Part 8-5
「やめろ。そこまでだ」
闇の中。聞こえてきたのは、死に際の静寂を打ち破る凛々しい声だった。
「僕の教え子と何をしている」
その場にいた全員が、声の主を見た。
ロッテも、ミソラも、正多も、青年も。
全員が髪を靡かせるヨハネス・シュミットのことを見ていた。
「その子から離れるんだ」
「せん……せい?」
「な、あ……」
青年はその姿を見た瞬間、明らかに動揺していた。
眼を大きく見開きながら、視線はそちらに釘付けになっている。
そして、まるでシュミットの言葉には一切逆らえないように、ゆっくりと正多の上から立ち上がった。
「ここはもう包囲されている」
そんな声の直後から、急に辺りが騒がしくなるのを感じた。
噴水広場を囲むように生えている木々の間に、沢山の人影があった。
拳銃や防弾盾で武装した警官だ。
正多は少しふら付きながらも、何とかその場に立ち上がる。
「下がっていなさい」
シュミットに短く言われて、ゆっくり後ずさる。
青年は立ち上がった正多のことを一度だけ横目で見たが、それ以降はずっと目の前にいるシュミットのことを見ていた。
少しずつ、少しずつ下がる。
「セータくん、セータ君、セータ君!」
何度も名前を呼ぶ声がして、振り返った瞬間に体と体がぶつかった。いつの間にかミソラの制止を振り切ったロッテが駆け寄ってきていた。
「ロッテ……」
「ここから離れよう、はやく……ねっ」
ロッテは正多の腕を強く引っ張る。そうだ、離れないと。あぁでも、まだ史家があそこで伸びている。早く助けに行かないと……。
足を止めた正多に気が付いたようで、シュミットは足元の史家にそっと触れる。
「気絶しているだけだ」
シュミットは改めて青年と向かい合う。
膠着した状態の中で、防弾ベストを着こみ、拳銃で武装している二人組の私服警官が包囲網から一歩前に出た。
「動くな、誘拐の現行犯で逮捕する」
二人の刑事はシュミットと青年の方に向かってゆっくりと歩き出す。
青年から離れようとしていた正多たちと、間もなくすれ違おうとしていた。
「逃げ道は無いようだが、どうする?」
シュミットの呟きに、青年はジャケットの内側を漁ることで答えた。彼の指には手榴弾のピンに結び付いた紐が絡まっていた。
少し力を込めて、その紐を引けば──。
「全員、動かない方がいい。手榴弾だ」
それを見たシュミットは周りの全員に聞こえるように大きな声で言う。
その声で、周囲に緊張が走った。ゆっくりと近づいていた刑事の足も止まる。離れようとしていた正多たちの足もその場でピタリと止まった。
「そうだ! 全員動くな! 近づけばピンを抜くぞ」
合わせるように青年の声。ジャケットの内側に縫い付けられた筒形の手榴弾が見えるように、ぐるりと体を回してアピールする。
ジャケットの裏には、少なくとも六個以上の筒が縫い付けられていた。
「戦争は終わったんだ! バカなことはよせ!」
刑事が言う。
「カルロスに伝えろ! まだ終わっちゃいない! アダム=ユリウスが生きている限りは!」
青年は叫ぶと、躊躇いなく紐を引いた。
「伏せろ、伏せろ!」
「手榴弾だ!」
青年はすぐ目の前だった。もし自爆すれば、ただでは済まない。
「ロッテ──」
考えるよりも先に、体が動いていた。
その場にロッテのことを押し倒すと、できるだけ強くその体を抱きしめる。青年の側に背を向けて、爆発に備える。カラン、コロン、と硬い缶の転がるような音がする。しかし、ついに衝撃が来ることは無かった。続けて聞こえてきたのは、爆音ではなくプシューと、何かが噴き出すような音。
恐る恐る目を開けると、辺りは一面真っ白になっていた。
「
シュミットの声だった。
「このまま伏せて、ロッテを守るんだ。いいね?」
すぐ耳元で足音が聞こえると、頭を優しくなでられた。辺りを覆う煙幕のせいで、ほんの一寸先まで何も見えない。でも、それは確かに革手袋の感触だった。
いま分かるのは腕の中で感じるロッテの体温、すぐ傍に彼女が存在しているという事実だけ。今はそれだけで十分だった。とても安心できた。
遠くで散発的に銃声が響く中、シュミットの言いつけ通りにロッテを守り続けた。
やがて煙が晴れて、視界が鮮明になってくる。
見渡してみると、青年の姿はどこにもなかった。シュミットも同じように居ない。
代わりに現れたのは伏見だった。どこからともなく現れた彼女は、コンクリートの上で気絶している史家の手当をしているようだった。
「伏見……さん?」
正多とロッテは抱きしめ合ったままの姿勢で体を起こした。
「二人とも無事だったんですね!」
そんな二人に気が付いた伏見は史家の手当てもほどほどにして駆け寄って来ってくる、そして勢いよく両腕を大きく広げて二人に抱き着いた。
余りにも力強く抱きしめられたので正多が苦しいと訴えると、胸に耳を寄せて肺の音を確認してくる。何かの冗談かと思ったが、どうにも至極本気のようだった。
少しすると二人の体を頭から足の先まで触って確認した。
「怪我は……って、正多くん! 首に血が!」
「これは返り血です……」
「ほんとだ、傷は無さそう。あとは……よし、手足もしっかりある。指も付いてる。五体満足ですね。どこか痛いところはありませんか?」
「だ、大丈夫です」
「わたしも……」
「ああ、よかった。本当に良かったです。史家くんも無事ですよ。気絶はしてますけど」
伏見が立ちあがるのに合わせて二人も立ち上がる。その足で転がっていた史家の傍によると、彼はちょうどいいタイミングで目を覚ました。
「……ん、ん。正多に……ロッテちゃん。二人とも、無事か?」
「こっちのセリフだ。大丈夫か?」
「え? 大丈夫って、何が?」
史家は体を起こすと、フレームの歪んだメガネを外して、それをどうにかして指先で直そうと四苦八苦していた。その緊張感のない態度からして、どうやら自分が気絶していたことには気が付いていないようだ。
「みんな無事みたいね……」
少しすると、安堵した顔のミソラも駆け寄ってくる。
これで全員の無事が確認できた。
「さ、史家くん、駐車場に救急車が待ってますから、早く行きましょう」
「え、伏見さん? なんでここに……ていうか、怪我なんてしてないですけど──」
「いいから行きますよ」
有無を言わせず伏見に肩を担がれる。彼女は史家よりも身長が高ったので、肩がぐいっと上がり、その体がふらつく。
その様子を見ていたミソラはちらりと正多とロッテの方を見た後、視線を戻すと「仕方ないわね」と言って近づき、もう反対側の肩を担いだ。
「なんでミソラまで⁉ うわっ、バランス悪っ!」
背の高い伏見と背の低いミソラに肩を抱えられたので、左右の肩は更にバランスが悪くなって、体が斜めになっている。
「どっちか一人でいいから! てか俺一人で歩けるし!」
史家は抗議の声を散々上げていたが、二人によって引きずられていった。
「セータ君」
そんな姿を見送っていると、呼びかけられた。
「わたし、心配かけちゃったよね。それに危険な目にも合わせちゃった……」
振り返ってみると、西の太陽を背にしてロッテが佇んでいる。
その目元を見てみると、海のような碧眼がゆらりと潤んでいて、瞬きすると溜まった涙が頬を伝いぽたぽたと落ちる。
「巻き込みたくなかったのに、巻き込んじゃった。その上……ダメなはずなのに、キミが来てくれた時、すごく嬉しかった……。たくさん伝えなくちゃいけないことがあるのに、どれも、この感情を表すには足りなくって、わたし……わたし……」
ロッテはゆっくりと正多に歩み寄って、彼の胸元に顔をうずめた。
「ありがとう……」
「俺は、俺はただ、ロッテに会いたかっただけなんだ……」
「わたしも会いたかったよ」
か細い声が伝わって来る。その声と共に愛おしさが溢れてきた。
正多は少しだけ勇気を出して、両腕を少女の体に回す。ロッテはそれに一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに体を預けてくれる。
柔らかくて、繊細な体が密着する。
抱きしめたままその存在を確かめるように、頭から背中にかけて優しく撫でた。
少しの間そのままでいたが、どちらともなく体を離す。
向かい合うと、始めて会ったときのように見つめ合う。けれど、二人の間には、あの時とは違う『特別』が存在していた。
やがて二人は照れくさそうにクスリと笑い合った。
「帰ろう、ロッテ」
「うん!」
正多が手を差し出すと、ロッテはその手を取って歩き出す。
足元には二本のミサンガが重なるように落ちていた。
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