第17話 流転する囁き

 風が木々を抜けるたび、葉がさわさわと不気味な音を立てた。その音はどこか人のささやき声にも似ていて、四人の心に妙な不安をじわりと忍ばせる。


幻想的な色合いの花々が周囲に咲き乱れ、青、紫、金色――自然に存在するにはあまりにも鮮やかすぎるそれらは、風に揺れるたびにふわりふわりと四人を嘲笑うかのように揺れ動く。花びらはひらひらと舞い、地面へと落ちることなく宙を漂っていた。


「俺、今初めて干し柿の気持ちを理解したわ。」


郁之助がぽつりと呟く。その声が静寂を破り、ぶら下がったままの姿勢で自嘲気味に肩をすくめた。


「.....世界が逆さまだ。」


貴音はまるでその奇妙な状況を楽しんでいるかのように、ぐるぐると視線を巡らせている。


「ふざけてないでこれをほどく方法を考えろ!」


七彦が苛立ったように声を荒げた。


「もう、そんな怒んなくてもいいじゃん!」


貴音が反論するようにぷくりと頬を膨らませるが、七彦は無視して蔦をもがきながら引っ張る。しかし、その蔦はまるで生き物のように七彦の腕に強く絡みつき、まったく外れる気配がなかった。


鳴は、その騒ぎにも動じることなく、静かに金色の蝶が消えた方向をじっと見つめている。ふと、遠くの森の奥で蝶がふわりと舞い上がるのが見えた。


そんな鳴の様子に気づいた七彦が声を荒げた。


「おい!お前もぼけっとしてないで考えろ!」


そのとき、突然、大地がわずかに揺れ、重々しい音が響き渡った。ドスン、ドスン、と規則的な振動が地面を揺らし、空気が震えるような感覚が広がる。

 

「……まじか。」


郁之助が顔をしかめ、低い声で呟いた。その言葉に答えるかのように、木々の間から何かが動き出し、次第にその大きな影がのそのそと姿を現した。

 

「どうしよう追いつかれちゃった……。」


貴音が声を震わせる。


それは、法獣だった。

 

その存在は、まるで時間が止まったかのように悠然と歩みながら、周囲の木々を次々と容赦なく薙ぎ倒していく。枝が引き裂かれ、幹が折れる度に、大きな音が辺りに響き、地面に倒れ込む。花びらがその衝撃に押されて舞い上がり、空中を彩るように色とりどりの軌跡を描きながら、次々と消えていった。

 

「まずい……!」


七彦が低く息を吐き、顔をしかめる。法獣の一歩一歩が、まるで逃げ場のない死の宣告のように迫ってくる。その足音が、地面を震わせ、四人を縛り付けた蔦もまた、その振動に共鳴するようにピクリと震えた。

 

そのとき、別の方向からも木々を切り裂くような音が鳴り響いた。空気がざわめき、木の葉が一斉に舞い上がる。

 

「……なんだ?」


七彦が低く呟き、その音の正体を探るように周囲を見渡す。

 

音の正体は、すぐに現れた。無造作に木を引き裂きながら、一体の法獣が姿を現す。その身体は異様に膨張し、目は白く濁り、異様な光を放っている。

 

「嘘だろ……」


郁之助が苦い顔をし、息を呑む。その眼差しは、目の前に現れた恐ろしい法獣に釘付けだ。

 

二人の視線がその法獣に集中した瞬間――


「ちょっと! あれ!」


貴音が逆の方向を指さして叫ぶ。


振り向くと、さらにまた別の法獣が立っていた。木々を踏み倒しながら姿を現すその巨体は、最初に現れたものよりもさらに威圧感を放ち、その存在が放つ圧倒的な力に、周囲の空気がぴんと張り詰める。


巨体の三体の法獣が四人を取り囲むように立ちはだかる。息を飲むような緊張が場を支配する中、誰もが次の行動を考えあぐねていた。


「わ~お、よかったな。」


郁之助が皮肉っぽく笑いながら言う。だがその笑顔はどこかひきつり、額に冷や汗が滲んでいるのが見て取れた。


「あれ全部倒せば、俺ら試験終了じゃん。」


軽い口調に反して、彼の目は法獣たちに向けられたままで、状況の深刻さを物語っている。


「ちょっと、今そんな冗談言ってる場合じゃなくない?」


貴音が不安げに眉を寄せる。


「わかってるって。でも、どうせなら死ぬ前に笑っときたいだろ?」


郁之助は軽く肩をすくめて、空気を和らげようとする。それでも、その口調にはどこか悲壮感が漂っている。

その軽口に、七彦は我慢できなくなり、苛立ったように声を荒げた。


「やかましい!」


森の中、法獣たちが荒い息を吐きながら四人を囲み、周囲の木々さえもその異様な存在感に押し潰されるように感じられた。重苦しい空気が漂う中で、鳴はただ静かに森の奥を見つめ続けている。


そこには、ひらひらと舞う金色の蝶がいた。淡い光を帯び、ゆっくりと空気を滑るように飛ぶその姿は、まるでこの現実から切り離された幻想のようだった。動きの一つ一つが優雅で、時間が止まったかのように感じられる。


鳴の細い腕が自然に、そして無意識にその蝶に向かって伸びた。だが、その瞬間、絡みついていた蔦が鳴の体をぎゅっと締め上げる。


「……っ」


鳴は小さく息を詰まらせた。思わず視線を自分の体に戻し、今の自分の状況を思い出す。不愉快そうに眉を寄せると、蔦をじっと睨みつけた。その目に込められた冷徹な意志が、蔦に圧力をかけるかのようだった。


その下では、泳が首をかしげて宙吊りになっている四人の姿を興味深そうに見上げている。目には楽しげな光が宿っているが、鳴が蝶に見入る様子に気づくと、その目は次第に細まり、変化していった。


蝶はまるで鳴を誘うように、ゆっくりと舞い続ける。風が木々の間を通り抜け、泳の黒い毛がその微かな風に揺れる。その瞳は先ほどの無邪気なものとは打って変わり、どこか鋭く、まるで蝶を睨みつけているかのようだった。蝶が舞うたび、その目は静かに反応し、視線を外すことはなかった。

 

蝶はふわりふわりと舞い続ける。


鳴は宙づりになったまま、絡みついた蔦を冷静に見つめていた。身体をわずかに捩り、その強さを確かめる。蔦は予想以上にしっかりと絡みついていて、どうやら簡単には解けそうもない。


視線は再び金色の蝶に向けられる。蝶は依然としてふわりふわりと舞い続け、森の奥へと進んでいった。鳴は蝶と蔦を交互に見比べるように視線を動かし、わずかに考え込むような表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間、手のひらから「ボッ」と紅色の炎が生まれた。

熱気が一瞬だけ空間を包み込む。鳴はすばやく巻き付いた蔦をその手で掴み、炎の力を利用して一気に燃やし尽くす。蔦はパチパチと音を立てながら炭となり、散り落ちる。


蔦が完全に焼け落ちた後、鳴は軽やかに身を翻し、そのまま地面に着地した。その動きは重力など感じさせず、まるで羽がふわりと落ちるかのように軽やかに降り立つ。

スタン、と危なげなく着地した鳴は、再び金色の蝶を見つめた。蝶は森の向こうへと誘うように舞い続ける。その方向へ一歩、踏み出そうとした。そのとき、


「はあ!? お前いつの間に!?」


突然、郁之助の大声が響いた。


その言葉に続いて、七彦が

「なっ!どうやって……?」と驚いた声を上げ、

さらに貴音が「わあ、鳴すごい!」と無邪気に感嘆する声を響かせる。


鳴はその声に一瞬だけ動きを止め、宙を見上げて三人をちらりと見やった。だが、すぐに視線を戻すと、再び金色の蝶を追うように静かに歩き出そうとした。


「おい! お前どこへ行く気だ!?」


七彦の怒鳴り声が背後から響いた。


その声に鳴は動きを止め、面倒くさそうに振り返る。視線はふわりと漂う蝶の方に戻りかけたが、仕方ないといった様子で短く呟いた。


「……蝶々が。」


そう言うと、再び蝶に目を向けようとする鳴。

 

「ちょうちょ? なに言ってんだ?」

と郁之助が訝しげに眉を寄せた。

鳴は答えることなく、また一歩踏み出そうとする。


「お前、まさか逃げるつもりか?」


七彦の鋭い声が飛ぶ。その言葉に鳴は足を止め、今度はしっかりと三人を振り返った。無表情で、やや冷たく、だがどこか不思議な静けさを含んだ声で言った。


「……僕に、どうしてほしいの?」


その問いに、七彦は一瞬言葉を失う。


「どうって、お前なあ!!」

 

七彦の爆発しそうな怒気に、貴音が慌てて割って入る。

「落ち着いてナナちゃん!」と宥めながら、鳴の方に顔を向けると、にっこりと笑って言った。


「私たちの蔦もほどいてほしいの。お願い!」


その言葉に鳴は、まるで今気づいたとでもいうように「..!...ああ」と小さく呟いた。

「わかった。」と軽く頷く鳴に、七彦は目を剥く。


「言わなきゃわかんないのか? お前は本当に、何なんだ……。」


怒りを通り越し、呆れたように首を垂れる。しかし、鳴はその言葉など気にも留める様子もなく、淡々と短刀を鞘から引き抜いた。

無駄のない動きで、絡みついた蔦を次々と断ち切っていく。

ほどなくして、蔦がすべて切られ、三人は地面へと無事降り立った。


貴音は軽く息をつき、伸びをしながら腕をほぐす。


「ふぅー、やっと自由になった。」


そう言って袖口についた汚れをパタパタと払い落とした。


郁之助はちらりと地面に目を落とし、自分の槍を見つけると、小さく息を吐きながら手を伸ばし、槍を拾い上げた。


「まあ、ヤバい状況ってのに変わりはないけどな。」


槍を軽く振って感触を確かめるようにした後、顔を上げてぼやいた。その声にはわずかに焦りを隠そうとする響きが混じっていた。


その言葉が、状況の厳しさを改めて思い出させる。

四人を取り囲むように立ちはだかる三体の法獣ーー

それらは揺るぎない巨体をゆっくりと動かしながら、まるで次の一手を見極めるかのようにこちらを睨みつけている。喉の奥から低く不気味なうなり声が漏れ、地面がわずかに震えた。


「……っ。」


七彦は瞬時に身構え、法獣たちの動きを見据える。

弓を握る手に力がこもる。その顔は焦燥と決意の狭間で揺れていた。貴音もようやく今の状況を思い出したかのように、表情を引き締める。軽やかだった動きがピタリと止まり、口を固く結んだ。


法獣たちの巨体が森にひんやりと冷たい気配を放っている。葉が震え、空気は異様な緊張感に包まれていた。彼らの吐く息はまるで霧のように地面を覆い、目の前の景色すら揺らめかせる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る