第16話
心臓が喉まで上がってきたみたいにバクバクしている。口の中がネバネバして気持ち悪い。逃げようとしてから、逃げ場がどこにもないのを思い出した。三方は壁。残されたステージ側には、脈絡なく広がる真夏の公園とアクイを示す反応。この狭い体育館の中で、頼りない錆びた鉄棒片手に鬼ごっこ?どうする?どうしたらいい?
震える手でスマホをポケットにしまう。改めて鉄棒を握り直し、じりじりステージに近付いた。斉藤センパイを待つのも考えたが、反応が無いのであまり期待できなそうだ。メフィは……もっと期待できなそう。呼び出せば来るだろうし、たぶん契約とやらを持ちかけられると思う。そういう状況を作られた感ありありだ。それならオレは、斉藤センパイの言葉を信じる。右手の錆びた棒は、アクイに効く。実際、ペットは倒せた。あと。
『アクイは放っておいても向こうからやってくるけど、あたしはさっさと片付けたいから自分から狩りにいくかな』
最初に教えてくれたこと。アクイは向こうからやってくる。必ず。だったら、センパイに倣って自分から。狩れる、かどうかは分からないけど。
照明の消えた薄暗い体育館から、真夏の公園を見上げる。じりじり焼け付くような日差しに炙られて陽炎が立っているのに、まだらに黒い染みの浮いたコンクリ造のトイレの中は真っ暗で見えない。竦む足でステージに上がると、強烈な日差しが肌を刺した。一気に汗が噴き出してくる。公園には鉄棒と滑り台、砂場。あとは動物を象った遊具というか置き物というかがぽつぽつある。どれもこれも古びてボロボロだ。小さな公園だが、外の様子は分からない。どちらを向いても、ぽかんと青い空が広がっている。振り返ると、霧雨の降る体育館。見ているだけでクラクラする。
ポケットのスマホを取り出してマップを見たが、表示は相変わらずだ。トイレの中にはアクイを示す赤い点。斉藤センパイの黒い点は無し。返信も無し。覚悟を決めるしかないか。スマホを戻し、鉄棒の尖った先端をまっすぐ前に構える。大きく息を吐いてから思いっきり吸い込むと、オレは真っ暗な入口に踏み込んだ。
中に入った途端、一気に寒くなった。汗の浮いた肌にぶわっと鳥肌が立つ。目が慣れてくると、だんだん中の様子が浮かび上がってきた。
タイル張りの壁に沿って男性用の小便器が四つ。反対側には個室が二つ。手前には汚れて灰色になった洗面台が一つ。小さな明かり取りの窓から、青い空が覗いている。見える範囲には誰もいない。誰も、というか、生き物が一切いない。汚れ具合からしてクモの巣くらいありそうなものだが、そういう気配が全くない。消えた蛍光灯には分厚く埃が溜まっている。あと、何か変。何が変なんだろう?最近見ないような古いトイレではあるけど。震える腕を擦りながら、もう一度見回してみる。
しばらくして気付いた。全部が大きい。巨人のトイレとまでは言わないが、どれもこれも大きい。入口横の洗面台がオレの胸くらいの高さだ。なんというか、ちょうど小学校低学年くらいの子供の目線で見たらこうなる、みたいな……。
きい、と何かが軋む音がした。奥の個室の、たぶん緑色に塗られていたであろうドアが内側に開いていく。そこから、何か白いものがずるっと出てきた。
気が付いたら走り出していたオレは、個室の中に鉄棒を思いっきり突き立てていた。ぶにゅりとした嫌な感触と共に、錆びたそれが薄ら白い何かに飲み込まれていく。俯いたオレの視界には、暗いタイルの床からぶよっとした塊が二本延びているのが見えた。ゆっくり視界を上げていくと、それが合わさり一つの塊となり、そこに鉄棒が突き刺さっているのが目に映った。ぶるっと震えるそれに思わず後ずさると、足がもつれて転んでしまった。手から離れ、突き刺さったままの棒がゆらゆら揺れている。そこから上、胴体と思しき塊は天井に届くほどに膨れあがっていて、その横から白くて大きいミミズみたいなものがニョロニョロ生えていた。
転がるように入口に向かうオレの足を、白く膨れたぬるっとしたものが掴む。床に叩きつけられたオレの上に、生温かい何かが覆い被さってきた。なんとか体を仰向けにして抜け出そうとするが、両手で押しても気持ち悪い感触が返ってくるだけだ。入口から見える青空を、白く膨れた何かが覆っていく。暗い影を纏ったそれが、オレごと全てを呑み込んでいく。
全てが覆い尽くされる前に、少しだけ残っていた空が割れた。粉々に飛び散る青の向こうに、暗い雨空が見える。そこから、金属質の光沢を帯びた黒い塊が降ってきた。
塊が竜巻のように回転すると、錆びた鉄塊が周囲の全てを巻き込み破壊していった。砕け散ったコンクリート片が弾丸のように白い塊を襲う。青空がひび割れて、霧雨が静かに流れ込んできた。梅雨空を背景に、斉藤センパイが歪み錆びた大剣を構えて立つ。
「柊真!」
言葉そのものが圧を持つような大声で叫ぶと、センパイが跳んだ。稲妻のような鉄塊が白い肉塊に吸い込まれると、それは内側から弾けるように飛び散った。半分以上を失ったぶよぶよの塊に、もう一回大剣が叩きつけられる。歪に人を象ったようなそれは、ぶちゅりと嫌な音を立てて潰れ、消えた。
大剣を肩に担ぎ直したセンパイを、真夏の強烈な日差しが照らす。全身に付いた細かい雨粒が、ダイヤモンドでも振り掛けたようにキラキラと輝いていた。
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