第2話 砂子2丁目 銀柳街

 川崎の夜は、異界の闇と現実の光が交錯する。霧のように漂う異界の気配が街の明かりを反射し、別の世界を垣間見せる。

 俺は、もうこの風景に驚くことはない。


 彼女の持つ能力――異界の扉。その力がいかに強力で危険なものか、俺には理解できる。そして、それを利用しようとする連中の影も見え始めている。


 フルーチェ川崎校から少し歩き、銀柳街の外れに立つビル。その一室がれいかの仕事場だという。異界の力を持つ者が現世でアイドルとして活動する、異常ともいえる状況、彼女はただの偶像なのか。れいかという人物に興味が出てきた。


 煙草の煙が揺れ、異界と現実の境目を感じ取る。ビルの入り口を見上げると、どこかしら異様な気配が漂う。

 ビルの中は、川崎の街並みとはどこか違う異様な雰囲気だ。異界の住人が集まるバーやクラブ、さらには情報屋もひしめいている。この環境の中、目立たぬよう注意を払いながら歩く。


「いらっしゃいませ。」


 受付に立つのは、猫耳を持つ女性だ。冷たい視線を一瞬だけ向けられるが、すぐに表情は無機質なものに戻る。見慣れた光景だ。異界の住人たちに慣れるのには時間がかからなかった。最初はその異質さに圧倒されたが、今ではそれが一つの現実として受け入れられている。


「白石社長の知人で佐藤といいます。れいかさんに会いたいんですが?」


 冷徹に、しかし無駄のない言葉を投げかけると、彼女は軽く頷き、階段を上がり始める。その後を追う俺の足音が、静かなビル内に響く。


 れいかの部屋は上階にあった。異界の力が染み込んでいるのか、非現実的な雰囲気が漂う。その扉の前で、受付の女性が軽くノックをする。


「どうぞ。」


 れいかが待っていた。彼女は静かにソファに座って、窓の外を見つめている。街の喧騒が遠くから聞こえてくるが、この部屋はどこか隔絶されたように感じる。


「話を聞かせてほしい。」


 俺は椅子を引き、れいかの前に座ると、すぐに本題に入る。


「お前の力のことだ。」


 れいかは少し黙った後、ゆっくりと口を開く。


「私の力……」


 彼女は一息つき、目を閉じた。しばらく沈黙が続くが、やがて話し始める。


「異界と現世の間を繋ぐ力……それが私に与えられた力です。力を制御できれば、異界と現世の間に大きな扉を作ることができる。」


 その言葉には、どこかしら悲しみが滲んでいる。彼女の持つ力がどれほどのものなのか、想像を超えるものがある。


「でも、私はその力を制御できない。」


 れいかは眉を寄せ、視線を下に落とした。「だから、普段は力を封印してます。」


 封印。そこに込められた意味を俺は理解している。力を持つ者の宿命だ。力とは制御できなければ、己をも壊す。


「昔から、この力を狙う人たちがいました。でも、今は社長が支えてくれてるから、こうしてアイドルを続けられてる……。もし社長がいなかったら、私、多分……もうここにはいません。」

 

 彼女の目は一瞬、遠くを見つめるような表情になる。どうやら白石に対して深い感謝の気持ちを持っているようだ。


「俺はこれから松居に会いに行く。奴の背後にいる連中が誰なのか探る必要がある。」


 俺は立ち上がり、れいかを見つめながら言った。


 すると、れいかも立ち上がり、俺に向き直った。


「私も行く。」


 声は震えていたが、その瞳に宿る決意に揺るぎはない。


 「ダメだ。危険だ。」


 俺は反射的に否定した。だが彼女は微動だにせず、静かに答えた。


 「守られてばかりじゃ嫌なんです。私だって、戦いたい。」


 言葉の端々に、彼女の覚悟が滲んでいる。


「……わかった。ただし、絶対に危険なことはするな。そして、俺の傍を離れるな。」


「わかった。」

 

 俺とれいかは店長から得た情報を元に、松居の家に向かった。松居の家は、一見すると普通の住宅だ。しかし、敷地を包む静けさが不気味だった。庭に放置された枯れた植木鉢、雨に濡れたままの自転車――どこを見ても生活の気配が薄い。

 

 ドアが開いている。その異様さに引き寄せられるように、足を踏み入れる。中は静まり返っていた。まるで時が止まったような空間だ。室内の空気が重く、息を呑みながら足を進める。


 リビングを見渡した瞬間、俺の目に飛び込んできたのは松居の遺体だった。無惨な姿で倒れている。

 れいかは口元を押さえ、立ち尽くした。その瞳には、信じたくないという思いが滲んでいる。


 「こんな……ひどい。」


 俺が彼女を守るようにその肩に手を置くと、れいかは小さく震えながらも顔を上げた。


 「佐藤さん……私、もう逃げないって決めたのに……どうしてこんなことになるの?」


 彼女の悲しみが、俺の胸に深く突き刺さる。れいかが感じている無力感が、俺の怒りをさらに燃え上がらせた。


 ふと目に入った――黒木の名刺だ。目の前にそれが残された意味は……。


「……黒木の仕業なのか?」


 俺は静かに呟く。黒木が松居を殺すことで、俺に警告を送ったのかもしれない。

 その時、俺の携帯が鳴る。登録されていない番号……迷わず受話器を取る。


「黒木だな?」


 俺の言葉に、黒木の声は冷たく、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。


 「遅かったな、佐藤。松居はただの駒だった。余計なことをしゃべられる前に処理しておいた。」


 電話越しの黒木の声は、冷たく、どこか楽しげだ。その言葉が挑発であることは明白だった。


 「それだけのために……?」


 「それだけじゃないさ。お前への挨拶代わりだ。せいぜい楽しませてくれ。」


 電話が切れる直前の低い笑い声が、耳にこびりつく。

 れいかは、俺の横で唇を噛み締めていた。その顔には、怒りと恐怖が入り混じっている。だが、次の瞬間、彼女は拳を強く握りしめた。


 「黒木を止めましょう、佐藤さん。私の力が役に立つなら、何でもする。今の私には、それしかできないから。」


 彼女の言葉には迷いがなかった。守られるだけだった少女が、自分の力で立ち上がろうとしている。その姿を見て、俺は心の中で誓った。


「俺がお前を守る。どんな手を使ってでも。それが、俺の役目だ。」

 

 俺はすぐに白石社長に連絡した。


「佐藤、れいか……君たち、大丈夫か?」白石社長の声は心配で震えていた。


「黒木が松居を殺した。」俺は答える。


「え!?……黒木……あいつが、そこまでやるとは。佐藤、頼む……もう、君にしか止められない!」


「あぁ、そのつもりだ。」


 黒木を止めるために、俺の全てを賭ける覚悟が必要だ。危険な戦いが、今まさに始まろうとしていた。

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