一杯目 涙をぬぐう琥珀色のベジブロス⑤

 シーナがエルザの店を手伝うようになり、数日が過ぎた。

 夫婦が暮らす母屋に寄り添うように建つ小屋が、エルザのパンとスープの店だ。

 狭い店の中には木製のテーブルが三台置かれ、それぞれに椅子が四脚ずつ並べられている。奥が調理場になっており、炎が揺らめく立派な石窯があった。

 炉の上には使い込まれた鍋が吊るされ、桶や籠などの道具類は棚に整然と並べられている。

 店を彩るのは、鮮やかな野菜や瓶詰めのジャムたちだ。古びたつましい小屋ではあるが、温かみのある店だった。

 しかも、店には屋根裏まであり、シーナはここで寝起きをするようになっていた。


「シーナ、朝よ。さあ、起きて」


 エルザの朝は早い。まだ薄暗い夜明け前から起き出して、パンを焼きスープを仕込む。

 やっと目を覚ましたシーナは、眠たい目をこすりながらつぶやいた。


「もう、朝……急がないと」


 シーナの朝ももちろん早い。

 シーナなりに、食事や寝床を与えてくれたエルザとハルタの厚意に報いるべく、一日も早く一人前になろうとしていた。


「ふふふ。シーナはお寝坊さんね」


 エルザの独り言が聞こえてくる。

 ヴァレリアだった頃の生活と比べれば、これでもずいぶんと早起きだったが、まだまだのようだ。


「おはようございます」


 屋根裏から梯子を伝って階下へ下り、シーナはさっそく湯を沸かす。

 エルザの丸パンは風味が良く弾力もあり、町一番のパンだと言われているそうだ。

 おいしいパンを作るには、発酵という手順を踏まなければならない。

 パン生地を発酵させるには、湯が必要だった。

 さらにもうひとつ、重要なのは……。


「良かった。今日も元気そうね」


 手にした瓶を眺め、エルザは満足そうに微笑んでいた。

 表面に無数の気泡を浮かべ、瓶の中でぷっくりと膨らんでいるものはパン種だ。

 麦粉に干し葡萄から作る秘伝の液を混ぜたパン種は、生地をふっくらと膨らませ、旨味や風味をもたらしてくれるという。

 食材や料理の知識はあっても、実際に調理をしたことがないシーナにとって、毎日が新鮮な学びだった。


「シーナ、見ていて」


 麦粉に塩や水、さらにパン種を加えたものを、エルザは桶の中でくるくるとかき混ぜた。生地がまとまりはじめ粉気がなくなったところで、作業台へと取り出す。

 シーナは、エルザの手元をしっかりと見つめていた。

 生地を押し広げ、力強く押し込む。

 まるで生地と対話しているかのような、熟練した手つきだった。

 こねが終わると、エルザは軽く生地に粉をはたき、湯を張った桶と一緒に木箱に入れる。


「シーナもやってみなさい」

「は、はい」

「おいしいパンが焼けるようになれば、きっとこの先も困ることはないでしょうから」


 手に職をつけたほうがいい、ということかしら……。


 もしかするとこの店に、シーナを養うだけの実入りはないのかもしれない。


 迷惑をかけているのかもしれないわ……。


 新しい仕事を探し、住む家を見つけて、いずれはここを出ていくべきだろう。

 当然、いつまで自分を偽っていられるかも分からない――シーナの表情はみるみる硬くなっていった。


「嫌だ、眉間に皺が寄ってる。可愛い顔が台無しよ」


 エルザは、シーナを真似て顔をしかめてみせる。

 真面目なシーナは、ひたすら困惑した。


「ただ、パンを焼くだけよ。そんなに難しく考えないで」


 お手本のような柔らかな笑顔を、エルザはふわりと浮かべる。


「もっと気楽にやればいいのよ。だから、笑ってちょうだい?」

「ここでは、笑ってもいいのでしょうか」

「もちろんよ」


 そこでシーナは、ぎこちないながらも口角を上げてみた。


「笑うと、もっと素敵よ。さあ、続きをやって」

「分かりました」


 素敵かどうかは、ともかくとして。


 先のことばかり考えていてもしょうがないと、シーナは軽く首を横に振った。

 見様見真似ではあるものの、ただ夢中で生地をこねていく。

 エルザの手の動きを頭に思い描きながら、生地を広げて伸ばし、畳むのを繰り返した。

 ところが、シーナの生地はいつまで経ってもぼそぼそとしていて、なかなかまとまらない。


「ふふふ。生真面目なシーナの前で、生地がよそ行きの顔をしているわ」


 エルザはどこか愉快そうである。


「よそ行きの顔、ですか……?」

「もっと肩の力を抜いて、楽にやればいいのよ。代わって」


 エルザがこねだすと、生地はしっとりと滑らかになっていった。

 見るからに、生地は楽しげな表情をしている。ふっくらとしていてつやつやだ。


「シーナは呑み込みが早いから、すぐに上手になるでしょうね」


 エルザの手から、いい具合にまとまった生地を渡される。


「発酵をお願い」

「発酵ですね」


 シーナは湯を張った桶と粉をはたいた生地を、手早く木箱へと入れた。

 木箱の中の程よい湿気と温度が、生地の発酵を促してくれるそうだ。


「次はスープよ」


 エルザは、皮を剥いた芋をざくざくと大きめに切り分けていく。

 エルザが店で出すスープは、田舎町の家庭料理である麦のスープだ。

 茹でた麦と季節の野菜、たまに燻した肉や腸詰めなどが入る素朴なスープで、塩と香草だけで味付けする。

 ぷちぷちとした麦の食感と野菜の旨味が、麦の国に暮らす人々の郷愁を誘うらしい。

 中でもエルザの味付けは絶妙で、繰り返し口にしたくなる味だと好評だった。評判を聞きつけ、王都からわざわざやってくる客もいるようだ。


「ふう。ちょっと疲れたみたい。休むわね」

「私が代わります」


 エルザを椅子に座らせるとすぐに、シーナは鍋を火にかけた。

 教わった通りオイルでにんにくを炒め、香りが出てきたところで角切りの燻した肉を入れる。

 さらに、芋や玉ねぎ、トマトなどの野菜を加えて、焦がさないよう軽く炒めた。


「山の国では珍しいでしょうね。トマトに毒があるなんて迷信よ」


 トマトの扱いに慣れていないシーナを見て、エルザは微笑む。


「どんな味がするのか、楽しみです」


 山の国では、トマトは主に観賞用で、毒性があるからと嫌厭され口にすることはない。

 実際には、完熟トマトに毒性はなく、未熟のトマトにおいては量によって用心したほうがいい――という話だが、シーナはこれまで、この知識をただ頭の片隅に置いていただけだった。


「トマトを口にする日が来るなんて……」


 交易が盛んな麦の国には珍しい野菜や果物が多くあり、それらを食することにも抵抗がないようだ。

 栽培することにも熱心で、ハルタの畑にも様々な野菜が植えられている。


「いい香りね」


 エルザが楽しげに言った。

 食欲をそそるにんにくの香りが充満する。野菜たちに艶が出る。

 あとは、茹でた麦と水を加えて煮込んでいくだけだ。

 コツは、煮崩れないよう野菜を大きめに切ること。

 シーナは真剣な表情で、いっときも鍋から目を離さなかった。

 ぐつぐつと煮立ってきたら、丁寧に灰汁を掬う。


「味付けはどうしましょうか?」


 シーナが訊ねると、「よっこらしょ」とエルザが立ち上がった。


「適当でいいのよ。見ていて」


 エルザは指先で塩をつまみ上げ、鍋の中にぱらぱらと振りかけた。

 小皿に少量のスープを取ると、よく冷ましてから味見する。

 納得いかないのか「うーん」と首を傾げ、さらに塩を振った。


「自分の体調によっても、味覚が変わるのよ。だから、適当」


 再びスープの味を見て、「こんなものかしら」といったん鍋を火から下ろす。

 野菜がたっぷり入ったスープの表面は、コクと旨味できらめいていた。

 ふわりと漂う芳醇な香りは、畑から摘んできたばかりの新鮮な香草だ。

 香草は香りが飛ばないよう、食べる直前に刻んでスープに加えるそうだ。


「おいしそう……」


 自分の手から生まれたとは思えない出来栄えのスープに、思わずため息がこぼれる。


 スープの温もりが、心にまで染み渡っていくようだわ……。


 シーナは、これまで感じたことのない充実感で満たされた。

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