麦の国のスープ暦

タカナシ

一杯目 涙をぬぐう琥珀色のベジブロス

一杯目 涙をぬぐう琥珀色のベジブロス①

 主よ、お守りください――


 手足を縛られた若い娘は、渓谷の断崖絶壁に立たされていた。

 吹きすさぶ雨風は容赦なく娘の白い頬を打ち、谷底に流れる川は飛沫をあげながら娘を呑み込もうと待ち受けている。


 どうか、真実を明らかにしてください。


 娘の祈りもむなしく、ついに死の鐘が鳴り響き、兵士たちが一斉に槍を構えた。


「罪人ヴァレリア・アスターの死刑を執行する」


 漆黒のマントに身を包んだ処刑人モロクが、冷酷な声で告げる。

 彼の口元には微笑が浮かんでいたが、罪人と呼ばれた娘、ヴァレリアは知る由もなかった。


「神の裁きを受けるがいい」


 強い力で背中を押され、ヴァレリアの体は放り出される。ふわり、と浮いたような感覚のあと、急激に重力に引き寄せられた。

 岩肌が眼前に迫り、とっさに目を閉じる。恐怖と絶望で、叫びは声にならなかった。

 遠のく意識の中、ヴァレリアは問いかける。


 私はどう生きれば良かったのでしょうか?

 主よ――

 

『愛することは最も美しい祈りです』


 ふいに、修道院の厳かな聖堂が思い出され、マザーの温かな言葉やシスターたちが歌う讃歌が、頭の中で波紋のように広がっていくのだった。



 ✧・・・✧・・・✧



 ヴァレリア・アスターは、〝山の国〟と呼ばれるサンタジュナ王国の、名門アスター公爵家の長女として生まれた。

 山の国は険しい山脈に囲われた小国で、他国に攻め入られることもなければ、著しい発展を遂げることもなく、古いしきたりを守りながら静かに歴史を刻んできた国である。

 ヴァレリアの運命もまた、しきたりにならって、生まれて間もなく定められた。

 未来の王太子妃は、五大貴族に生まれた子女の中から王によって選ばれる。


「亜麻色の髪とはしばみ色の瞳は、高貴な生まれの証。血色も良く、健やかに育つきざしがある」


 王の眼力において、ヴァレリアは王太子の婚約者にふさわしいとされたのだ。

 物心つく頃から厳しい妃教育がはじまり、ヴァレリアは幼いながらも、自分を律する術を覚えていく。

 しきたりに縛られていたヴァレリアには、親しい友人もいなければ家族との思い出もない。幼い頃は、自由に暮らすふたつ年下の妹と自分を比べ、寂しいと思うこともあった。

 ただし、学ぶことは楽しかった。礼儀作法や語学、芸術や文学は、ヴァレリアの心を豊かにしてくれたからだ。


「明日はどんなお勉強をするのかしら。待ち遠しいわ」


 ヴァレリアの心の中がどんなに豊かでも、取り澄ましていて近づきがたいと周囲からは思われていたようだ。

 はじめての舞踏会で聞こえてきたのは、貴婦人たちの含みのある囁き声。


「まあ、笑顔ひとつ見せないなんて、愛想がないご令嬢ですこと」


 人前で笑うことははしたないとされ、いつも口を引き結んでいたせいだろう。


「話しかけても返事もなさらないのよ。王太子の婚約者だからとお高くとまっているのね」


 おしゃべりはさらに無作法とされ、相槌を打つだけにとどめていたせいだろう。


「舞踏会であんなドレスを着るなんて、何を企んでいるのやら」


 慎みのある装いを求められ、地味な色のドレスを選んで着ていたせいだろう。


 すべて、民に慕われる王太子妃となるためだったが、嫉妬や虚栄が渦巻く王宮では、ヴァレリアの努力が報われることはなかった。

 いつしか両親でさえ、愛らしく華のある妹ソフィアだけをあからさまに可愛がり、表情の乏しいヴァレリアを遠ざけるようになる。

 さらには――まさか、婚約者であるオスカー王太子までもが、ヴァレリアではなくソフィアを愛するようになるとは想像もしていなかった。

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