運命を見つけましたが、まさかそんなにいるとは思わない

腐海の鴎

第1話 賢者との遭遇




 アンデルト帝国の南西郡、領地デイウェルブ。その南には鬱蒼とした巨大な森が横たわっている。かつては深く迷いやすいことから誰も奥深くまで入ろうとしなかったその森に、ある日、人知れず家ができた。それは、とある7人の兄弟が建てた家だった。7人の兄弟はそれぞれ非凡の才を持っていたが、彼らはその才と智慧を領地のために余すことなく奮った。それは領地の発展に大きく貢献され、そんな兄弟たちを慕い、領主と領民たちはその兄弟に称号を贈った。人智を超えた仁徳者“賢者”の称号を。以来デイウェルブの住民たちは、その賢者が出入りするその森のことを賢者の森と呼び、そこを賢者たちの土地として敬った。

 物語はそこから約15年の月日が経つ頃に始まるーーーーーーーーーーーー






「たった10年にしてこれほど発展を遂げるか。賢者たちの貢献とは凄まじいものがあるな」

「……………」


 そう言って高級な馬車の窓からどこか冷笑する男に、力無く頷くのは同乗している獣人のヘイゼイだ。その首には奴隷である印の首輪が鈍く光る。


 この国には奴隷という制度がある。アンデルト帝国は今なお続く侵略国家の影響で、よく他国の人間を奴隷としてこの国で使役していた。国内で違法に奴隷にされる者も少なくないが、大半は敗戦国の国民たちであったため負けた国の奴隷に人権などある筈がなく、その扱いは軽かった。労働環境は過酷の一言に尽き、今でも過重労働による死者は後を絶たない。その実情を知る未だ侵略されていない国の者たちはそれを恐れて、より遠いところに逃げたり降伏する者もいると言う。


 その中において、ヘイゼイの扱いは丁寧であるといえた。主人に逆らえないように隷属の首輪が付いているとはいえ、それ以外は清潔な服を与えられ、奴隷にしては良い食事を与えてもらっているので肌艶もいい。体はこの国の平均にしてはやや小さい方だが、筋肉がむちっとついていて健康的な肉体をしている。殴られたり、ムチで叩かれたような痕もない。

 そんな好待遇を受けているヘイゼイだが、所詮は奴隷である。その顔には生気はなく、目の前に座っている貴族の前でヘイゼイは微動だにせず座っていた。外の喧騒に目を向けることもなく、その表情は酷い環境で働く奴隷たちと大差ないほどに生に諦観したような目をしている。

 彼が奴隷にしてはそこまで良い待遇を受けているのはまた別に事情はあるのだが、一番の理由は目の前のいやらしい笑みを浮かべる高位貴族の趣味だった。


「宿に着いたら、また可愛がってやる」

「……はい、ありがとうございます」


 感情なく応えるヘイゼイに、その貴族は傲岸な笑みで頷いた。貴族の奴隷でここまで良い待遇を受けているということは、そういうことだ。貴族の性奴隷が見目の悪いなりをしていることはまずない。貴族の目の届く場所に汚い状態で奴隷を出すはずがないからだ。そして、この貴族はそんな中においてもなかなかの好事家だった。

 ヘイゼイは無意識に膝に置いていた手に力を込める。この貴族の奴隷になってから3年程経ったが、この男の趣向には一向に慣れることがなかった。それがどれだけ気持ちいいと感じたことでも、ヘイゼイにとってそれはただただ苦行のような行為だった。


 ガタンと、今まで定速で走っていた馬車がゆっくりと止まる。宿に着いたようだ。侯爵位を持つ男が泊まる宿なので、勿論この領地において最高級の宿である。止まった馬車の扉が開かれて、中から見えたのは貴賓あふれる建物と淑然とした振る舞いで首を垂れる使用人たちだった。

 そんな中、何の感慨もなく外に出る侯爵に続き、ヘイゼイもさっさと席を立ち中から降りる。その際に使用人の一人とパチリと目があったが、その目は微かに見開かれるとすぐに逸らされた。ヘイゼイが奴隷で獣人だからだろう。

 獣人の国は、この帝国と隣り合った土地にある小国である。しかしながら帝国の侵略を受けなかった国として有名であった。というのも、15年前に起こった事件を境に、国ごと獣人たちが姿を消したからである。その異様な状態は、かつて一つの集落が神の力で姿を消したという伝説にちなんで“雲隠れ”と呼ばれていた。おそらくその領土から出ていないことは確かだが、何故かいくら調査しても獣人が暮らしている痕跡どころか獣人の一人すら見つけることができず、この帝国の王はその侵略を諦めたと言われている。

 そういうわけで、この国で獣人を見かけるとしたらそれ以前からこの国に住んでいた者か、連れ攫われ奴隷にされた者かに分かれる。この国の人間至上主義、または自国民至上主義によって獣人は排他的な扱いを受けることが多かったので、見かけるとしたら奴隷だが、それでも獣人の国が“雲隠れ”して以来獣人は見かけること自体が稀となった。だからだろうか、こんなところで獣人がこんな綺麗な服を着て、いい扱いを受けていることに驚いたのだろう。

 貴族の奴隷とはいえ嫌悪の眼差しを向けられることは普通にあるので、ヘイゼイもさっと目を逸らして、尊大な態度で案内を受ける主人の後を粛々と着いていった。

 だからヘイゼイは気づくことはなかった。その目が合った使用人が一人その場を離れ、ひっそりと建物を出て行ったのを。






「ふん、悪くはないな」


 用意された宿一番の豪勢な部屋に、値踏みするような視線をスルッと通すと、男は金色の金属で縁どれらたソファに座った。その男の斜め後ろでヘイゼイは静かに立つ。男の視界にギリギリ入らないラインに立ったのだが、ヘイゼイの小さな小さな抵抗は男の命令によって意味をなさない。


「何をしている。来い」

「……はい」


 男はヘイゼイに目を向けると、チョイチョイと指で手招いた。ヘイゼイはそれに逆らうことなく、男の前に移動する。こう言う時の男の「来い」と言うのはただ一択である。ヘイゼイは男の前でしゃがむと、いつものお決まりの文句を口にした。


「奉仕、させていただいても、よろしいでしょうか」

「ああ」


 いつもこの言葉を言う時は言葉が震える。何度も何度も、体が覚えてしまうほどこの行為をやらされてきたというのに、ヘイゼイはこの行為に募る嫌悪感を忘れることができない。男のズボンに手をかけ、中からそれを出す時、ヘイゼイはいつも息が詰まるようだった。

 そんなヘイゼイに、男は怒るでもなくニタニタとただ笑っている。ヘイゼイがこの行為に慣れず、怯えているのに快感を感じる。かつて性奴隷を買ってはその体を調教し、幾度となく快楽に堕としてきたことはあったが、ヘイゼイはなかなかその行為に慣れることはなかった。快楽に溺れはしても行為に溺れることはない。いつも静かに男から与えられる快楽に怯えていた。体はそこらの性奴隷より敏感だというのに、大したものである。男はそんなところが気に入っていて、よくヘイゼイで遊んでいた。譲り受けた奴隷だが、なかなか壊れないため男のお気に入りであった。


「失礼します」


 ヘイゼイは手に持った男根の先を、ゆっくりと口に含む。すでに軽く芯を持ち始めていたその先端を口の中で舌全体で覆うようにヌル、ニュルと舐める。数度舌先でその溝に沿うように先を愛撫すると、唇を輪郭に密着させるようにして口からチュプ、と出した。

 ヘイゼイはその行為に嫌悪感が薄れることはなかったが、皮肉なことに舌捌きはそこらの高級娼婦に匹敵するほど手練であった。


「ん、っふ、む」


 唾液を絡ませるように竿を下から舐め上げていく。時々そのくびれを唇と舌先で刺激を与えるように強く舐ると、男のソレは簡単に硬度を増していった。


「ふ、よく男の扱いがわかっているよな。流石だ」

「…………ありふぁとふごふぁいます」


 ヘイゼイはソレから口を離すことなく、静かに礼を述べた。

 こういう風に褒め言葉を言うと、ヘイゼイの顔は更に強張る。嫌悪感が増すのだろう。

 快楽と不快感の中で葛藤する奴隷を見るのはいいものだ。その倫理観ごとぶち壊してしまうのが一番気持ちがいいのだが、ヘイゼイは未だその兆しを見せる様子はない。

 ちゅる、にゅる、と卑猥な音が二人だけの室内に響く。ヘイゼイは、この後の行為を先延ばしにするようにゆっくりとそれを進めた。しかし、男の手がヘイゼイの頭に乗り、ヘイゼイに全部咥えるように促すと、ヘイゼイは抗うことなくソレをできるところまで口に頬張っていく。そして後三分の一、というところで喉の手前まで来て止めた。


「歯を立てるなよ」


 この後は男の気分次第でヘイゼイが最後までやるか、男が好きなように動くかが決まるのだが、今日は後者なようだ。ヘイゼイの頭を両手で押さえると、男はゆっくりとその口からずるりと抜き出し、勢いをつけて一気に喉奥まで穿った。


「っっっぇ、う」


 咽せそうになるが、ヘイゼイは気合いでねじ伏せる。吐こうものならこの後仕置きと称した暴力的な快楽地獄が待っている。

 男は裏では拷問官として名を馳せた貴族の家柄であったが、仕事柄か人体の快楽に精通していた。何度もこの男に仕置きされているヘイゼイには、快楽が拷問だというのはよく分かる。快楽が気持ちいいのは最初だけだ。適した量でなければ人間の脳は快楽を許容できず、過ぎればそれはただの苦痛になる。


「っは、出すぞ、飲まずに口に溜めろ」

「っ、ゔ、っん」


 何度も喉奥まで擦り付けるように行われる抽送に、滲む涙と吐き気を堪えながらなんとか小さく頷く。その視線を受けた男が、より一層それを喉奥に強く打ちつけた後、ようやく腰を軽く痙攣させてヘイゼイの内頬に擦り付けるように吐精した。ヘイゼイの口内に独特のえぐみというか苦味が広がり鼻の中を濃い精の匂いが通り抜けていく。

 男は気が済むまでヘイゼイの内頬にソレを擦り付けると、ゆっくりと口から抜いた。僅かに男のソレに残っていた白濁からヘイゼイの唇に小さく糸ができる。それをヘイゼイは落とさないように舌を広げて受け止める。そのまま男のソレの先端に口付けて、尿道に残っていた分をちゅルル、と吸い取った。そして、ようやくそこから顔を離し、男を見上げる。男は少し興奮したような眼差しでヘイゼイに手を当てた。


「口を開け」

「……」


 男の手に促されるように、ゆっくりと口を開いて中のモノを見せる。男はソレを見てニタリと笑うと、口の端から溢れていた分をヘイゼイの口まで掬い上げた。舌はアレで塞がっているので、ヘイゼイは舐めとるように唇でソレを吸いとる。

 そしてぬちゃぬちゃするのを口にどうにか溜めて主人に見せながら、ヘイゼイは次の指示を待った。飲み込むでもなんでもいいからこの口の中の不快なものをさっさとどうにかしてしまいたい。

 しかし、主人は予想に反して「飲むな」とヘイゼイに指示を出すと、ヘイゼイを立たせてその腰を引き寄せた。


「今日はそのまま口に溜めながらやってみようか」


 ああ、こういうところがどうしても慣れない。

 嫌な笑みを浮かべる主人に、ヘイゼイは眉を顰めそうになるのを堪えながら、声を出しにくいので小さく頷いた。

 男の手が簡単に外れるヘイゼイの下履きの紐を解く。また今日も、鬱屈な行為が始まる。






(今日は息がしづらくて大変だったな)


 ヘイゼイは従者たちの風呂場に連れて行かれながら、小さく息を吐いた。行為には慣れないが、快楽には慣れているので事後はいつも快楽のことは頭になく、ヘイゼイはなにがきつかっただとかを考えていた。

 別に快楽は感じるのだが、気持ちがどうしてもガラスの板を通して見ているかのように冷静になってしまって、そのチグハグさにいつも不快さを感じてしまうのだ。感情だけが遠いところに置いてきぼりにされてしまっているというか。しかしそれのおかげか、快楽に関しても一歩離れたところから俯瞰して見ることができる。

 あの主人は自分を快楽の底に堕としてやりたいようだが、ヘイゼイがもし気持ち良さに身を堕とすとしたら、それは感情を失った時だけだろうなと思惟しいする。それがいつ来るかはわからないが、そうなった時はもう自分は事切れた人形のようになっているようで、恐ろしさと同時に諦観を感じた。そうなる以外の未来がヘイゼイには見えなかった。

 今まで、それが嫌で逃げ出したこともあったが、あることをきっかけにヘイゼイは逃げることを諦めた。それ以来、従順な奴隷であり続けている。逆らっても、何も変わらない。むしろ酷い仕置きが待っていることを思えば、これからもヘイゼイは逆らうことも逃げることもしないだろう。


 そう、思っていたのだ。その時までは。


(なんだろう、この香り)


 とてもいい匂いで、かつて獣人の国にいた時に感じたような綺麗な獣の匂いがした。ただ、それだけだった。それだけだったのに、その匂いに惹かれて、とても惹かれて、ヘイゼイはいつの間にかその匂いを追って走り出していた。

 今まで従順な態度だった奴隷がなんの前触れもなしに逃げ出したため、反応が遅れた侍従と逃亡防止用の護衛が慌ててヘイゼイを追いかける。


「待て! 止まれ!」


 逃げて、しまった。

 捕まったら、と思うとその怒声のような叫び声に足がすくみそうになるが、ヘイゼイは己の足を叱咤して匂いが続いている扉の中に滑り込んだ。そこは、3人が横に並べる程度の狭さしかなかったが、使用人たちの通路だったようで宿の裏場の姿が見えた。ヘイゼイはすぐさま匂いのする方へとひた走る。その後を間髪入れずに、侍従と護衛が扉を潜り抜けてきた。


「その奴隷を誰か捕まえてくれ!」


 声を張り上げて護衛が叫ぶが、そこにいた使用人たちは皆驚いているのか動きが止まってヘイゼイを止めるものは誰一人としていない。それをチャンスとばかりに、一直線に続く廊下をヘイゼイは走り続けた。

 最近まで走ることをしていなかったからか、足が絡んでこけそうになる。それでも、どうしても惹かれる匂いにヘイゼイは必死に走って、走って、外に繋がる扉を開けた。


「わ!」

「っと」


 そこで、ドン、と外から中に入ろうとしてきた男とぶつかった。勢い余って倒れそうになるヘイゼイの腰を、咄嗟に目の前の男が支えてくれる。しまった、早く、逃げなきゃ、と体を起こそうとしたヘイゼイの腕がふと止まる。

 この男から、ヘイゼイはあの匂いを感じ取った。


(何、これ)


 至近距離で嗅いだその匂いに、ドクン、ドクンと鼓動が大きく脈打ち始める。手が震えて、思考が止まる。支えられた手に、無意識にヘイゼイは縋るように小さくしがみついた。


「君は、」

(この人の、匂いだーーーーーーーーー)












「捕まえてくれて感謝する。その奴隷はうちのなんだ。返してくれ」


 不意に聞こえた護衛の声に、ヘイゼイの意識は一気に引き戻された。そうだ。追われていたんだった。この男の匂いに無性に安心して、ヘイゼイはすっかり侍従と護衛のことを忘れていた。


(しまった、やってしまった)


 ヘイゼイは、奴隷だ。誰も、助けてはくれないというのに。

 ヘイゼイはすぐにその場から逃げようとしたが、必死に走っていた足が今は何故か鉛のように重くて動かなかった。


(そうだ、逃げると言ったって、どこに………)


 奴隷が隷属の首輪をしたまま、普通の生活を送れるはずがない。通報されるか、良くて野垂れ死にして終わるだけ。

 今まで何度も感じてきた足掻いたってどうにもならないという諦めが、ヘイゼイの足元に纏わりついきてじわじわと心をドス黒く塗りつぶした。

 それに、目の前の男はこんなところにいるのだからそこまで地位のある人間ではない筈だ。いかにも高位貴族の侍従と護衛と言わんばかりの人たちに要求されたら、簡単にヘイゼイなんか引き渡してしまうだろう。


(いやだ………)


 そうなったら、あの男の仕置きが待っている。

 最近はあの貴族の怒りに触れないように徹底して生きてきたからか、ヘイゼイは仕置きされるようなことがなかった。仕置きできるきっかけがないから、あの主人がウズウズしていたのにも気づいていた。だけど、なるべく主人の沸点に触れないように生きていけば、これからも最小限の仕置きで済むと思っていたのだ。それを、ヘイゼイはやらかしてしまった。逃げると言う奴隷としてしてはならない禁則を犯してしまった。これではそれこそ特大の“仕置き”の口実をあの男に与えてしまう。


 どうして、この匂いを嗅いでしまっただけで、逃げ出してしまったんだろう。

 かつてその男の“仕置き”を何度も何度も何度も何度も受けてきた体が、異常なまでに震え出す。

 怖い、怖い怖い怖い怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖いーーーーーーー


「奴隷、と言ったか?」


 その時目の前の男から、地を這うような恐ろしい声が聞こえて、ふ、とヘイゼイの意識は現実に戻った。

 怒りを湛えるような声に、奴隷をまるで汚いものとでもいうように嫌悪する人間が一定数いるのを思い出す。まさかそんな人にぶつかったんだろうか、と一瞬恐怖したが、男がヘイゼイを抱え込むように侍従たちから引き離してくれたことに疑問を感じて、男の顔を仰ぎ見た。

 そういえばぶつかってから一度も男のことをまともに見たことはなかった、と顔が近くにあるのをいいことにヘイゼイは男をそろりと観察した。

 男は真っ黒い髪を目の上まで伸ばして、丸い縁眼鏡をかけている三白眼の丹精な顔立ちをしている人だった。ヘイゼイより頭一つ分は大きく、体はゆったりとした着物にさらにその内側に密着するように黒い服を着ている。それにも関わらず、がっしりとした筋肉がついているのが一目で分かる引き締まった肉体をしていた。ヘイゼイのむっちりとした柔らかい筋肉に反して、その男の筋肉は鍛え上げた戦士のように硬そうである。

 そしてその目は、目の前の侍従と護衛を睨みつけるように細められていた。嫌悪するように、侮蔑するように。耳に揺れる黒い房飾りが男の怒りを強調するようにゆらゆら揺れていた。


「奴隷、と言ったか?」

「そ、そうだ。その方はエノマイル侯爵の奴隷だ。返してもらう!」


 男の並々ならぬ睨みに怯み、声を出せなかった侍従が自分を鼓舞するように二度目の問いに声を張り上げた。


「ほお?」


 またしても怒気の増した声に、ヘイゼイの体がビクッと揺れる。自分に向けられているわけでもないのに何故こんなにも恐ろしいのか。男がヘイゼイの腰を支えてくれていなかったら、ヘイゼイは腰を抜かして座り込んでいたかもしれない。


「この領地では奴隷の所持も売買も禁止されているというのに、この子は奴隷だと臆面もなく抜かすか」


(え……………?)


 その時、初めて聞いた情報にヘイゼイはポカン、とした。奴隷大国とも揶揄されるほど、この国では奴隷が色んな所で働かされている。だというのに、その国の領地の一つにも関わらず、奴隷所持が禁止されている?

 何を言っているんだ?この男 とヘイゼイは唖然とした。それほどまでに、この国では奴隷文化が根付いているのだ。そんな領地があるなんて聞いたこともなかった。

 しかし、侍従と護衛はそれを最初から知っていたようで、動揺することもなく男に切り返す。


「知っている。だが、その奴隷はここで買ったものではなく、今回の侯爵の視察に合わせて連れてきたものだ。終われば連れて帰る」

「俺は、奴隷の所持は、ここでは禁止されていると言ったはずだが?」


 しかし、男は口調を変えることなく怒気を孕んだ声で淡々と言葉を述べた。これには、流石に侍従も護衛も唖然としていた。まさか、ここで買ったものでもないのに奴隷の所持が違法に当たるとは思ってもいなかったのだろう。言ってしまえば、ヘイゼイはの奴隷なのだ。それなのに、ここに一時的に連れて来ているだけで違法と言われる。


「な、あと数日で連れ帰るんだぞ!」

「日数も時間も関係ない。ここに奴隷を連れ込んだ時点で犯罪だ」

「何を言っている! ここで買ったわけじゃないと言っただろう! それは違法で手に入れた奴隷じゃない、正規の奴隷だぞ」

「どこで買ったかは重要じゃない。ここでは、奴隷を所持しているだけで犯罪だとさっきから言ってるだろう。この奴隷はこちらで保護する」

「ふ、ふざけるな! いち領民風情が侯爵の奴隷を没取すると言うのか!」


 フー、フー、と声を荒げる侍従に、男は落ち着いて返答していく。

 確かに、男が言っていることが本当なら、奴隷を所持している侍従側の方が違反していると言える。しかし、侍従は貴族の者だ。貴族が違反をしていたとして、ただの領民の男がそれを訴えたところで揉み消されるだけであろう。寧ろ貴族に楯突いた分、後から貴族からの報復があって男の身が危なくなる。

 惹かれる匂いをしていたというのもあるが、そんな身の危険を犯してまでヘイゼイを庇おうとする男に、ヘイゼイは少なからず情を感じていた。そして同時に、そんな危ない橋を渡ってまでこの男にヘイゼイを庇っては欲しくなかった。それで男が酷い目に遭うのを黙って見ていられるほど、ヘイゼイはまだ人の心を捨てきれてはいなかった。

 ヘイゼイは静かに決心すると、未だ言い合う侍従から男を遠ざけるべく男の腕を離し、侍従のところに行こうとーーーして想像以上にガッチリ固定されている腕に阻まれた。


(え、あ、あれ、あれ………?)


 なんだ、この力?

 全然解けない腕に、押したり、引いたりしてみるがびくともしない。ヘイゼイは力がある方だと思っていたが、それ以上に男の力は強かった。なんてことだ。これでは抜け出すことが出来ない。

 ちなみにヘイゼイはこの男なんでこんな力強いんだと思っているが、男も男でこの子尋常じゃなく力強いな、と腕の力を強めていた。割と限界まで力を込めてびくともしない状態を作っているが、そうしないとこの子があちらに戻ろうとするのを諦めてくれないと思っているから手が抜けない。おそらくこちらに気を使ってくれたのだろうとは思う。だが、あちらに戻すわけにはいかなかった。それは男の信念によるものだった。

 ーーーーしかしそれにしてもこの子本当に力が強いな。微妙に押されかけている腕に少し危機感を感じた男は、腕が疲れる前にさっさと決着をつけようと従者たちに目を向けた。


「確かに俺は貴族ではないが、ここでは“賢者”と言われている」

「「!」」


 その言葉に、従者と護衛の動きが止まる。目がこれでもかと言うほど見開き、予想していなかった言葉に変な汗が吹き出してくる。男は、「ここでは」なんて言い方をしたが、この領地にいる賢者だとしたら、そのもつ力は甚大だ。賢者という称号は一地方の領主が与えたものだが、その認識はすでに国の上層部にまで及んでいた。というのも、ヘイゼイは知らないだろうが、この男ーー賢者ーーは昔兄弟の賢者たちと連名で国に喧嘩を売ったことがある。内容は、先ほど男が口にした言葉奴隷の売買と所持の禁止である。

 奴隷大国とも言えるこの国では、実質奴隷がいなければ成り立たないほどさまざまな分野において奴隷が労働力として使われていた。“治と知は民、血と地は奴隷”なんて言われるほど、過酷な力仕事をこの国は奴隷に依存していた。そんな国で奴隷の売買と所持の禁止をしようものなら、国は混乱し経済は破綻すること間違いなしだろう。国はそれを理由に、最初その賢者たちの要請を一蹴した。

 しかし、その10年後、賢者たちは再びその要請を国に奏上している。領地デイウェルブでの「奴隷の売買と所持の完全禁止」、それを大きな混乱もなくやり遂げ、さらには更なる発展をその領地にもたらすという実績を伴って。賢者たちはそれを基に段階的による《奴隷の売買と所持の完全禁止》を国に求めた。国はまさかそんなことを成し遂げるとは思っておらず、賢者たちの要請に様子見という名の時間稼ぎをしようとした。確かに賢者たちは奴隷なしで更なる発展をもたらしたかもしれないが、それでも奴隷がいる今の現状の方が王侯貴族にとって都合がいいからだ。奴隷をなくそうとすれば国の財政も動かさねばならない。なんとかゴマを擦ってその要請を有耶無耶にしようとした王侯貴族に、賢者たちはこう突きつけた。


『我らは奴隷がいなくとも発展できるという証拠を示した。それを信じて我らの要請を受けてくれるというならば、我らは最大限に力を発揮してこの国に貢献しよう。ただし』


ーーこの国がそれでも反対するというならば、我らはこの国を出て、隣国アセラヴィルプのためにこの力を使うーー


 実質的に、それは脅しだった。一人程度なら痛手にはなるが、この大きな国ではそこまで問題なかった。しかし、それが7人も出ていき、今敵対していて最も大きな国のためにその力を使うとなれば、最悪負ける可能性が出てくる。賢者たちの持つ非凡な才能は、至る所から報告にあがっていてもはや無視できるものではなかった。

 しかし、奴隷の使いがっての良さとそこから生じる経済利益に甘い汁を吸っていた王侯貴族たちはそれを無くせ、と言われたところでそう簡単にはい分かりましたと受け入れられるはずが無い。賢者たちは、そんな言葉を濁してくる上層部たちにその返答の猶予を調整もあるだろうからと、最長5年として、突きつけた。それまでに決めねばこの国を去るぞ、と脅しつけて。

 以上が賢者たちが国に喧嘩を売ったと言われる所以である。


「俺に、喧嘩を売るか?」

「な、なんだと」


 そんな賢者に喧嘩を売るということが、どういうことか。この従者はそこそこ頭が切れる方だ。分からないわけではない。

 ここで賢者に楯突くということは、賢者たちの機嫌を損ねたとして最悪国の上層部に睨まれる案件である。ただでさえ賢者たちに慎重な姿勢を見せている上層部らに、喧嘩を売りましたなんて知られたら、あとあと賢者たちが国を捨てると決断した時に責任を押し付けられかねない。それがなくとも賢者たちが国に不利益な要求をして来たりこちらの要求を跳ね除けたりした時に、貴殿らが彼らの機嫌を損ねたせいだとことあるごとに嫌味を言われ、主人が肩身の狭い思いをすることは間違いない。それを理解していたからこそ、従者はそれ以上の言葉を詰まらせた。

 男はそんな焦る従者たちを冷めた目で見つめていた。普段はこんなふうに賢者ということを盾にした使い方はしないのだが、向こうが権力に物を言ってきたのだから仕方ない。男は従者たちを睨み据えると、ヘイゼイの腰を抱え上げた。


「う、わ」

「では、話はまとまったようだな。この奴隷はこちらで保護する。それと、暫くここにいるというのなら後で領主直属の警邏のものを向かわせるぞ」


 その言葉に、従者たちの目が見開かれる。まさか、賢者とはいえ貴族位を持たない人間の言によって高位貴族を逮捕しようと言うのか。それがどれほど荒唐無稽で絶対にありえないことか知らないのか、と言いたくなったがしかし、それを平然と言ってのける目の前の男に脂汗が流れる。この男ならばできそうだと思うのだから、一笑に伏すことができない。従者たちは、賢者を刺激しないように、しかし最後の反抗の姿勢を見せた。


「領主に侯爵から正式な訴えを入れるぞ」

「構わない。法を犯しているのはそちらの方だ」


 この領地の貴族位は伯爵位である。大公、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、という序列の爵位だけで見ても、この脅しは容易に効いたことだろう。侯爵と伯爵の間には大きな壁がある。正式な訴えということは周りの貴族にこの領地の伯爵が睨まれる案件である。伯爵位が格上の侯爵位にーーそれも賢者は知らないかもしれないが、国王の覚えめでたい侯爵にーー喧嘩を売ったようなものなのだから。この領地の伯爵は賢者たちと特に親しい仲というのだから、これなら効くかもしれないと思ったがしかし、やはり男には通じず逆に鼻で笑われてしまった。


「いいのか? そんなに悠長にしてる暇はないぞ。捕まりたくないと言うのであれば、ここから即刻出ていくことだ」


 そういうと、男は完全に従者たちに背を向けてその扉から外に出た。

 それを追おうとする者はいない。ただこの賢者と言う厄介で強大な存在に、従者たちは青い顔をしてなんと自分たちの主人に報告すればいいのだろうと呆然と閉じた扉を見つめていた。






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