シーラカンスのムニエル②


「あれ、万璃さん。どうかしたんですか?」

 入口の方から明るい声とともに、千晶さんの顔がのぞく。彼女はおにぎりやサンドウィッチなどの軽食を乗せたおおきな皿を両手で抱えていた。千晶さんの、まだ少し幼さを残す二十二歳の声に自然とわたしの背中が丸まった。

「わたしは夜勤だから。でも、千晶さんは今日はもう上がりじゃなかったっけ」

「今日は特別残業でーす。なので、これ置いたら帰ります。なんか、下の……研究所のひとたちが解剖だー、なんだって大変みたいで、手当は弾むからなにか食べるものを作ってほしいって哀願されちゃいまして。聞きました? シーラカンスが死んじゃったみたいです」

 シーラカンス。わたしの肩がはねた。「そうなんだ」わたしは足をそろえてスツールに腰を下ろした。サイズの合っていない長靴がふくらはぎに擦れて痛かった。

「万璃さん、大丈夫ですか? なんか声ユーレイみたいですよ。なにかあったんなら話聞きますけど……」

 千晶さんの言葉にわたしは苦笑する。別になにもない。「声、酷いかな?」元気ではないけれど、思考は鋭く尖っている自信がある。わたしは冷蔵庫を一瞥する。ああ。わたしは、いま、興奮している。

「ちょっとだけ。ほんとうにちょっとだけ、そんな感じがします」

「ねえ、今、下ってどんな感じ? 解剖以外になにかいってなかった? 例えば……何かをさがしている様子とかってあった?」

「どうだろう、よくわからなかったです。とにかくばたばたしてる感じですね。この研究所に移ってから最初の解剖? 解体? 案件みたいです。私は説明聞いても、人間が魚になっちゃうなんて、そんなことあるんだー、としか思えないんですよねえ。……あ。ごめんなさい」

「なんで謝るの?」

「碧さんのこと、信じていないわけじゃないんです。実際目にしても夢をみているみたいっていうか、実感がないから」


 わたしは手元に視線を落とす。伏せていたリングファイルを表に返し、簡素なカルテを眺める。たった十枚程度の紙にはすべて《水棲変質症スイセイヘンシツショウ》という言葉が書き込まれていた。ページをめくる音だけが部屋に響いた。わたしは『春原碧』の三文字の前で指を止める。碧も、水棲変質症だった。あの子は、シーラカンスになってしまった!


「実際変な病気だよね、どんどん魚になっていく。そもそもこんな小さくてアングラなところにシーラカンスがいることが一番おかしいんだけどね。そこにいるシーラカンスにまぶたがあることはもっと不思議」

 水棲変質症。人間の身体が魚に変化していく感染症。臓器も、筋肉も、皮膚も、骨も、変質して最後は陸上生活ができなくなる。その代わり、水中生活に適応する。彼らは陸を捨て、水棲を得る。

 幸いにも感染力は極めて低い。けれども、かかったが最後の不治の病。まるで物語のようだ。

「シーラカンスになることは人間性を失うようで怖いって、碧、言ってたな。すこしずつ自分が失われていくような気がするって、自分だって思っていたものが、自分じゃなかったことを証明されているようで怖いって」

「それでも、最後まで抗ったからこうして今があるんですよね」

 わたしはかぶりをふった。

 碧は嫌だといった。シーラカンスにはなりたくない、人間であるうちに死にたい。そういった。でもそれを引き留めたのはわたしだ。碧が怖がっていたものに、シーラカンスにしたのは、わたしだ。

「いまが幸せかどうかは、碧本人に聞かないとわからない」

 ねえ、碧。わたしはあなたが幸せなのかがわからない。泣いて叫んでシーラカンスになんてなりたくないと、怖いと碧はおびえていた。シーラカンスになった碧をみて思う。死にたいといったあなたに、どんな姿でも生きてほしいといったわたしはなんて残酷だったんだろう。わたしは世間一般的に正しいだけだ。わたしが、あなたを地獄に閉じ込めた。もしそうだとしたら、わたしに碧の親友を名乗る資格なんてあるんだろうか。

「じゃあぜったい聞きましょうね、碧さんに。明日にでも!」

 まっすぐ、正直に話す千晶さんはまぶしい。わたしはこの子のそういうところがすきだった。疎ましくもあるけれど、それはたぶん、うらやましいからだった。正しくて、きれいで、まっすぐな千晶さんに、わたしは自分の思い付きを聞いてほしかった。きっと千晶さんはわたしの興奮を理解してくれない。でも、きっと受け入れてくれる。

「千晶さん。わたし、シーラカンスのムニエルが食べたい」

「ムニエルですかー、夜食にはちょっと重い気もしますけど、万璃さんといえばムニエルですもんね。冷蔵庫に魚ってありましたっけ。買い出しは明日なんですよ」

「シーラカンスならある。冷蔵庫にはいってる」

 冷蔵庫に右手をかけた千晶さんの横顔を見る。三秒。千晶さんは小さく鋭く息を吐いてから、冷蔵庫をあけた。なにもない空っぽの冷蔵庫のなかで、照明を浴びたシーラカンスの切り身がそこにあった。

「…………本気なんですか」千晶さんの輪郭も、冷蔵庫の照明を浴びて、シーラカンスの切り身と同じに白色に染まっている。その鼻筋は三日月のように見えた。うつくしくて、真摯で、やっぱりわたしからは正しく見えた。

「嘘だよ。冗談。おなかがすいちゃって、ぼうっとしてた」

 ぱたん、と情けない空気の音とともに冷蔵庫の扉は締まる。

「あー、ありますよね。そうだ、万璃さんもよかったら食べてくださいね」

「ありがとう」

 声が震えた。うまく笑えたのかもわからない。ただ、この部屋は薄暗くて、遠くからだと表情があらわにならない。

「じゃあまた。あ、夜勤中さみしかったら電話してくださいね。私、明日休みだし、今日はオールで映画のウォッチリストを消化するつもりなんで!」

「あはは、そんな時間を邪魔したら悪いな」

「万璃さんならぜんぜん嫌じゃないですから。じゃあ、おやすみなさい」

「うん。おやすみなさい」

 だから、最後まで千晶さんはわたしのいびつな笑顔に気付かなかったと、そう思っている。


 わたしはまたこの部屋にひとりきりになった。わたしは蛇口から水を汲んで、窓の下、室外機の上にある鉢植えのネモフィラに水を上げた。茶色く萎れた花殻を摘み取る。もう花も終わりだ。最後に残った一輪のネモフィラの花弁を左手人差し指でなでる。碧はどんな気持ちで、シーラカンスに変質してしまう日の夜を過ごしたのだろう。


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