死神。

桃鬼之人

濫觴。

 古典落語「死神」より──




 平日の午後、公園の片隅にあるベンチに腰を下ろす。初夏の柔らかな空気は穏やかだった。だが、俺の胸の内には晴れる気配のない重い雲が居座り続けていた。


「はぁ……」


 ため息ばかり吐いている気がする。いや、実際に吐いている。4分に一度のペースで。どうしてこんなことになってしまったのだろう…。


 ははっ…。どうしてだって? そんなの決まっている。会社でリストラされたのが全ての始まりだ。しかも、仕事を失っただけじゃなく、妻と娘も家を出て行ってしまった…。


「もう…、死にたいな……」


 はっ…! 俺は今、なんて言葉を口にしたんだ? 死ぬ、だって? いや…、実際にどうだ…? ああ…、そうだな…、意外とそれも悪くない選択なのかもしれない。そんな絶望的な考えを巡らせていると、ふと、視界の端に人影がひらりと滑り込んできた。


「旦那ぁ、ちょいと、いいですかい?」


 うつむいていた顔をゆっくりと上げると、俺と同じくらいの年代だろうか、小柄な男がこちらに向かって声をかけていた。質素を通り越して貧乏じみた身なりが目につき、第一印象は、正直言ってだった。


「えーと…、なんでしょうか…?」


「旦那ぁ、今、死にたいって言いましたな」


「え…?」


 そんなに大きな声で話していただろうか? いや、自分の耳に届くかどうかの、かすかな呟きにすぎなかったはずだ…。


「へへへ、大丈夫、分かっていますさ」


 小柄な男は、ためらいもなく俺が腰掛けているベンチの隣に腰を下ろした。


「儂は、死神ってやつでして、旦那ぁ、いい話があるんですさ」


 死神だと? 一体何なんだ? 怪しすぎるだろ…。はぁ…、ため息が漏れる。頼むからもうこれ以上、余計な問題を持ち込まないでくれ。


「すみません、間に合っていますんで…」


 俺がベンチを立ち上がり、立ち去ろうとしたその時、死神と名乗る男がさらに声をかけてきた。


「旦那ぁ、あんたはまだ死ねないよ。それに、もしかしたら、また嫁さんと娘さんと一緒に暮らせるかもしれんさ」


「な…」


「ああ、分かる分かる、なんで知っているんだ、って言いたいんですな? そりゃ死神も、一応、神だからそのくらいは分かるさね」


 俺は警戒を込めて問いかける。


「お前、いったい何者だ? 俺のことを調べたのか? だが、言っておく。俺にたかろうったって、金もなけりゃ力もない。俺を狙っても、何も出てこないぞ」


「くくく、そりゃそうだろうさね、旦那の今の所持金はXXXXX円だろう、そんな金、誰も狙わねえさね」


 こいつ、なんで…。俺は驚きのあまり言葉を失う。今朝、数えたばかりの所持金、その正確な数字をピタリと当てた。


「ははっ…」


 俺は予想外にも笑ってしまった。


「おやぁ、何か面白かったですかい?」


「いや、もうこうなりゃ、ヤケクソだ。どうせ暇で何をする予定もない。話だけでも聞いてみるさ」


「旦那ぁ、話が早くて助かりますさ。ここのくだりはいつも時間がかかってしまっていけねぇ、へへへ」


 死神と名乗る男は、不気味な笑みを浮かべながら、話を続けた。


「旦那ぁ、あんた、死のうとしても死なねぇ、まだ寿命はたっぷりあるからな。だからさ、医者になんな。大丈夫大丈夫、脈もとらなくていいし、診断もしなくていい、原因不明の重病人を治しときゃいいのよ」


 はぁ…、訳が分からない…。医者なんて、俺にできるわけがない。免許が必要だろうし、どうやっても無理だ。しかし、これは単なる暇つぶし。こいつの話をとりあえず一通り聞いてみる。


「まずは、医者の看板でも出しなぁ。と言っても、今の時代だとそりゃ無理な話か。そうさなぁ、霊媒師とか何とか言って、原因不明の重病人を治します、と触れ込めばいい」


 お前がまさに霊媒師のような怪しい奴だと思いながら話に耳を傾ける。


「いずれ重病人を抱えた客が『お願いします』と頼みにやってくらぁ。その重病人を診てやるんだ。診る時、重病人の枕元と足元を見るんだ。どちらかに死神がいる。あ、儂じゃないぞ。儂とは別の死神だ。もし枕元に死神が座っていたら『手遅だ』と言って帰りな。だがしかし、もし足元に死神が座っていたら、治す方法がある」


「治す方法…?」


「まぁ、待ちねぇ待ちねぇ、今教えてやるさね。いいかい、一度で憶えてくれよ。

『アジャラカモクレン ロケヨミガニシ テケレッツのパァ』と言って、

 その後、パンパンと手を二つ叩くんだ。

 これをやると死神を強制的に引きはがせるさぁ。死神がいなくなりゃ重病人は治る。旦那は儲かる。どうだ、簡単な話だろぃ」


「ぷっ……」


 死神を名乗る男は、真剣そのものの表情で語り続けていたが、俺は我慢の限界が来てしまった。


「あははははっ、はははっ!

 ああ…、もうダメだ、笑いが止まらない!」


 死神を名乗る男は、俺が笑い出しても微動だにせず、その無表情を崩さなかった。


「いや、うん、分かったよ、医者ね。久々に笑えた、思ってたより楽しかった。それじゃあな」


 俺はベンチを立ち上がり、立ち去ろうとした。背後から「仕方がないさね…」と声が聞こえる。


 その時──




 キーーーーン




 なんだ、身体の感覚がおかしい。まるで現実の手応えがすべて失われたようだ。それは永遠にも思えるし、刹那のようにも感じられる曖昧な時間だった。そして、気づくと、そこは公園ではなく、無数のローソクが揺らめく奇妙な光景の中だった。


「旦那ぁ、分かってくれましたかい?」


「こ、これは…」


 俺はごくりと唾を飲み込んだ。これは何だ? 夢なのか?


「夢じゃあないですさ。ほれ、これが旦那のローソク。まだまだ長いですさ、まだまだ死ねないですさ」


 死神を名乗る男が指さしたローソクは、確かに長く、その火が消えるまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。


「これが、俺のローソク…。寿命ってことなのか…? お前…、本当に死神なのか…?」


「へぇ、だから何度も言ってるさね。あっと、旦那ぁ、注意してくださいよぉ、その火、息を吹いて消すとまずいんですさ」


「………!」


 火が消えればまずい――つまり、死ぬということか…。その考えが脳裏をよぎった瞬間、全身に緊張が走り、思わず息を呑んだ。


「お、お前の目的はなんだ? 本当に死神だとしたら、俺の命を奪いにきたってことか…?」


「旦那ぁ、さっき言ったさね、旦那は重病人を助けて金を稼ぎなって」


「ま、まさか、本当に…?」


「へぇ、本当ですさ」


「じゃあ、命は奪わないってことなのか…?」


「へぇ、ローソクの寿命があるのに、命を奪う死神は、はずれ者になっちまうんで」


「そ、そうか…」


 さっきまで死にたいと口にしたはずなのに、いざこうして命の危険を感じると、生きたいという欲望が湧いてくる…。死神の真意は分からないが、少なくとも命を狙われているわけではなさそうだ。緊張がほぐれるように、思わず安堵のを漏らしてしまった。


「旦那ぁ…」


 まずい…! 俺のローソクに向かって風が吹く。ローソクの炎がボボボッと揺れ、やがて火が消える──が…、芯にまだ微かな火種が残っていたのか、再び火がボワッと灯り、静かにゆらゆらと揺れ続けている。


「あ、危なかった…。お前が死神ってのは理解した。分かったから、すぐに戻してくれ…」


「へい」




 キーーーーン




 先ほどの感覚がふと蘇る。胸がざわつき、視界が歪む中、気づけば元の公園に戻っていた。安堵の息をつきながらベンチに座り込む。


 確かに…、これは夢ではないようだ…。これからどうするべきか…?


 だが…、正直に言えば、俺の好奇心が強く刺激されていた。怪しい話だということは分かっている。それでも、それがどんな展開を迎えるのかが気になって仕方がない。こうした現実離れした話が、今の自分の心の空洞を埋めてくれるかもしれないという、わずかな期待もあった。


 俺は死神に向かって言った。


「分かった…。その話に乗ってみるよ」




 ❖ ❖ ❖ ❖




 重病人を治すとしても、今から医者にはなれない。医者を名乗ってしまえば詐欺罪に問われる可能性もある。そこで、俺は気功師を名乗ってみることにした。それっぽい用語をいくつか覚えておけば、あとは適当に誤魔化せるだろう。そして、相談が寄せられるように、SNSや無料のホームページ作成サービスを使って、「原因不明の病、気功施術で治します」と宣伝した。


 こんな方法で、すぐに相談が来るわけがないと思うのだが、死神いわく「儂が協力しているんで、相談が来るようになるさね」と自信満々に語っていた。何か死神の力が働くのだろうか?


 翌日、死神の言葉どおり、無料で作ったホームページに早速相談のメールが届いた。驚くべきことに、その相手は有名企業の会長だった。


 訪問先の家に辿り着くと思わず息を呑んだ。普通の家の五倍はあろうかという広さの敷地に、立派な家が堂々と建っている。そして、初老の執事に奥まった一室を案内される。丁寧に一礼しながら「こちらでございます」と告げた。


 部屋に入ると、白髪の老人が大きなベッドで寝ている。ひどくやせ細り、その姿からも体調が思わしくないことが一目で伝わってきた。


 そして、俺は枕元と足元をすぐに確認する。


 いた!

 足元だ!

 足元に死神がいる!


 ベッドの片隅で正座し、じっと会長を見つめている。


「どうでしょうか…?」


「はい、治せる可能性がありますね、これは」


「そうですか…。えっ、治せる…!?」


 これまで数々の医者に見込みのないような答えしか得られなかったのだろう。執事の目が大きく見開かれ、その表情には驚きがありありと浮かんでいた。


「はい、ただ、集中しての施術が必要です。しばらく人払いをお願いしても良いですか?」


「わ、分かりました…」


 さて、これが初めての試みだ。本当に治せるのかどうか、期待と不安が入り混じり、胸の奥がざわつく。なんにせよ、やってみるしかない…。死神に教わった方法を思い出す。


「アジャラカモクレン ロケヨミガニシ テケレッツのパァ」

 そう言うなり、間髪入れずに手を二度、パンパンと打ち鳴らした。


 死神がカッと目を見開き驚愕の表情を浮かべたかと思うと、恨めしげな顔をしながら、ふわりと空気に溶け込むように消えてしまった。

 本当だ…! 本当に消えた……!

 その不思議な現象を目の当たりにした俺は、小さな興奮を覚えていた。


 寝ていた会長は、ガバッと布団から身を起こし、大きなあくびを一つする。

「なんか、身体が楽になったな。おい、お前は誰だ? 新しい使用人か? 腹が減った、何か作ってくれ」


 その後、執事が事の経緯を説明し、俺は会長と執事から多大な感謝の言葉を受けた。そして、報酬はどれくらいか、と聞かれると、10万円か、いや、100万円くらいはいけるのだろうか?と考えるも、相場がまったく分からず、思わず人差し指を一本立ててしまう。


 会長と執事は顔を見合わせ、口を揃えて「あり得ないだろ…」と漏らす。まずい…、ふっかけすぎたか?


「たった1000万円でいいのか、あり得ないだろ」と言われてしまった。俺は開業したばかりで初回キャンペーンを行っておりまして、などと訳の分からないことを口にしながら、即金で1000万円の報酬を得ることになった。

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