海に沈むジグラート 第61話【いつか船を漕ぎ出でて】

七海ポルカ

第1話 いつか船を漕ぎ出でて


 朝の支度が出来た。

 アデライードはラファエルと自分の朝食の支度くらいは一人で出来るので、世話係の女性は大概、昼や夕食の準備をするために午前中やって来る感じだ。

 世話係の女性は常駐はしていないので、彼女が午後を自由に使いたい日があれば、午前中の早いうちに来てもらって掃除などをしてもらえば、早めに帰ってもらうのも構わなかった。今までも貴族の家で仕事をして来たが、お二人ほど使用人のことを気遣ってくれる方はいなかった、と女性はここでの仕事にやりがいと心地よさを感じてくれているらしい。

 今日は午前中で仕事を終えたいそうなので、では一緒に朝食をしましょうと約束していたのだが、肝心のラファエルが起きてこなかった。


 ラファエルは時間に追われるのが好きではないし、どうしてもしなければならない仕事の把握は副官のアルシャンドレ・ルゴーがきちんと把握し、ラファエルが忘れてる場合はやって来て引きずって行ってくれるため、アデライードは家ではラファエルに注意などはしないでおこうと決めていた。

 折角ラファエルが異母妹のアデライードを可愛がってくれているのに注意ばかりして、口うるさい妹が家にいるなんて思われたら悲しいからである。だからラファエルが朝起きてこない時は無理に起こしに行ったりはせず、好きな時間まで眠らせておこうと思っているし、世話係の女性にもそれはお願いしてある。


 ラファエルは主のように振る舞ったりはしないけれど、この屋敷の主はあくまでも彼なのである。彼が優しいからといって、何でもかんでも好き勝手になってはいけないと、アデライードは自分に言い聞かせている。


――ただしジィナイース・テラだけは別だ。


 前から聞いていたけれど、アデライードはネーリが来てからラファエルと、彼の友情がどんなものかを目の当たりにすることになった。

 ラファエルとネーリは本当に、屋敷にいるときは必ず一緒にいた。

 十年、ずっと一緒にいたかったとラファエルは言っていたけれど、あれは比喩ではなく本心だったのだ。

 十年の空白がまだ仲のいい二人は埋められないのか、ネーリがここに来てから毎晩、同じベッドやソファに寝転がりながら今までのことを話しているのだ。


 修道院で育ったアデライードは、確かに男というものがあまりよく分からなかったけれど、それでも十分に立派な青年となった男が二人、同じベッドで毎晩楽しそうに話したまま離れがたくなって、そのまま一緒に寝るものなのかしら……と彼女でも不思議に思う。

 女でも少女ならともかく、大人にもなれば、女同士でベッドに潜り込んで夜を過ごしたりはしないものだからだ。

 しかし、アデライードは訝しむのはやめた。


 多分、普通の人間はそうではないのだろう。

 けれどあの二人は、特別なのだ。


 ろくに連絡も取り合えない状態で、音信不通の十年だったという。

 ラファエルは子供が口約束でした再会の誓いを果たすために、十年の時をネーリのために過ごした。それもまた、普通の人間が簡単に出来ないことなのだから。

 内気で家族にさえ、なかなか甘えられなかった少年は再会した友が、自分を頼れるように立派になりたいと、勉学に励み、フランス社交界で名を馳せる貴公子となった。

 フランス王でさえラファエルを息子のように愛し、側に呼んで話し相手にしていたほどだ。

 そのラファエルは戦のようなものを嫌い、争いごとも嫌いなのに、ヴェネトにフランス艦隊を率いる為の人材が必要だと父から言われた時、躊躇いなく手を上げたという。ヴェネトにいることが分かっていた、たった一人の友に会うためだ。


 別に彼は何かを期待していたわけではなく、ネーリと会った時に、彼が自分を覚えておらず、自己紹介から始めなければならない覚悟もちゃんとしていたのだ。

 それでもネーリと教会で再会した時。彼がラファエルの名前を、昨日会ってきたばかりのように呼んでくれた時、本当に本当に夢のように嬉しかったのだ、と喜んでいたことも知っている。


 ネーリにも少し、話を聞いた。

 彼は本当にこの十年は、ラファエルを日常に思い出すことも無かったのだという。


 というのも彼は自分のことなど忘れて、フランスで多くの友を作り、大切な人を作り、もしかしたら恋人もいて、結婚もして、家族すらいるかもしれない人だと思ったから、遠い存在のように思っていたからだと言っていた。

 ネーリが十年どんな暮らしをしているのか聞けば、よく分かった。

 アデライードでさえ、フランスの辺境の修道院で暮らしてきた自分がラファエルに妹として迎えられるなど、想像もしてなかった出来事だったから。

 確かに血は異母兄妹だったけれど、そんなもの名門貴族にとっては邪魔でしかないものだと思っていたから、決してアデライードは自分から父の名を告げるつもりは無かった。


 夏のある日、雷雨の夜に宿がどうしても欲しいとオルレアン家の馬車が修道院に立ち寄った。

 本当は男子禁制であったが、どうやらオルレアン家の若き公爵が雨に降られて熱を出したようで「助けて欲しい」と懇願されて修道院は門を開いたのである。彼はフランス王とも近しい友人であることから、何かあってはいけないとラファエルは手厚く看病され、一週間もすると起き上がり、敷地内を散歩出来るようになった。


 修道女たちの宿舎の方と、客人たちの棟は明確に分けられていたが、好奇心旺盛なラファエルが、そっちの大きな聖堂も見てみたいなあ、などと薔薇の垣根の上から塀を覗き込んで、花壇の手入れをして手を汚していたアデライードに笑いかけてきた時、この人が自分の兄かもしれないと思った彼女は、呆気に取られて言葉を失った。

 それでも彼女は自分の素性は言わなかった。

「修道長様に相談してみます」と話し、許しが出ると修道長自らがラファエルを丁寧に案内していた。だからラファエルと話したのは、その些細な一度だけだった。

 話を聞くと、修道女たちは知らなかったが、滞在中ラファエルは礼拝を頻繁に見に来ていたらしい。特別室から礼拝に参加し、滞在を許してくれた感謝の証とは言っていたが、その後多額の寄付もして、若い公爵だがとても信仰心の厚い方のようだと、修道長たちが話していた。


 ラファエルは礼拝の時にも、アデライードには気付いていて、不思議な気品のある少女で、若いのに修道女として暮らしているなんて不思議だと思っていたらしい。

 もしかしたら貴族の血でも流れているのでは無いかと、直感で感じたという。

 しかしラファエルは性格からいって、修道女の素性を暴きたがるような人では無かった。

 何か、不思議な予感があったのだ。

 出立を修道女たちで見送る時、アデライードも他の修道女たちと少しも変わらない場所で見送っていたが、馬車が通り過ぎる時、一言「君のおかげで美しい聖堂を見ることが出来た。ありがとう」と礼を言われた。そんな言葉を掛けられると思っておらず、とても驚いたのをよく覚えている。


 後で聞くと、ラファエルはフォンテーヌブローの領地に戻ってから、密かにアデライードの素性を探らせたのだという。全く関わりの無い家の娘なら、放っておくつもりだったと言っていた。

 自分と父親が一緒だと知った時、薔薇の垣根越しに会った際何故、アデライードが自分をあんなに大きな瞳で見上げてきたのか、理由が分かった。そしてそんな自分に何も言わず、縁者だと名乗ることもせず、見送ってくれた妹にとても感謝をしたらしい。


 ある日ラファエルは再びふらりと修道院に戻ってきて、アデライードは呼ばれた。

 貴方の意志を十分尊重するつもりだが、望んでくれるのなら、自分を兄と思ってフォンテーヌブローの城に来て家族になって欲しい、と綺麗な青い瞳で言ってくれたのだ。


 そんなことをしてもラファエルには何の利益も無いはずだから、辛い思いだけをすることになるかもしれないと修道女たちは言った。

 しかしアデライードは信じたのだ。

 ラファエルは偶然出会った妹を、不幸にするためにわざわざ呼びに来たりしない人だと。

 もし辛い思いばかりをするようなことがあれば、豪華な屋敷を泣きながら飛び出して戻って参ります、と笑って旅立った。

 ラファエルは温かく迎えてくれた。


 自分は兄弟の末だったので、妹が好むようなものがあまり分からないから、親しい友人の趣味のいい人に、貴方のような年頃の娘が好む家具を選んでもらったんだよ、と美しい家具ばかりの部屋を用意してくれていた。

 アデライードがネーリに部屋を用意したのは、自分がそんな風に迎えてもらった時にとても嬉しかった、その名残なのだ。

 ラファエルの領地であるフォンテーヌブローには、本当にネーリ・バルネチアの為だけに彼が用意した、美しい湖畔の城がある。

 ネーリは「信じられないことだけど、きっとラファエルがそう言うのなら本当なんだと思う」と言っていた。


 ラファエルも心の美しい男だったが、ネーリもその、ラファエルの心の美しさをよく理解し信じてくれていた。アデライードは素直に、妹としてそれが嬉しい。彼女にとっては自慢の兄を、本当に信頼し、友として愛してくれていることがネーリからは強く伝わって来る。

 数日一緒に暮らしただけでも、アデライードもネーリのことが大好きになってしまった。

 彼は優しく大らかで、そこにいるだけで周囲の人間の心を温かくするような所があった。


 太陽のようなラファエル・イーシャが、

 心惹かれる、

 温かな陽射しのような青年。


 そっと扉を開いて覗いて見ると、やっぱり話し込んだまま同じベッドで眠っている。

 ラファエルが結婚していたら、妻が心配になるほどの光景ではないだろうか。


(でも、きっと一緒にいられなかった十年間の分だけ)


 ラファエルはネーリに寄り添っていたいのだと思う。

 ラファエルの心も寂しかったと思うが、彼はフランスで大勢の友人たちに囲まれていた。

 ネーリは王妃セルピナの排撃を受けながら、自分の家も、家族になってくれる人も見つけずに一人でヴェネトを放浪して、孤独の中、絵を描き続けていたのだ。それでも昔と変わらない優しく大らかな性格のままのネーリを、ラファエルは心の底から愛し、崇拝していた。

 アデライードにもその気持ちはよく分かる。


 ジィナイース・テラの背負った宿命……。


 ラファエルは王弟オルレアン公の子であり、フランス艦隊総司令官でありながら、ネーリと共に戦うことを決めた。

 ネーリはヴェネトの王族だ。

 二人はあの【シビュラの塔】を止めようとしている。

 止めて、破壊すること。

 もう二度と、あれが誰かを殺さないように……。

 そんなことが出来るのだろうかと、正直思う。それほど強大な古代の遺産なのだ。

 しかしアデライードも自分に大きなことが出来るとは思っていないが、例えどんな些細なことであれ、ラファエルとネーリの力になろうともう、心に決めている。

 世話係の女性にはただ、ラファエルの古い友人なのだとネーリのことは話している。


 さすがにネーリが来てからは、出来る限り世話係の女性も家にいない方が気兼ねなく、ラファエルたちも話したいことを話せるので、最近は世話係の女性はほとんど午前中出勤で、午後には帰る。だから何となく兄とネーリも、お寝坊さんになってしまったのだ。

 いくら可愛がっていただいてる妹でも、さすがにお兄様を叩き起こすのも忍びないと思って、アデライードは淹れ立ての紅茶をそっと扉の影から出してみた。

 すると数秒して、もぞもぞとラファエルがようやく動き出した。


「……いい匂い」


「あの……別に起きて欲しいと催促したわけではないのですけれど。もう少しお休みになられますか?」

 ふわぁ、と天蓋の布の影でラファエルが優雅に欠伸をした。

「ううん。起きるよ。もうお昼くらいかな?」

「朝食はいかがしましょう?」

「アデライードが淹れてくれた紅茶に、パンを少しだけでいいよ。夕食を三人でゆっくりと食べよう」

「かしこまりました」

 くすくす、とアデライードは笑っている。

「また、お泊まりですか?」

 ここはネーリの部屋だ。

 でもラファエルの部屋の隣にあり、扉で繋がっている。鍵は掛かるようになっているが、当然仲のいい二人は鍵が掛かっていないどころか扉も終始開けっぱなしなので、しょっちゅう話し込んだまま帰るのが面倒になって一緒に眠っている。


「ジィナイースがまた絵を描いてくれてたから、つい見続けてしまった。ジィナイースは筆が早いからなあ。見てると面白いんだよ。色のついた絵も格別美しいけど、僕は木炭だけで描くスイッチも好きだ。黒だけなのに彼のスケッチは色がついたように美しい」


 ベッドの側に置かれた何枚ものスケッチを、ラファエルが眺めて見ている。

「ラファエル様が結婚なされたら、お二人の仲の良さに、きっと奥様が焼きもちを妬かれますわ」

 ラファエルが吹き出している。

「それは妬くに決まってるよ。でもそれはしょうがない。他の女性のことなら貴方が僕の正妻なんだから堂々としていらっしゃればいいんですよ、僕も大切に遇しますからと慰めてあげられるけど、ネーリに関しては僕たちは死ぬまでずっと仲がいいから諦めてもらうしか無いね」

「まあ。お兄様、開き直られて」

 アデライードも笑っている。

 ……くす、と優しげな笑いが漏れて、眠っていたネーリが目を覚ましたようだ。

「わたくし、お二人に紅茶と軽い朝食を持って参ります」

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