第5話 笑えない私の事情(後)

 笑えない――そのことに気がついたのは両親の葬儀が済んでひと月が過ぎた頃だ。

 どんなに悲しいできごとが起きても、時が少しずつ心の傷を癒してくれるはず。もともと楽観的な私はそう思っていたけど、高校生という多感な時期に人生が一変してしまったせいか、私の心身は私の意志を無視して『笑う』という感情表現を断固拒否し続けている。

 だけど、この世界で笑わずに生きるのは困難だ。

 高校生になってから始めたモデルの仕事は、両親を亡くした後オファーが途絶え、就職活動につきものの面接では印象が悪かったのか、ついにひとつも内定をもらえなかった。

 笑顔さえ作れたらどんなに生きやすいだろう、と思う。本当は面白おかしくて笑いたい瞬間もある。それでも私の心と身体は笑おうとしない。

 私、いつまで笑わないでいるんだろう。

 会社で友広くんに言われたことを思い出すとため息が出る。性格を誤解されるのはかまわないけど、笑わないのをおもしろがって言い寄られるのは嬉しくない。このままだと生涯彼氏なんかできないのでは……。

 それは嫌だな。枯れていくだけって感じがして。

 私だって人並みに恋をしたいし、いつか誰かと素敵な家庭を築けたらいいなと思う。

 ふと、ずいぶん昔のことを思い出した。

 あれは私がまだ笑っていた頃だ。自転車に乗った年上の高校生に突然「送っていく」と言われて、はじめて男の人と並んで歩いた。ちょっとしたデートみたいで、すごくドキドキしたのを今も覚えている。

「君、この辺の子じゃないだろ。ここ、ついこの前、通り魔が出たんだ」

「通り魔!?」

「君みたいな子がひとりで歩くのは危険だぞ」

 見上げた彼の顔が、なぜか優輝の顔になっていて、私はご飯の塊をみそ汁の椀に落としてしまった。

 確かにその人は優輝並みの長身だったし、全体の雰囲気が貴公子っぽくて優輝に似ているかもしれない。

 でもあの人、眼鏡かけていたな。だからとっさに頭がよさそうだと判断したのだけど。

 あ、いや、別に優輝が頭悪そうに見えるってわけじゃないよ。むしろ頭や勘がいいから演技がうまいのだろうし、あの業界でそつなくやっていくには賢くないとダメだって思うから。

 ……ん? 私、誰に弁解しているんだろう。

 しかも生まれてはじめてのほのぼのロマンスが、今や優輝の顔でしか思い出せなくなっている。

 うわーん、どうしてくれるんだ。私の大切な思い出が上書きされちゃったじゃないか!

 今日の私は本当にどうかしている。会社で優輝のポスターを見たせい?

 ねぇ、どうして頬をさわったの。どうして頭を撫でたの。

 優輝のしたことに意味などないと言い聞かせても、わがままな私は一向に聞き入れようとしない。

 彼は明日香さんと付き合っている。それは事実なんだろう。あれからたったひと月しか経っていないけど、恋はきっと一瞬で落ちるもの。それを止めることなんか誰にもできやしない。

 箸を機械的に動かして夕食を終える。噛んでも噛んでも、味がしなかった。ひとりぼっちに慣れているとはいえ、味気のない食事はつまらない、と心底思った。


 その晩、私は不思議な夢を見た。

 見覚えのある街角で、私はぼんやり立っている。たぶん信号待ちをしているのだと思う。

 急に誰かが「あっ!」と大声を上げたので、私は驚いて首を回した。その途端、背後から腰のあたりにドンと強い衝撃が走る。

「え?」と言えただろうか。

 気がつけば私は地面に横たわっている。どうやら背後に停車していた車が、間違えて私のほうへバックしてきたらしい。

「大丈夫?」

 誰かが近づいてきた。顔を上げると、その人が私に手を差し伸べている。

「あのね、『あっ!』じゃわからないでしょ! 『あぶない』とか『ぶつかる』とか言ってよ!」

「ごめん。君にみとれていた」

「はぁ!? 何寝ぼけたこと言っているのよ! 人命がかかわっているのよ、人命が!」

 夢だから寝ぼけているのは当然だな、と頭の片隅でツッコミを入れつつも、叫んだおかげで胸がスカッとしていた。

 せっかく手を貸してくれると言っているのだから、その手につかまって……、と相手の顔を見た私は「ひゃぁ!」と奇妙な声を発した。

「未莉、起きろ」

 私の前になぜか優輝が跪(ひざまず)いていた。

「言われなくたって、立ちますとも」

「いいからすぐに起きろ。もたもたするな」

「でも、いててっ、腰が痛くて……」

「そんなこと言っている場合じゃない」

 優輝がふわりと私の上体を抱き起した。顔が近い。な、な、なんかこの展開、突然すぎる!

 その瞬間、私の鼻がぴくっと反応した。きな臭いような……。

 これは何かが燃えているにおい?

「未莉、起きろ!」

 脳内に誰かの絶叫が響き渡る。

 優輝の姿はかき消えた。次の瞬間、黒い闇が私の視界を覆ったかと思うと、風がごうごうと鳴り、ぱちぱちと木が燃える危険な音が聞こえてきた。足元のほうに、ぼうっと勢いよく紅の炎が上がり、獰猛な舞を踊り始めた。

「え、ちょっと待っ……!」

 布団をはねのけて飛び上がった。目を開けたそのときから頬に熱風が吹きつけるのを感じる。

 まずい。火事だ。

 ……うそでしょ。どうして燃えているわけ? そりゃ、このマンション古いけど。あ、そっか、古いから燃えるのか!

 目覚めたばかりの私は明らかに混乱していた。だけどとにかく逃げろ、と本能が告げる。

 パジャマの袖口で鼻と口を覆い、通勤かばんを探す。その間に消防士さんの大声が聞こえてくる。

「助けてくださーい! ここに、ここにいます!」

 聞こえただろうか。

「おーい」と声を上げながら、かばんと一緒にかけてあった上着をつかんだ。それから玄関のほうへ向かったけど、玄関はもう炎に侵略されていて靴を取りに行けない。

 バリバリと壁を壊すような音が近づいてきて、ガシャンと窓ガラスが割れた。振り返ると消防士さんが窓の向こうでこちらに手を差し伸べていた。

 部屋の外に連れ出されて、ようやく助かったという実感がわいた。パジャマの上に急いでコートを着込み、裸足のまま救急車に連行される。地面は痛いけど、これくらいは我慢しなければ。

「けがはありませんか」

「おかげさまでどこも無傷です」

 救急隊員さんはホッと表情を緩めて、家族に連絡を取るように勧めてきた。私が通勤かばんからケータイを取り出すと、救急隊員さんは次に運ばれてきたマンションの住人へと駆け寄る。

 私は救急車をおりて、唯一の肉親である姉に電話をかけた。

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