世界の終わりとドリンクバーの天使


「間違いない。オレンジジュースだね」兄の死体を一口味わった天使はそう断じた。


 悪魔がすべてを創り、天使がすべてを終わらせる。砂漠の神殿が掲げる碑文にはそう刻まれている。今、まったく同じ言葉を祭司が口にした。それは儀式の始まりであった。

 祭司は透き通ったベテル色の鉱石を胸の高さまで持ち上げると、大変長々としたお決まりの祈りを捧げた。曰く、我々生物は《血肉の悪魔》が生んだ呪いの体現である。曰く、肉が滅びようとも血は永らえ、これはそのための儀式である。曰く、天使が到来するその時まで我々はこの再生を何度でも繰り返す(これは部分的に嘘で、僕の兄はもう再生できない)。

 祈りの文句が終わると、祭司は土で作った台座の前に立ち、捧げ持っていた鉱石を安地した。これが僕の血だ。

 土がぎごちない動きで、祭司にひざまずく格好をとった。これが僕の肉だ。

 再生の儀式の締めくくりとして、僕は新しい肉を得たことを誰にともなく感謝した。祭司は「呪いの終わりが訪れるように」という意味の祈りを読み上げた。



 やがて現れる天使は、その世界を創造した悪魔と対になると言われている。《全知》が始まりの世界は高度な文明を発展させた後、《愚者》による啓蒙から自分たちが実は何も知らなかったことだけを理解して消え去った。《音楽》が始めた芸術振興の世界は、飽和しきった音と音の間ですべての媒質が停止し《沈黙》のうちに閉ざされた。始まりと終わりが正反対で、かつ同じものであるように、悪魔と天使は相補なのだ。始まりの悪魔が《血肉》であることは皆が知っていて、そこから各自が妄想をたくましくさせていた。

 ある者は《彫像の天使》が来ると主張した。石工が作り出した一躯の彫像を目にしたその者は、彫像が今にも動き出してこの世界を破滅させるのだと言った。予言者とその賛同者は像の美しさを恐れ、槌をもって粉々に砕いた。のみならず、あらゆる石材に天使が内包されていることを恐れ、入念に砕いた。

辺り一面は砂漠と化した。

 別のある者は《形相 けいそうの天使》が来ると主張した。定まった形を持たない我々血肉の存在を、氷の天使が停止せしめるのだと言った。それゆえに我々は形を遠ざけ、絶え間なく自らの肉を変容していった。記された物事が不変になることを恐れ、強迫的なまでに文字というものを排除した。わずかな例外は神殿の中の碑文だけだった。

結局のところ、明らかに《形相》ではなく、おそらくは《彫像》でもなかった。不可逆的に濁った液体と化し、血も肉も消えてしまった僕の兄の死体がそのことを示していた。

 同時に現れた天使は《ドリンクバーの天使》を名乗り、誰も信じなかった。ドリンクバーとは何か知っている者はいなかった。しかし僕の兄はもう再生できないことだけは皆わかっていた。



 兄が不可逆的に死体になったことが天使の到来する予兆ではないか、という不安が我々の間で頂点に達したとき、それは現れた。

 はだえは著しいアルボ色だった。我々と同じく腕と脚を備えていたが、細長い体躯の上に頭部がのっているのはいかにも不安定に見えた。無数の雲母片でできたような器官をはためかせていたが、そのような薄く脆い部位で大した力を生み出せるとは思えなかった。腕があるのにも関わらず、そのような余分に思える器官がある理由は想像もつかなかった。

 きっと天使なのだろうと誰もが直感的に理解したが、同時に天使であってほしくはないとも思った。

 祭司は本物の天使かどうか確かめるため、三つの試練に臨むよう言い渡した。その言葉は我々に安堵をもたらした。決してやってくる滅びを遅らせることにはならなかったのだが。



 「この谷を渡って、不動石を取ってきなさい」

 いつでも砂嵐の吹き荒れる渓谷に天使を連れてきた祭司は、谷の向こう側に置かれた不動石を指した。それ自体は抱えるまでもない大きさしかない。しかしひとつしかない渡し橋はほとんど刃のように切り立って、谷底には愚かにも橋を渡ろうとしてすっぱり切断された者たちが転がっていた。

 天使は砂嵐に顔を顰めながら難なく橋を渡って、戻ってきた。その手には夜色の不動石が握られていた。

 不動石が発する猛毒の酸素によって、興味本位で見物に来ていた我々の仲間はことごとく倒れた。祭司役の代替わりは滞りなく行われた。


 「では次に、幽霊階段を登りなさい」

 登るだけでいいのかと訊いた天使に、新しい祭司は是と答えた。それほど高さのない塔の階段はどこまで登っても終わりがなく、幽霊階段と名付けた初めての犠牲者が今でも登り続けている。祭司はあくまでも試練を告げただけだったが、それを聞いた者は幽霊階段に天使を閉じ込めて厄介払いしたいのだろうと邪推した。

 夜が三度来て、三度明けると天使は戻ってきた。我々は数字が無限に続くことを恐れたため、三より大きい数はなく、桁の概念もない。だから実際にどれくらい長い時間だったのかはわからない。いずれにせよ、幽霊怪談から帰還するには短すぎると誰もが感じるくらいだった。

 天使は幽霊怪談に残されていた哀れな者たちを導き、助け出してもいた。彼らは揃って狂い果てていたので直ちに再生された。


 「では最後に、順理球を取り出して見せなさい」

 祭司が天使に手渡したのは、多重構造になった透明な球だ。外側の大球に傷を付けず内側の小球を一部分でも取り出せれば合格だと祭司が告げた。造る方法を誰も知らない貴重な遺物だが、これまでに天使を名乗る偽物が失敗して外側の球もろとも破壊したため、最後のひとつが使われた。

 天使は勿論、合格した。しかし天使が祭司に返した順理球はどこからどう見ても小球の中に大球が入っており、その場にいた全員が訝しげに球を観察していた。このとき天使は何か厳かで重要なことを述べたはずなのだが、誰も聞いていなかった。



 天使は祭司が管理している廟に立ち入ることを許された。

 これまでに液体になってしまった者たちが別々のかめに納められているのを見て、天使は満足そうに言った。「ドリンクバーで違う物を混ぜることは、決して許されない」

 本当は前にも同じことを言ったのだが、祭司が後に周知して初めて皆がこの真理を心に留めた。

 そしてすべての甕から味見をして、どれとどれが同じで、異なるのかを判断していった。兄の死体はオレンジジュースだった。

 そのうち次々と液体と化す者が出てきて、廟に納めきることができなくなった。天使はそれらを大地に流すよう言った。同時に、異なる味のもの同士は決して混ぜてはならないことを厳命した。

 不可逆的に溶け崩れた者たちは、7つの川に適切に振り分けられていった。



 もう残っているのは僕だけで、その余生を天使とともに当て所なく過ごした。ひょっとして僕だけは川に還元されない特別な個体なんじゃないかとも思っていた。

その日、僕と天使は黄金の川に沿って延々と歩いていた。以前は刃の渡された断絶の谷だった場所がすっかり川となり、刃の橋はどこかに流されて久しかった。「コーンスープだよ」と天使は説明した。

 僕は大量のコーンスープが流れていく方向を見遣った。

 かつてこの地は無辺の砂漠で、すべての場所が等価だった。形を恐れ、万物を粉々に砕き、均質のなかで安らいでいた。

 それが今、川は高い場所から低い場所に流れていた。無窮の幽霊階段は断ち切られ、神秘の球は裏返された。


 天使がもたらしたものは終わりなんかではなかったことに僕は突然気付いた。


 我々は果てしない無限を恐れながら、像を砕き、再生を繰り返し、自分の手で無限を生み出していた。異界からの天使は破壊を持ち込むためではなく、ただその事実を教えに来ただけだったのだ。

 我々が恐怖していたのは、我々自身だったのだ。

 それに気付いたとき、僕は創造された時の流れの中に落ちていった。

 滅びは明るく、眠たかった。


***


 天使rheiは最後に残った血肉の存在が川へ落ちていくのを見届けた。

 その後、一杯ばかりのコーンスープを、ゆっくりゆっくり時間をかけて飲み終えた。そこで《海の悪魔》であろう、名前も知らぬ新しい世界の主を認めた。彼が創ったものを終わらせるのは何の天使の役割になるのか頭を巡らせ、血肉の存在たちが予言していたgarateiaやeidosの出番は来るのだろうかと考えた。しかしまだ始まってもいない世界の終わりを考えるのは詮のないことだと思い、どこでもないところへと飛び去っていった。

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