妹が大きな声をあげる。


 我に返り文庫本を上着のポケットにねじ込んだ。いや、当時の行動は違ったな。大切な子犬を抱き抱えるみたいに本を優しく扱ったのを思い出す。


 その後の僕は本の虜になった。まるで大切な彼女と逢瀬を重ねるごとく。


 没頭するとか、そんなありきたりな言葉では当時の感情の高ぶりを言い表せない。


 本のあらすじは悲劇の恋物語だった。主人公の少年は幼少期に毒親から激しい虐待を受けて育つ。彼はつねに家出を考えていた。そして高校に上がる目前に決定的な出来事が起きる。離婚に際して親権を押しつけあう両親の醜い姿を目の当たりにした彼は家を飛び出した。


 自分を愛してくれる人間なんて誰一人この世界には存在しない。捨て猫のようにあてもなくさまよった彼は子供のころに遊んだ数少ない楽しい思い出が残る森のある山を目指す。


 やっとの思いでたどり着いた深い森の中。そこにある神社の前で枝振りの良い木をみつけて彼は自殺する準備を始める。彼の背負うリュックの中身は太いロープと持ち運び可能な脚立のみ。最初から死に場所としてこの森を選んだ。


 存在自体を消してしまえばいい。自分をとりまく世界を呪う言葉は彼の口からついぞ出なかった。それほど心が純粋すぎる少年だった。


 小刻みに震える手で自分の首にロープを巻きつける。意を決して足下の脚立から勢いよく飛び降りたその刹那、少女の叫び声が彼の行動を制し、丈夫なはずのロープが切れて少年は奇跡的に生き延びることに成功した。


「……あなたはひとりぼっちなんかじゃない。だって月はいつもわたしたちを明るく照らしてくれるから」


 物語の少女ヒロインはオリザと名乗った。


 そうと同じ名前だ。


 なぜ僕はあれほど夢中になった文庫本の少女の名前を忘れていたんだろう。


 捨てられた子犬のような目をした女の子。


 泣いたり笑ったり、今朝も個室部屋で僕に甘えてじゃれついてくる。ありのままの君で構わないよ。


 記憶はときに素敵ないたずらを人生に仕掛けてくる。


 「とかくこの世はままならぬ。それは私たちの人生とも良く似ているんだよ」


 ああ、やっと思い出した。この一節は本の中の君が言ったセリフだったね。


 文庫本の中にだけ存在している僕の初恋の少女。オリザは彼女によく似ている。名前だけでなく悲しみをたたえた深い湖のような瞳も全部。


「わん!」


 ほら、さっそくお散歩の催促だ。


 熱病に浮かされたように没頭した文庫本の物語。いま思えば陳腐なお涙頂戴だったのかもしれない。


 だけど最後まで読み終わる瞬間がこないで欲しい。そう思えるほどの渇望めいた感情が当時の僕には存在していた。


 当時の自分の想いと同等な熱量をオリザとの同棲生活に感じている。


 この日々が色褪せず、永遠に続いて欲しい。


 

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