ともなき音叉 3

「栞ちゃん、この辺詳しいの?」

 丸い瞳が私を覗き込むようにして尋ねてくる。人懐っこそうな彼女はすぐに私のことを名前で呼んだ。

「………小学生の時ここに習い事をしに通ってたの。随分前だけど………」

 自動ドアが開くと冷たい空気が通り抜けた。建物の前で別れるつもりだったが、彼女が話し込むので引き際を見失ってしまった。もののついでということにして、書店の階まで案内することにする。

「何の習い事をしてたか、あたし当てるね」

 微笑む彼女が意気込みながらそう言ったので、私は黙って頷いた。別にそこまでするほど珍しいものでもないが。

 この辺りは学習塾も多ければダンス教室にスイミングスクールも揃っている。習い事を子どもにさせるなら殆どがここに集まってくるだろう。

 エスカレーターの壁にはそんな習い事の広告が幾つも張り出されている。私の二段下にいた香菜はそれらの広告に目もくれず、言い淀むことなく告げた。

「―――ピアノ、でしょ?」

 私はびっくりして思わず彼女の顔を見た。帽子のつばで少し陰った彼女の表情。

「………どうして分かったの?」

「まぁ、多いからね」

 彼女は笑ってそう答えた。

 目的の階に辿り着いた私は、帰路につくのも忘れて彼女に尋ねる。

「………そういえば、何を買いに?」

 私の言葉を聞いて彼女はあっけらかんとして返す。

「そりゃあ、あたし達、受験生だからねぇ………」

 書棚に敷き詰められた本の束。あまり興味のない週刊誌や旅行雑誌。祖父とよくやったクロスワードの棚を抜け、『受験生応援フェア』と大々的に装飾されたポップの前に来た。

「嫌そうだね、顔に出てるよ」

 私の引き攣った表情を見たのか香菜は茶化すように言う。顔になんか出るはずない。元々こういう顔をしてるんです、私。

「………別に勉強は嫌いじゃないよ。強要されるのが嫌なだけ」

 口を尖らせながら私は弁明する。誰に聞かせるでもなく、そのまま私は続けた。

「………進路、決まってないんだ。やばいよね、もうこんな時期なのに」

 妙な気分だった。今まで親にだって告げたことのない気持ちが、つい口から出てきた。どうしてか分からないけど、なんとなく、香菜になら話せるような気がした。

「わかった!だから今日トイレで授業サボってたんだ」

 冗談めかしながら言う香菜。明るい声に私は首肯する。

「………そうだね、嫌気が差してたのは、事実かも。………私って、ちゃんと大人になれるのかな………」

 未来に広がる漠然とした不安。冷たい雨が体温を奪うように、しとしとと心細さに拍車をかける。落胆を含んだ母親の瞳が怖くて、私はここまで来たんだ。

「………結局、何をやっても中途半端で、上手くいくことなんて何も無かった………。そんななのに、一丁前に高いお金払ってもらって塾なんて………」

 連なる本棚には資格関連の本がずらりと並ぶ。字面だけの意味も分からない書籍たちが、私を取り囲んで睨みつけているようだった。

「――――関係ないよ」

 凛とした香菜の言葉は静かだったけど、力強い。

「自分が何になりたいかなんて、みんな分かってるわけじゃない。栞ちゃんは自分のこと、しっかりと見つめられてるじゃん」

 不思議な存在感だった。香菜は抜き出した参考書を元の場所に収めて、たったそれだけの行為なのに、とても絵になる。

「栞ちゃん、ちょっとあたしに勇気を分けてくれない?」

 尋ねる香菜に私は表情を崩した。

「………勇気? なんの?」

「ついてきて」

 そういうと香菜は別の書架に向かって歩き出した。私は肩に引っ掛けた手提げの紐を持ち直す。

 本棚に挟み込まれた掲示を読んで、行き着いたのが音楽関連の書棚であることが分かった。譜面台で何度か見た事のある楽譜たちが、白々しくも新品同様に並ぶ。

「………なにか楽器が、できるの?」

 私は香菜にそう聞いた。

「あたしも、小さい時からピアノしてるんだ」

 彼女は返事をしながら楽譜の中から一冊抜き出して手に取る。

「音大………目指そうかなと思ってる。なんて………」

 私はなんだか後ろめたくなって口を噤んだ。こんなにはっきり自分のことを話せる香菜が、すごく眩しく思えた。私とは縁遠い、夢を追いかける人。希望に溢れた人々が、ひたすらに自身の想いを胸に抱き、人生を邁進していく。香菜は、その中の一人だ。立ち止まって耳を塞いだ私とは違う。

 だけど、そんな彼女の表情は硬い。朗らかだったさっきまでとは比べ物にならないほど緊張した瞳。………怖いんだ。香菜だって、自分が何になれるか分かってるわけじゃない。音大に入れば、他の可能性は狭まる。しかもその分勉強に時間が回せなくなって、普通の大学なんてレベルを下げないと。

 私は香菜の持っている本の表紙を見た時、昔の記憶がほんの少しだけ蘇った。癖で耳に触れながら告げる。

「………さっきも言ったけど、私小学一年生の時にピアノを習ってたの。同じ教室に、それ、凄く上手に弾ける子がいて、素直にすごいなって思った」

 香菜の持つなんてことはないピアノの教本、バイエル。だけど低学年で弾ける子はあまりいなかったかな。

「それから私、その曲が好きになってね、一生懸命練習してた。―――でも結局上手く出来なくて、習い事自体も辞めちゃった」

 私は照れ隠しするように笑って、香菜を見た。

「今思うと勿体ないなって思うんだ。続けてれば、今頃何者かになれたんじゃないかって。大丈夫、香菜ちゃん、ずっと続けてきたんでしょ? やろうよ。香菜ちゃんなら、できるよ」

 彼女は驚いている様子だった。私は言い切ったあと目線を逸らす。………なんとなく、無責任だったかなと少しだけ気まずくなった。けど、こんな子がうじうじ悩む必要なんてあるだろうか。私は彼女に、勇気をあげたかっただけだ。

「あ、あ、ありがと。ーーーーえと、あ…………それ、どんな子だった………?」

 狼狽えた彼女が慌てたように尋ねてきた。私も変だったけど、香菜もちょっと変だ。私は首を傾けて視線を上げる。

「えっと………ごめん。ピアノが上手だったことしか………。 あ、そういえば、他のレッスンの子に妬まれてたことがあったかな………」

 昔から、私はあまり人目を気にしないところがあった、だから言ってやったんだ。悪口言わずにあの子みたいに練習すれば? って。

 その甲斐あって、私は今でも人付き合いがよくない。この耳のせいもあるけど、ただ単に社会的な煩わしさが苦手だったのかもしれない。

 香菜はピアノの教本に視線を落として、

「そっか………」

 と小さく呟く。

 安心したような彼女を見て、私は微笑んだ。

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