第7話 おまたせ(後)
「あの、ここは姉の部屋……ですよね?」
私が姉の部屋と記憶しているドアに、優輝がカギを差すので、おずおずと尋ねた。
優輝は無言でドアを開けると、手でどうぞと中へ入るように促す。
「えっと、足が汚いんですけど」
ドアを閉めると優輝は土間に突っ立っている私を遠慮なしに上から下まで眺めまわした。
「とりあえず風呂に運ぶ」
「すみません」
「火事になるようなマンションに住むな」
「は?」
とっさに反論しようと意気込んだが、身体がふわりと浮いて言葉を失う。またしても横抱きにされているのだ。すみません、重くて……。
バスルームに到着すると、コートを脱いでバスタブに腰かけるよう指示された。
「お嬢様、足を洗って差し上げます」
シャワーを手にした優輝は、腕まくりをして私の前に跪いた。
な、なんで突然執事とお嬢様な設定になっているの!?
それに私、みすぼらしいパジャマ姿でものすごく恥ずかしいんですけど!
「え、いや、自分でできます!」
「いえいえ、お嬢様はお疲れでしょうから」
なんだかノリノリの優輝と、生地がペラペラの安物パジャマが気になって仕方のない私とで、シャワーヘッドの奪い合いになる。
「いや、そんなこと頼めな……!」
「未莉、言うことを聞……!」
ふたりの言葉が重なった瞬間、シャワーから勢いよく水が噴出した。
「な、なんでー!?」
「なんで、じゃねぇ。ここにスイッチがついているんだよ。だから言うことを聞けっつーの。どうしてくれるんだよ、俺までびしょ濡れになっちまっただろうが!」
シャワーヘッドについているスイッチを押してしまったらしく、私が優輝に向かってシャワーを噴射する格好になった。これは、誰がどう見ても私が悪かった。
「ごめんなさい」
優輝はしたたる水滴を拭いもせず、立ち上がってバスタブの栓をし、湯を張るボタンを押した。それから私を見下ろして小さくため息をつく。
「気にすんな。風呂、先に入れ」
「でも優輝も濡れてるし……」
「俺を心配するなら早く上がってこい」
そう言い置いて優輝はバスルームを出ていった。ひとりになった私は、一連のできごとについていけず、首をひねる。
まず、住居が火事になり真夜中に焼け出されたから、唯一の肉親である姉に電話して助けを求めた。ここまでは何も間違っていないはず。
問題は姉のマンションに着いてからだ。
えっと、ここは姉のマンション……だよね?
姉も電話では30分くらいで来るって言ったよね?
だけど実際にやって来たのは、姉ではなく、なぜか守岡優輝だった。……なんで?
しかも優輝は私に『お待たせ』と言ったような気がする。つまり、優輝は姉に頼まれて私を迎えに来たということ?
そして優輝は姉の部屋のカギを持っていて、私をここへ運んでくれた。部屋の内部は玄関からバスルームまでしか見ていないけど、明らかに姉が住んでいたときと家財が違っている。余計なものは一切なくてシンプルなのだ。姉があんな色気のない黒い傘を使うとは思えない。
ということは、ここは優輝が住んでいる部屋なのだろう。
結局、わからないのは姉と優輝の関係だ。そういえばひと月前のあの夜、優輝は『紗莉さんには恩があるんでね』と言っていた。それがこの部屋……?
考えても答えが出るわけではない。
とりあえずパジャマを脱いでバスルームの外へ置く。足を洗って、シャワーを浴び、バスタブに浸かった。温かい湯がじんわりと身体の内部の緊張をほぐしてくれる。真冬の寒空の下、パジャマにコートをはおっただけの姿では冷えて当然だ。風呂を貸してもらえたのは、本当にありがたいことだった。
バスルームから出ると、タオルと着替えが用意されていた。いつの間にか優輝が置いてくれたらしい。
着替えのパジャマは男性用で私にはぶかぶかだったけど、なんだかほっとした。だってここで女性用のパジャマが出てきたら、どうしたらいいかわからなくなるもの。
それにしてもこのパジャマ、どうやらシルクなんです。いや、タグを見たから間違いない。シルクなんです!
ますます私が着ていた安物のパジャマが恥ずかしくなる。もう、いっそのこと捨ててしまいたい。そう思いながら安物パジャマを小さく丸め、洗面所から廊下へ出た。
「お風呂、ありがとうございました」
声を張り上げると、優輝がリビングルームから顔を覗かせた。濡れた髪の毛は拭いたらしく、シャワーでびしょ濡れの痕跡はない。
「じゃあ俺も風呂入るから、後は適当にやっていろ」
「あの、ここって姉の部屋でしたよね?」
引き留めるべきではない、とわかっていたが、これだけはどうしても聞いておきたくて、早口で尋ねる。
優輝は表情を変えずにじっと私を見つめた。
「そう。訳あって今は紗莉さんから俺が借りている」
「私がここに来るって、姉から連絡があったんですか」
「撮影中だったけど、未莉のために飛んで帰ってきた」
「えっ」
「未莉が泣いているって聞いたから」
「な……!」
ウソでしょ!?
私は優輝を凝視した。すると優輝はニッと口の端を上げて見せる。
「泣いた?」
「いや、私が泣いたかどうかより、撮影を抜け出してきたことのほうが問題かと思いますが」
「じゃあ放っておいてほしかった?」
「そ、それは……」
「とりあえず風呂。話は後で」
「は、はい。いってらっしゃいませ」
言ってから、しまったと思ったけど遅かった。すれ違いざま、優輝は私の耳たぶをつかみ「『いってらっしゃいませ、ご主人様』だろ?」と嫌味たっぷりな声で囁いた。
リビングルームにはテレビとソファ、ローテーブルがあり、そのテーブルの上にペットボトルのお茶が置いてあった。『適当にやっていろ』というのはこれを飲んでいいということだろう。キッチンからコップを調達し、風呂上がりの喉の渇きを潤した。
あらためて部屋を見回してみる。間取りは確かに姉の部屋と同じで、こうしてよく観察するとやっぱり姉の部屋だったかな、という気がしてくるけど、姉の荷物らしきものはひとつも見当たらない。
壁際には本棚が並び、小説本や雑誌がぎっしり詰め込まれている。どうやら守岡優輝という人は想像以上に勉強家らしい。
ほかには、役者だから当然かもしれないけど、ラックにDVDがずらりと並んでいて壮観だった。ああ、この作品好きだったな、とタイトルを眺めて懐かしく思っていると、向こうのほうでドアが開く音がした。ご主人様のバスタイムが終わったらしい。
「あの……」
と、廊下を覗いた私は、文字通り飛びのいた。廊下に背を向けて、手で顔を覆う。
「なんて格好しているんですか!」
「俺の家で俺がどんな格好していようと自由だろ」
それはそうですよ。でも、私がここにいるのを知っているくせに、腰にタオル巻いただけの姿で廊下をうろつくのはダメでしょう!
「困ります!」
「誰が?」
「私が」
「なんで?」
「み、見たくないからです」
「ふーん。じゃあ見なきゃいいだろ」
あ、そうか。……じゃない!
「ダメです! 見たくなくても目に入るから困ります」
「まぁ、その主張は正しいな」
そうでしょう。そうでしょう。
フェアなところもあるんだな、と優輝を少し見直したときだった。
「じゃあ、慣れろ」
「……はい? 今、なんと?」
「だから」
なんだか優輝の声が背後に近づいてきた気がする。嫌な予感がするけど、それはきっと気のせい……。
そんな祈りにも似た私の想いはあっさりと踏みにじられる。
頑なに顔を覆い隠す私の手を、優輝がそっとつかんだ。風呂上がりのせいで優輝の手が熱い。その熱を次の瞬間、私は身体全体で知ることになる。
「慣れろよ。しばらくここ以外に行くところないんだろ?」
優輝の腕の中で聞いたそのセリフは、とろけるように甘くて、心を食い尽くしそうな不安までも溶かしていく。まもなく胸の内側で何かが爆(は)ぜた。
頭上でクスッと笑う声がした。
「やっぱり泣いた」
「泣いてなんか……ない」
私はウソつきだ。涙が次から次へとあふれて止まらない。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
優輝の大きな手が私の頭を撫でた。まるで子どもをあやすような手つきだけど、それが心地よくて、つい封じ込めていた想いをすべて解放したい衝動にかられる。
ダメだよ。だって違うもの。これはただの慰めだから……。
そうやって勘違いしないようにがんばっていたのに。
「未莉には俺がついている。だから好きなだけ泣いていい」
このダメ押しのせいで、私はしゃくり上げるまでみっともなく泣いた。今だけならきっと許される、そう信じて――。
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