十一話「黯然」
「何をしているの、あなたたち!」
悲鳴を上げた女性が、死人のように青ざめた顔で僕たちを見据えた。
「痛い、痛い、母ちゃん助けて!」
完全に意識が戻ったのか、先輩の兄が止めどなく流れる左手の血を押さえながら、彼女の存在に気がつき叫ぶ。
どうやら女性は先輩たちの母親のようだった。
「あなた、誰なの!」
その眼差しが僕へと向けられ、そこには恐怖が渦を巻いていた。
「え…? 僕、誰……? え……?」
状況の展開に全く追いつかず、言葉を詰まらせる。
「お母さん、話を聞いて!」
先輩が必死になって叫び声を上げた。
そんな先輩を見て、母親は狂乱したように叫ぶ。
「理音、あなたまで! こんな場所で何をしているの!」
誰もが目の前の惨状に飲み込まれ、なすすべもない。
「ああ、そんなことより血がぁ……! 母ちゃん、血を止めて……!」
激痛に耐えかねた兄が、死人のような顔で絶叫を繰り返す。
もはや事態は制御を完全に失っていた。
僕は半ば投げやりな思いで叫んだ。
「とにかく、一度、ここから出ましょう!」
不思議なことに、全員の視線が僕に集った。
ーー奇妙な沈黙がしばらく続く。
やがて先輩の母親がタオルを持ってきて、兄の腕に巻きつけていく。彼は荒い息を繰り返しながらも、どうにか体を起こすと、自室へと逃げ込むように消えていった。
僕らは血を洗い流しゴミだらけの居間に戻ると、先輩が堰を切ったように嗚咽を漏らしはじめた。
母親はその姿を目にしたあと、疲れがそのまま皺になったような表情で、僕へと視線を向ける。
「あなた、うちの娘に何をしたの!」
自分の役割を思い出したかのように怒りに目覚め、腕を宙に浮かせながら詰め寄ってくる。
けれどその時、先輩が崩れ落ちるように身をかがめ、必死に首を振った。
「違うの……この人は……私を守ってくれただけ。お母さん……お願い、聞いて……」
先輩は震える声で言葉を絞りだし、真実を告げようとする。
「お兄ちゃんが……私に……」
ーー彼女は長い時間をかけて、たどたどしく説明をした。
母親は最初、現実を受け入れられないかのように唇を震わせていたが、泣きながら訴える彼女の言葉と共に、徐々に顔が蒼白に変わっていく。
「……修二が、そんなことを……」
母親は呟くと、全身から力が抜けていくように、その場に座り込んだ。
僕は立ちすくしたまま、二人の様子を見下ろすことしかできなかった。
母親の声が、「まさか……」という言葉を繰り返す。
「本当です……」
僕が力のない声で告げると、母親はしばらく虚ろな目で先輩を見据えた。
うっすらと異臭が漂うゴミだらけの部屋で数分間、僕は泣き続ける先輩と、魂の抜けた母親を交互に見ていた。
なんの前触れもなかった。母親は急に立ち上がり、兄の部屋へと駆け込んでいった。
「この、ケダモノ! どうして、あんたは……!」
怒りに身を任せた母親の絶叫が、薄い壁を震わせる。
ゴツン、という鈍い音と、何かを叩きつけるような連続する衝撃が伝わってくる。
「うるせえ、このクソババア!」
兄の低く荒れた声が聞こえて、思わず僕がひるんでしまいそうになる。
何かが床に落ち、ガラスが割れるかのような破片の響きが耳に入る。
「あんたなんてことしたの!」
「うっせえんだよ!」
「なにを偉そうに!」
母親の声は限界を迎えたのか、だんだんと大きくなっていた。壁を打つような衝撃が、ドンドンと続いていた。
廊下にいる僕は、逃げたほうがいいのか止めたほうがいいのか判断できず、ただ疲労が一斉にやってきて、ゴミの間に座りこんだ。
先輩も泣きじゃくりながら、どうにもならないという様子で壁にもたれていた。
やがて何か重い物が倒れる大きな音が響き、その直後から兄の声が一転して上擦ったようになる。
「母ちゃん……ごめんよ……やめてくれ……ああっ、痛えよ……!」
さっきまでの威勢が嘘だったかのように、情けない悲鳴を上げ始めた。
母親も泣き喚くようにしゃくり上げはじめ、しゃがれた声で詰問している。
「なんでこんなことになったのよ……! 私がどんな気持ちで、今まで頑張ってきたと思ってるの……! 答えなさいよ!」
苦しげな息遣いの合間に、物を投げる衝撃音が混ざる。兄は叫びながら逃げようとしているのか、母親はそれを許さない。
そしていきなり兄が部屋から飛び出し、巨体を揺らしながら僕らの前を通り過ぎ、玄関へと消えて行った。
呆気にとられる先輩と僕。先輩は僕の腕を掴み、弱々しい声を出す。
「ごめんね……」
消え入るような彼女の声に、僕はどう返していいのか分からない。
すべてが歪だった。
この家には、物理的にも精神的にも、あらゆる種類の穢れしか溜まっていなかった。
「……帰ります」
ようやく出た僕の言葉に、彼女は震える肩を抱きしめたまま、小さく頷いた。
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