2つの旅

「雨は元来、五穀豊穣…」


朝から地面にピチピチと音を立てる雨は、作物や、それを育てる者共に、幸運をもたらすとされているらしい。


村長がそんな話を長々としているうちにも、人々は雨に打たれ、今年の幸運を曇天に祈っていた。


空は依然として輝かなかったが、人々のきらびやかな視線は稲を含む沢山の作物に注がれていた。


「さあ、今日も稲刈りだ」


そんな時間を楽しんでいるうちに、日は暮れ、そしてまた顔を出した。


しかし、それをみて見ぬふりをするように、人々は沢山の稲、果実、山菜を一気に収穫していった。


ふと周りを見ると、もう収穫できるようなものはなかった。村のシンボルである松の巨木の下、村長は鶴の一声を放った。


「これで今年収穫する物はすべて収穫した。収穫祭は終わりだ。皆の者、ご苦労だった」


こうして収穫祭は幕を閉じたが、その後は、酒が彼らをさらに盛り上げていて、それは収穫祭をも十分に超える勢いだった。


俺は未成年なので酒が飲めない事、大人のような朝までふざけられる体力が無いことなどを考慮して、いつも通りの時間で布団に入ることにした。


 久しぶりの〝いつも通り〟に困惑しながら、俺はイリムのフレンチトーストを食べた。


もうすっかり口に慣れて、昔は少ししつこいと感じていたこの味が、今はするすると口の中に入っていく。


「いやぁ、収穫祭楽しかったな」


「ああ」


「んで、お前さんに一つ話があるんだ」


イリムの目つきが微かに変わったので、俺は正面からその目を覗き込んだ。


「実はな。俺はこれからまた馬を引いて都市まで行くんだ。収穫祭で取れたものを都市で売ることで生計を立ててる村だからな」


「都市まではどれくらいかかるんだ?」


「往復でざっと3ヶ月くらいだ。都市からの輸入物は向こうから運んでもらうようにしているから、俺が持って来るこたぁねえ。

だから、俺は税を納めるための金をとるために、収穫祭で得たもんを売るだけなんだが、これが大変でな」


「俺もついて行っていいか?」


すると、イリムはきょとんと目を丸くした。


「おお、いいが、なんかあったのか?」


「いや、都市ってとこに行ったことがなくてな。ちょっとした興味だ」


「ならよかった。この村はだいぶ時代が遅れてる上に、俺の頭はもう動かなくてな。若モンは心強いぜ」


イリムはニヤッと意地悪に笑った。


「じゃあ、話は早い。明日出発しよう。俺は必要なものを買ってくる。後でな」


「ああ」


イリムは出かけていった。


 都市には一体、どんな世界が広がっているのだろうか。


この村は、一部に車のような近未来的なものが存在するが、そんな世界が目の前に広がっているとするならば…


(想像もつかないな)


俺は椅子に深く腰を掛け、2ヶ月程度お世話になった家の、ベージュ色の壁を眺めていた。





 命を投げ出してまで、神を崇めたいのか。


そこだけが頭の奥底でつっかえていた。


宗教を否定するつもりはない。憎き邪神メルウラヌスを称える宗教もあるのかもしれない。


ただ、自分の命に変えてまで…そんな事をする必要があるというのだろうか。


もしもその状況になったとしたら、俺は喜んで神を裏切って、この世界の仲間達と共に生涯を貫くだろう。


(死ぬのが怖くねぇのか?)


いつか、村長に向かっていった言葉を思い出した。


脅し文句ではない。ただの、俺の嘘偽りない思いだ。


この村は優しかった。俺達を助けてくれた。


ジトジトと重くのしかかる雨水の荷重に負けて、ぬかるんだ土に膝をつき、ボロボロの服をきて、絶望の淵に立っていた俺達を。


メルウラヌスを崇めるということも我々にとっては受け入れがたかったが、宗教というものに口を出すつもりはない。


でも、命を投げ出すこと、それだけが許せなかった。


無論、命の恩人のようなこの村に銃口を突きつけた俺は愚かだ。いつ制裁を下されもいい立場だ。


そんな事をしている自分が、恥ずかしかった。


でも、それでも許せなかったのだ。移民と原住民は未だに打ち解けてない。その要因は俺だ。


「さん…ウォルさん?夕飯ですよ」


遠い彼方から聞こえたようなその声で俺は正気に戻った。


「ありがとう。ハル」


1日3食が食べられる。ハレムル連合国にいた時の夢が叶っている。


それだけで、この村には言葉では表せないほどの恩がある。


自分という存在がいかに小さいかを、俺は今突きつけられた気がした。


しかし、それは紛れもない事実だということも、同時に悟った。


「どうしたのですか?」


「いや、俺はまだ何も知らないのだなと思ってな」


この村のこと、自分の信じるものと違う宗教のこと、まだまだ謎はたくさんある。そんなこの世界のことを考えると、胸が躍った。


「そういえば、この村には図書館がないですね」


「図書館?なんだ?それは」


「沢山の本がある場所です。辞典や歴史書などもあるんですよ」


「すまない。俺は文字を読むことができなくてな。ハルは読めるのか?」


「ええ、私の母は読めたので」


「そうか」


「あなたの家は元々貧乏だったでしょう。だから私の両親が私があなたと結婚することを断ったのですもの」


「そんな事もあったな。結局、ハルが病気になった時に薬草食わせて助けたおかげで許してもらえたんだっけ」


「その節はどうも」


本当にその図書館というものがあるとするならば、それは俺が求める場所だ。


しかし、文字が読めないという壁は、本から得られる情報のすべてを遮断する。すると、ハルが透き通った、なのに力強い声で言った。


「私なら、文字を教えることができますよ」


「本当か?」


「ええ、話すことができるのなら、文字を覚えるだけでしょう」


「じゃあ、ぜひ習いたい」


「では、肝心の図書館はどこにあるのでしょうか」


「分からない。ただ、この場所はあまりにも辺境すぎる。都市に出てみればある可能性はあるが…」


「でも、それはあまりに遠すぎますよね」


この前地図でこの村から都市までの道のりを確認した。ただ、都市まで1200キロはある。


何故ここまで山奥の盆地にぽつんと村ができたのかは分からないが、ここはエルガム山脈の内側だ。


山を登って下ってを繰り返せば、だいぶ時間はかかるだろう。


(それでも、行ってみる価値はあるかもしれない)


俺は味噌汁のワカメを口に運ぶハルを見つめた。ワカメなんてもの、昔は食えなかった。もやししか食べられなかった屈辱の日々が頭に走った。


(俺は、世界を知らない)


「都市に行こう」


しかし、ハルは俺の言葉をきっぱりと断った。



「それは無理ですよ。少なくとも、私は行きません」


「何故…」


「この村にはお世話になったでしょう。なのに難癖つけた挙げ句、ここから離れるつもりですか?事は最後まで全うすべきでしょう」


ハルは今までにないほどに目をジロリと光らせた。


確かにそうだ。それでも、知ることを怠ることは出来ない。俺は何も知らないのだから。


「それでも、俺は世界を知りたい。世界を知ることが俺の人生だから」


「では、もう戻ってこないでください。あなたが開けた亀裂でしょう。自分の責務を負わずに逃げるなんて、卑怯だ!」


ハルは初めて俺に声を荒げた。


文字を知っている、それだけが今の彼女の武器だ。でも、都市に行けばどうせ教わることができるのではないか?ハルに頼る必要はないのではないか?


俺の頭にはとうに血が上っていた。故に俺にはハルが裏切り者にしか見えなかった。


昔、共に世界を回ろうと約束したことなど、ハルはもう覚えていないようだ。


もう、ハルといても意味がない。一人で世界を回る。俺は決心した。


「もう二度と、戻らない」


俺はドアを開けた。そして、勢いよく閉めた。


山中に向かってただひたすらに走った。それでも、空を舞う雪は、俺の頭を冷やした。


その時、俺は今この瞬間、全てを捨てたのだと悟った。もう自分の味方はいない。


ハルの言葉の全てが正しかった。俺は下劣だ。


雪は静かに、深々と降り積もっていった。

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