第2章:患者 その2


 3人が足を踏み入れたのは、失踪した中野が使っていたという部屋だった。扉を開けると、他の隔離病棟の部屋とは違い、そこには驚くほど整然とした空間が広がっていた。壁には汚れ一つなく、家具もきれいに配置されており、床にはゴミや異物の痕跡すら見当たらない。まるで、誰かが丁寧に掃除をしているかのような印象を与える部屋だった。


「これが問題を引き起こしている人物の部屋か?」

 田村一真は半ば嘲笑するように声を漏らしながら、部屋の中を見回した。


「杉田の部屋とは正反対だ。中野が原因だというお前の理屈がどうにも腑に落ちないな、明松。」


 石田明も同意するように頷き、「確かに。これではただの普通の病室だ。これだけ整っている部屋に、異界の力の影響があるとは思えない」と言った。


「それを確認するために調査するんです。」

 明松は手袋をはめ、慎重に家具を動かし始めた。重いベッドを少し動かすと、床の隅に幾何学模様が刻まれているのが見つかった。模様は床板に直接描かれており、塗装や落書きのようなものではなく、何らかの道具で彫り込まれているようだった。


「これは……?」

 石田が目を見開いた。


「どうしてこんなものが?」

「杉田の部屋にあった紋章や模様は、未完成で乱雑でした。」

 明松は魔法陣の紙片を指差しながら言った。


「でも、これを見てください。この模様は完全です。しかも、意図的に隠されている。彼はこれらを慎重に準備し、自分の部屋を普通に見せかける努力をしている。隠すべき理由があるということです。」


 さらに、明松はベッドのクッションを取り外してみた。そこには小さな箱が隠されていた。彼が慎重に箱を開けると、中には儀式に使用されたと思われる物品が詰められていた。古びたロウソク、刻印のある小さな金属片、そして何かの液体が染み込んだ布切れが含まれていた。


「隠し場所がエロ本と同じですね」

 明松が興奮を抑えきれない様子で声を上げた。

 明松は箱の中身を一つずつ並べながら説明した。


「杉田の部屋にあった紋様や言葉は不完全で、ほとんど意味を持ちませんでした。ですが、この部屋ではどうでしょう?発見された模様や物品の精度、意図の明確さは段違いです。こうした完全な物品や正確な紋章を作成するには、高度な知識と集中力が必要です。それを持っている人物が誰なのか、そしてこれを何の目的で使用したのか、それを突き止めることが重要です。」


「だからといって、杉田の影響を無視するわけにはいかん。」

 田村は一歩も譲らない姿勢を見せた。

「杉田は周囲の患者に影響を与えていた。それは紛れもない事実だ。」


「その通りです。」

 明松は冷静に頷いた。

「あまり良い表現ではないですが。杉田がペトロで中野がイエスでしょうか。中野こそが最初の発信源であり、杉田がその影響を受けて行動したと考える方が、時系列的にも理に適っています。」


「しかし、これだけではまだ確証にはならない。」

 田村が視線を鋭くして言った。


「もう少し、別の証拠が必要だ。」

「ええ、ですがこれで十分な手掛かりは得られました。」

 明松は資料をまとめ、写真を撮り終えると、次の調査に移る準備を整えた。


「中野の行動をさらに分析する必要があります。そして、彼が行った可能性のある儀式が、この病院全体にどのような影響を及ぼしたのかを解明するために、もう一段掘り下げましょう。」


 3人は中野の部屋を後にし、さらなる証拠を探すべく次の行動に移った。その背後に残された部屋の静けさは、異常なまでに重くのしかかっていた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 明松はこれらの遺留品を注意深く観察し、この部屋での調査を終えた後、速やかにその内容を整理した。床や壁に描かれた完全な紋章、そして隠されていた儀式道具。これらの発見が示唆するのは、中野がただの失踪者ではなく、意図的に行動していた可能性が高いということだった。


 その間、田村と石田は黙って彼の動きを見守りつつも、内心でそれぞれの意見を持っていた。田村は、この発見が事件の核心に近づいた兆候だと感じながらも、中野が真犯人であることをまだ受け入れきれずにいた。一方、石田は自分の直感が否定される形に困惑しながらも、明松の論理的な指摘に一理あると感じていた。


「これらの紋章や物品は、すぐに解析する必要があります。」

 明松は手袋を外しながら言った。

「このデータを神代蒼さんに送信します。彼女の知識と解析能力があれば、より詳細な情報が得られるでしょう。」


 彼はスマートフォンを取り出し、カメラで撮影した画像を迅速に整理し始めた。その指先は迷いなく動き、すべてのデータを一つのファイルにまとめ、魔術師協会の専用サーバーにアップロードした。そして神代蒼にメッセージを送信する。


「神代さん、今データを送りました。中東の魔法陣や古代ヘブライ語に詳しい資料と照合して、結果を教えてください。時間がありません。」


 数秒後、返信が届く。「了解。すぐに調査するわ。」という短い言葉だったが、その背後には、彼女の優れた能力に対する絶大な信頼が込められていた。


「これで蒼さんが何を見つけてくれるかだな。」

 明松は小声でつぶやきた。


 田村はその様子を見ながら、「神社以外の者にこれほどの情報を共有するのは、正直言って不安だ。」と率直な感想を漏らした。


「信頼できる協力者です。」

 明松はきっぱりと答えた。


「それに、この事件の本質を見極めるためには、より多くの視点が必要です。神社の知識だけでは補えない部分もあるのでは?」


 田村は何か言いかけたが、そのまま口を閉じ、視線を床に落とした。一方で石田は「確かに、異常な事件には異常なアプローチが必要かもしれないな。」と呟くように言った。


 その様子を見ていた田村が、不満げに眉をひそめた。

「魔術師協会が外部からどうこう言うのは構わないが、これで事件の全貌がわかるとは限らん。お前のやり方が正しいかどうか、まだ判断するには早すぎる。」


 明松は冷静に田村を見つめ、柔らかく答えた。

「確かに、これが全てを解決するわけではありません。ただ、ここで得た情報が次の手掛かりにつながる可能性は十分にあります。今は一つでも多くの糸口を見つけることが大事です。」


 石田は、少し黙り込んだ後で口を開いた。

「お前の指摘は理にかなっている。だが、神社勢力がこのような事態にどう関わっているのかも、我々にはまだ分からない。杉田にしろ中野にしろ、異常な存在がどうしてここまで影響力を持つに至ったのか……。」


 その言葉に、明松の表情がわずかに硬くなった。

「確かに、それも重要な疑問です。特に、神社勢力が杉田のような霊能力者をどのように管理しているのか……。」


 その時、田村が鋭い目つきで明松を睨みつけた。

「その話はここでは不要だ。我々がやるべきことは、原因を突き止め、解決することだけだ。」


 一瞬の静寂が場を包んだ後、明松は静かに頷いた。

「もちろんです。ただ、これ以上の犠牲を出さないためにも、真相を徹底的に調べる必要があります。それが、霊能力の影響であろうと、人間の意図であろうと。」


 こうして、彼らは次の調査に向かう準備を整えた。田村と石田は、依然として明松に対して完全な信頼を寄せてはいなかったが、その知識と観察力が有益であることは否定できなかった。静かな緊張感が三人の間に漂いながらも、明松は冷静に次の一歩を考え始めていた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 こうして、彼らは一通りの調査を終え、次の方針を練るためナースステーションへと戻ることにした。田村と石田は先に歩きながら、調査内容を小声で話し合っている。その背後を、明松は調査メモを見直しつつ静かに追った。異様な空気が漂う廊下を進む中、三人の足音だけが響いていた。


 ナースステーションに戻ると、そこには案内役の看護師が一人待機していた。彼女は疲れた様子ながらも、状況を見守る緊張感を漂わせている。明松は一礼してから、カルテや記録がまとめられた棚に向かい、改めて杉田に関する情報を確認した。田村と石田は周囲の異常な静けさを気にしながらも、明松の行動を黙って見守る。


 非常時とはいえ、カルテを通じて得られる情報にはまだ重要な手がかりが隠されていると明松は確信していた。

 明松はカルテや周辺の情報を調べながら、神社勢力が杉田のような霊能力者を隔離している可能性に気づき始めていた。精神病院が弱い霊能力を持つ患者を治療することは、この業界では周知の事実だ。隔離病棟の存在もまた、異常な症状を示す患者を管理するための一般的な手段であり、特に驚くべきことではない。しかし、杉田達也のケースは、それらの常識を越えて妙に気になる部分が多かった。


「杉田は弱い霊能力者には見えない。」

 明松はカルテをめくりながら、小声で呟いた。その言葉に反応するように、田村一真が不審げに眉をひそめた。


「原因は中野なんだろ。何が言いたい?」

 明松は指先でカルテの一部を軽く叩きながら答えた。


「これを見てください。彼の記録です。最初の診断では、軽度の霊的感知能力がある程度とされていますが、数カ月後にはその力が急激に増加しているのがわかります。」


 カルテには業界の人間にだけ判るような偽りの病名が書かれおり、霊力や霊能力は症状や呪具に対する反応から予測される。


 石田明が興味深そうにカルテを覗き込んだ。

「霊力の上昇は珍しいことではないが……それがどうした?」

「問題は、その要因ですよ。」

 明松は冷静な表情を崩さずに説明を続けた。


「通常、霊能力の向上は訓練や精神的な成長を伴うもので、徐々に進行するものです。しかし、杉田の場合、突然の急激な変化が見られる。それも、何らかの外的な要因が影響しているように見えます。」

「外的要因?」


 田村が問い返した。


「例えば、薬が原因である可能性があります。」

 明松は一呼吸置いてから、さらに付け加えた。


「さらに気になるのは、本来なら、このような急激な変化に対して、病院側だけではなく神社側がもっと注意深く記録を取るはずです。また精神安定剤の量も増えていません。放置されているように見えます」

 田村は腕を組みながら、明松の言葉に考え込むような表情を見せた。


「つまり、病院側や俺たちが何かを隠しているということか?」

「その可能性も否定できません。」

「我々の手元にそんな情報はないぞ。」

 石田は困惑した表情で首を振った。


「彼がこの病院にいる間に何が起こったのか? その全容が不明瞭すぎる。」

 明松は淡々と答えた。


 田村は少し苛立ったように溜息をつき、「神社が関与しているかどうかなんて、今ここで議論しても仕方ないだろう。」と言った。しかし、その言葉には一抹の不安が隠されているようだった。


 明松は田村の言葉を聞き流しながら、さらにカルテの記録を詳細に確認した。彼の目は鋭く、表面的な情報の裏側にあるものを読み取ろうとしているようだった。

「その記録は一般の病院のスタッフが書いたものだろう? 心霊に関してはあてにならんだろ」

 石田が慎重に指摘した。


「はい。だから、霊能力の専門家が書いた別のカルテがあるはずなんです。でも、見つからない」明松は鋭い視線を二人に向けた。「これが何を意味するのか、考えてみてください。」


 田村と石田は顔を見合わせ、何かを考え込むような表情を浮かべた。だが、田村はそれ以上議論を深めることを避けるように首を振り、「とにかく、杉田を追うのが最優先だ。」と話を打ち切った。


 一方で、明松の頭の中には、杉田の霊力上昇の背後に隠された謎が渦巻いていた。この急激な変化が、単なる偶然や病状の進行だけで説明できるとは到底思えない。神社勢力の意図、病院側の隠蔽、そして杉田自身の行動――そのどれもが明松の疑念を深める材料となり、彼を真相解明へと駆り立てていた。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 突然、行方不明となっていたはずの患者、杉田達也が廊下の奥から姿を現した。彼の歩みはゆっくりで、周囲の空気を歪ませるような異様な気配をまとっていた。白い病院のガウンに包まれた体はやつれているが、その目だけは異様な光を放ち、まるで何かを見透かしているようだった。


「偉大なるものが降臨する……」

 杉田は低い声でつぶやきながら近づいてきた。その言葉に、田村一真と石田明は身構えた。彼の周囲には、見えない圧力が漂い、近づくこと自体が危険に思えるほどだった。


「杉田さん、ここにいたんですか!」

 病院スタッフの一人が慌てて駆け寄ろうとしたが、田村が手を上げて制止した。


「待て。彼の様子がおかしい。」

 杉田はスタッフの存在を全く意に介さない様子で、目の前の明松真也に鋭い視線を向けた。


「お前たち……無駄な抵抗をするのか?」

 その声には不気味な響きが混じり、廊下に反響するたびに、冷たい空気が周囲を包み込むようだった。


「抵抗とはどういう意味だ?」

 明松が冷静に問いかけると、杉田はかすかに笑みを浮かべ、壁際に寄りかかった。


「偉大なるもののために、殉教者として役立てと言っているのだ。」

 その言葉には異常なまでの確信があり、病院内に響くたびに、誰もが背筋に冷たいものを感じた。


 田村が小声で石田に指示を出し、式神を呼び出す準備を始めた。指先で結界の印を切ると、空気が一瞬震え、次の瞬間、田村の横に二体の式神が現れた。一体は田村の式神で巨大な白い狐の姿で、赤い炎のような模様が体を走っている。もう一体は石田の式神で、岩の塊のような体に二対の腕を持つ異形で、その目は冷たく輝いていた。二体の式神が現れると、空間がさらに緊張感に包まれ、杉田も動きを止めて彼らを睨みつけた。


「無駄だ。お前たちの式神ごときが偉大なるものに抗えると思うのか?」

 杉田が激しく笑い出した。


 その時、明松のスマホが震えた。画面には「神代蒼」からのメッセージが表示されている。急いで確認すると、短い一文が表示されていた。


「ナベリウス」

「ナベリウス……」

 明松がその名前を呟いた瞬間、杉田の表情が豹変した。


「その名を軽々しく呼ぶな!『様』をつけろ!」

 声を荒げた杉田が怒り狂ったように叫ぶと、周囲の空気が急激に変化した。


「ナベリウス? 聞いたことがない悪魔だな」

 石田が疑問の声を漏らすと、杉田が狂気をはらんだ目で彼らを睨みつけた。


「お前たち、偉大なるものの力を恐れるがいい。生贄になる覚悟はできているのか?」

 次の瞬間、杉田が信じられない速度で田村に向かって突進してきた。


「こいつを止めろ!」

  田村が叫びながら式神に命じた。白い狐がその俊敏な動きで杉田の進路を阻み、赤い炎の尾を巻きつけて動きを制止しようとした。同時に、岩の式神が重い拳を振り上げ、その力で杉田を床に押さえつけた。


「ここで終わりだ!」

 田村が叫びながら杉田に近づこうとした瞬間、杉田が苦しそうに舌を噛み、自害した。その体が崩れ落ちると同時に、彼の胸に刻まれていた奇妙な紋章が明るく光を放ち始めた。


「なんだこれは!」

 石田が驚きの声を上げる中、突然、病院全体の電気が一斉に点滅し、異様な振動が建物全体を包み込んだ。


「まずい。これは……ナベリウスの召喚だ。」

 明松が呟いた。


 廊下の奥から低い呻き声が聞こえ始め、壁には不気味な影がうごめき始めた。気温は急激に下がり、薄い霧が漂い始める。患者たちは歓喜と狂乱が入り混じった声を上げ、一部は「神が降臨する!」と叫びながら狂ったように踊り出した。


 田村と石田は身を守るため、慌てて結界を張り巡らせたが、その異変はすでに病院全体を覆い始めていた。


「ここまで広がるのか……」

 田村が汗を滲ませながら呟いた。


 明松の顔には、これからの困難を予期した冷徹な表情が浮かんでいた。


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