第52話 キスは大急ぎで

「彩芽は愛されてるんだな」

「健士からってことね」

「まあ、それはそうだけど、親父さんからも、相当な愛情を注がれてる。かなわないよ」

「相当なもんでしょ、っていうか、かなり行きすぎ! それに、常識も無いしさあ……」

「ううん、気持ちはよくわかる」


 こんな魅力的な女の子、誰かと泊りに行くなんて知ったら、居ても立っても居られない気持ちは、よ~くわかる。


 床に二人並んで座ると、気持ちが穏やかになっていく。ひんやりした木の感触も気持ちがいい。ぽつんと小さな明かりがついているだけの、秘密基地にいるみたいで、ドキドキする。今日はドキドキすることが多すぎる。


 やっぱり、彩芽は俺にとって一番大切な女性、何があっても一緒にいなければならない人だ、と決意を新たにする。


 静けさの中で、自分の鼓動と、すぐ隣にいる彩芽の息遣いだけが聞こえる。呼吸に合わせて上下する彩芽の胸の動きが見える。


 ……静かだ。


 だが、心は波打っている。思わず肩に手を回す。


「こっち向いて」

「なあに?」

「うん……」

「ふっ……」


 唇が重なった。鼻がぶつかってしまう。お互いの呼吸が止まってしまったような錯覚に陥る。


 このまま時も空間も固まってしまえばいいのに。そうすれば、邪魔者は誰も来ない。


 急げ! 急ぐんだ、と心の中で警笛が鳴る。


 動きたくない本心と、ここにいては危ないという気持ちがせめぎ合い息苦しくなり、お腹の中心がもぞもぞする。


「もう一度だけ……」

「うん」


 再び彩芽の唇に自分の唇を重ねる。今度は横から唇を滑らす。柔らかい感触に包まれて、心がふんわりしてくる。


 今度は目頭がジンジンしてきた。


 心臓までもがしびれるような感覚。


 これも慌てているせいだ、と自分に言い聞かせる。


 そう、親父のせいで!


「もう一度」

「ええっ、そんなに! 大丈夫なの?」

「急いですれば」


 ええっ、と彩芽の視線が揺れるが、無視して顔を近づける。


「ええっ……うぐっ」


 いい雰囲気だ。


 先程とは違う角度から唇を合わせる。そうなのだ、顔を斜めにするとお互いの鼻がぶつからないのだ。新たな発見に、胸がときめく。


 上手くいった。キスの達人になれるかも。


「俺ってキスが上手かも」

「そう……かな」

「キスの達人だ」

「はあ……達人ねえ」


 ちょっと、何か不満があるのか、その言い方。


 彩芽は、くるりと頭を回転させ視線を廊下にさまよわせる。


 次の瞬間、彩芽の顔が急接近した。


 そして、唇が彩芽の方から近づいた。


「私からも」

「うむ」

「こんなにキスすると、後で唇が腫れて、みんなにばれちゃうよ」

「そんなことは……ないと……思うよ」


 俺はしみじみと彩芽の唇を見つめる。先ほどより丸みを帯びて膨らんでいるではないか。だが、それは言えない。


 彩芽が結審したように言う。


「そろそろ……いかないとね」

「名残惜しいけど……お休み……かあ」


 最後におでこにお休みのキス。


 チュッと小さな音をさせて、キスの時間は終わった。深夜の密会は、これが目的だったのか……。


「じゃあ、約束ね」

「何の?」

「明日になっても何も変わらないことへの」

「不思議な約束」


 言っているこちらも不思議な気持ちになる。


「先に部屋にもどって。見張ってるから」

「じゃあ、また明日ね」

「さあ、早く音をさせないで入るんだぞ」

「分かってるって」


 彩芽は廊下をすり足で歩き、そっとドアを開けて部屋へ戻った。


 ふう~っと息をする。よし、誰にも見られてなかった。一安心。トイレによってから戻ろうとすると、帰り道で階段を下りてくる人影が見えた。素早く廊下を歩き部屋へ戻りかけたのだが、後ろから呼び止められてしまった。


 まずいッ! 見られていたのか!


「おい、君は」


 振り向くと、なんとそこには彩芽の親父さんが!


「あっ、お父さん……」

「何をしているんだ、こんな時間に!」

「ちょっとトイレに起きただけです。今部屋へ戻るところでした」

「そうか……彩芽は?」

「さあ、部屋で寝てるんじゃないですか? 心配だったら開けてみたらどうですか。女子の部屋はそこですから」


 と指を指す。


「まあ、いい。寝ているんだったら。あえて起こすことはないだろう。もう遅い時間だ。君も部屋で休みなさい」

「はい、おやすみなさい」


 おお、危ないところだった。ばれてはいなかったようだ。


 危機一髪だった。

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