くちづけの記憶
春の柔らかな日差しが、体育館の窓から差し込んでいた。
ほのかに揺れるカーテンの影が、床の上でゆったりと踊るように映し出される。壇上に立つ虎道は背筋を伸ばし、堂々とした姿勢を見せている。
生徒会長としての役割を全うするその姿は、在校生や教師たちを安心させるのに十分だった。始業式での挨拶を卒なくこなすその様子に、教師たちは安堵の息を漏らしながら彼を口々に称賛する。
前日には簡単なリハーサルも行われた。壇上での動作、挨拶のタイミング、幾度となく確認を重ねたが、本番の虎道はそのどれも自然体で、まるで最初から完璧だったかのように振る舞っていた。
“皆の言う新城虎道”と、今の自分が少しずつ重なり合っていくのを感じる。
ふと視線を巡らせた先に、卯衣の姿が目に入った。
こちらをじっと見つめる彼女の表情は真っ直ぐで温かい。それだけで、不思議と胸が満たされるような気がした。
そして、姿こそ確認出来なかったが、自分へ集まる視線の中には絵馬や灯未、それに仲間たちのものも含まれているはずだ。
どうして自分が皆から羨望されるような人間になろうと直向きな努力を続けてきたのか、ずっとわからなかった。
何のために、誰のために。そこに意味を見いだせずにいた。
けれど、今ならその理由がわかる気がする。
この日の夜も、虎道は卯衣とともに住宅街の道を歩いていた。
桜が春の終わりを告げるよう、静かに散り始めている。
ふたりの周りで風が微かに舞い、桜の花びらを彼らの足元へと降らせていた。街灯の光がその花びらを浮かび上がらせ、まるで白い雪のような幻想的な景色を創り出す。
ふと幼い日の記憶が、桜の花びらと共に虎道の心をよぎる。
☆
冷たい雨の日、葬儀の後の屋敷の離れ。そこで、虎道は卯衣と初めて出会った。
二人は、同じく哀しみを抱え、互いを慰めるように一緒に過ごす時間を増やした。
卯衣は初めから虎道に心を開いていた。
しかし、周囲の子供たちは、片親で内気な卯衣にちょっかいをかけることがあり、 それを虎道が無言で睨みつけたり、時には間に入って庇ってくれるうちに、卯衣はますます彼に依存するようになっていった。
気がつけば、卯衣は常に虎道を探すようになり、ひとときも彼のそばから離れようとしなくなった。
虎道はほとんど無口でそっけなくとも、卯衣が困っているときは必ず手を差し伸べていた。
『お兄ちゃん』
卯衣が虎道のことをそう呼ぶようになるのに時間はかからなかった。
初めて呼ばれたときはむず痒くて、しかし、長い間凍りついていた心の奥に、小さなひだまりが生まれ、ゆっくりと氷が解けていくようだった。
まだ絵馬が家族になる前のこと。ある日、二人はこっそりテレビで恋愛ドラマを見ていた。
画面の中で、主人公たちがキスするシーンが流れると、卯衣は興味深げにその光景を見つめていた。
彼女の瞳が輝き、突然、虎道の方を向いて言った。
『お兄ちゃんと、ちゅーしたい』
彼女の言葉は、幼いながらも真剣だった。虎道はその言葉に戸惑いながらも、彼女の純粋さに心を打たれた。
『ねえ、ダメ? わたしとはイヤ?』
卯衣の声は少し甘えるようで、けれどどこか真剣だった。
虎道は彼女の問いかけに戸惑い、視線をさまよわせる。
『いや……じゃない、けど……』
絞り出すように返すと、卯衣の瞳が少し輝いたように見えた。
『じゃあ、いいよね?』
卯衣はそう言うと、何の迷いもなく目を閉じた。まるで虎道がどうするかを試すように、そして信じるように。
虎道はその無防備な仕草に戸惑い、思考が止まる。彼女の幼いながらも真剣な表情が、心に刺さるようだった。
少しの間、どうすべきか悩む。けれど、卯衣がかすかに期待するような、けれど緊張した呼吸をしているのがわかると、虎道の胸に妙な感情が押し寄せた。
虎道はそっと卯衣の顔に近づき━━その唇に自分のものを重ねた。ほんの一瞬の出来事。それでも、その一瞬に込められた何かが、二人の心に深く刻まれるのを感じた。
『しちゃったね……』
卯衣が小さく声を上げる。唇に触れたばかりの感触を確かめるように、自分の指でそっと触れてみたり、顔を横に振ってみたり、落ち着きなく動いている。
虎道は目を伏せたまま、言葉を探すように沈黙していた。胸の鼓動がやけにうるさく、顔の熱をどうすることもできない。
ドクドクとこれまで感じたとのないような速さで脈を打つ心臓は、まるで自分ではなく他の誰かものになってしまったかのよう。
卯衣はその後も、頬を紅潮させたままふわふわとした様子で部屋の中を見回し、小さな声で『ふふっ……』と笑ったり、床に座ったまま足をぶらぶらと揺らしたりしている。まるで特別なことが起きた余韻に浸っているようだった。
子供ながらに何かいけないことをしてしまったような気がしていた。
けれど、そうすることが正しいようにも思えた。
他には誰もいない世界で、二人だけが知る秘密が生まれた瞬間だった。
☆
「桜の季節も、もうすぐ終わりだね」
現在の卯衣の声が、夜の静けさに溶け込むように柔らかかった。
虎道はその声に促されるように、彼女の横顔と夜空を見比べた。桜の花びらは星の輝きと共に、彼らの未来を照らすかのように舞っている。
「ああ……」
虎道の返事は短かったが、その中に多くの感情が込められていた。
冷たい雨の日、葬儀の後、祖父母の屋敷の離れで二人が出会った日の記憶、そして幼い頃に交わした初々しいキスの記憶が、再び鮮やかに蘇る。
虎道は隣を歩く卯衣にちらりと目を向けた。彼女は少し前を歩いている。淡い月明かりが彼女の横顔を柔らかく照らし、その表情はどこか遠い思いに浸っているようだった。
『しちゃったね』という幼い日の卯衣の言葉が耳の奥で響く。
思わず口元が緩みそうになるのを抑え、虎道は顔を前に向けた。
胸の内に渦巻く感情が、過去のあの瞬間の重みを新たに刻みつける。
不意に卯衣が立ち止まり、振り返る。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
その声は柔らかく、だが虎道にはどこか核心を突くように感じられた。呻くように一言、「なんでもない」と返すと、無意識に足を止めていた自分に気がつき、再び歩き出した。
胸の奥に眠る記憶。それが彼女にも同じようにあるのだろうかと、ふと思った。けれど、その問いを口にすることはいけないことのような気がしていた。
子供の頃の遊び。それとも、何か別の意味があったのだろうか。
春の夜の風が二人の間を通り抜けるたび、桜の香りが微かに漂い、今も二人を繋ぐ過ぎ去りし記憶の影を運んでいるようだった。
「わたしには話せないこと?」
「それは……」
夜の静寂が、妙に重くのしかかる。風の音すら遠く、桜の花びらが舞う音さえ聞こえそうなほどに。
どう言えばいいのか、何から話せばいいのか。心の中で言葉を探しても、見つからない。
口を開けば、すべてが溢れ出してしまう気がして、ただ唇を噛む。
しかし、沈黙が長く続くほど、卯衣の視線が胸に突き刺さるように感じる。彼女は待っている。虎道の言葉を、答えを。
虎道は息を呑み込み、覚悟を決めた。
「……記憶を失ってから、お前を……妹だけど、それだけじゃなくて━━ひとりの女の子として意識してるんだと思う」
彼の言葉は沈黙を生んだ。卯衣はどんな表情をしているのだろう。顔を見ることが出来ない。
「俺は……」
虎道の声が途切れる。言葉の続きを口にしようとしても、胸の奥にあるものが絡みついて出てこない。
「━━ねえ、お兄ちゃん。もう気づいてるんでしょ?」
呼ばれた虎道が顔を上げると、卯衣が柔らかな表情で微笑む。
桜の花びらが舞い降りる中、その笑顔はどこか懐かしく、それでいて自分の知らないもののように映る。
「お兄ちゃん。わたし、お兄ちゃんが好きだよ。ひとりの男の子として、大好き……」
その言葉はどこまでも甘やかで、静かな夜の空気に溶けていくようだった。
そして、卯衣はそっと瞳を閉じた。幼い頃のあの日と同じように。
虎道は戸惑いながらも、彼女のその姿から目を逸らすことが出来なかった。胸の奥でざわめく感情が、一瞬、鼓動と重なる。
彼女の手を取るべきなのか、それとも背を向けるべきなのか。いくら血の繋がりがないとは、妹の想いを受け入れてもいいのだろうか……。
答えが出ないまま、彼の足は地面に縫い止められたように動かなかった。
夜風が二人の間を通り抜ける。桜の香りが微かに漂い━━
『ううん。兄ちゃんにとっては同い年だけど、私たちと同じ義理の妹。誕生日、一日しか違わないんだって』
『わ、わたしと虎道くん、誕生日、一日しか違わないんだね。ほとんど同じなんて、なんだか不思議だね……』
『僕は、運命なんてものはないと思っていたよ。……けれど、君たちがこうして二人で共にいる姿を見ていると、それを他の言葉で表現するのは難しいように思えてね』
『馬鹿な息子を庇うわけではないけどね……人間は必ずどこかで間違う生き物だ』
ふと蘇る記憶の中の言葉たち。
その瞬間、虎道の心にある疑問が浮かび上がった。
どうしてあの日、卯衣は天海家の葬儀にいたのか。
親戚に好かれていないと言っていた。自分と同じだ。
卯衣が傷つくかもしれないとわかっていながら、悠亀は彼女を連れて行かなければならないと判断したのだ。
あの雨の日、卯衣とは初めて出会ったはずだった。
けれど、本当は━━
『卯衣、っていうの。この子はね、わたしにとっても、あなたにとっても、大切な子なのよ』
本当は、ずっと前から自分は卯衣のことを知っていたのではないだろうか……。
同じ年の一日違いの誕生日。
日付を跨いだだけで、ほとんど同じ時間に産まれていたとしたら━━。
いくつも思い当たる節があり、虎道は悠亀に訊ねたことがあったのだ。
『虎道はかしこいからね……。こういう日が必ずくると思っていたよ』
彼から教えてもらった事実。
それは……。
それは━━
虎道と卯衣は同じ母親から生まれたが、父親が異なる異父兄妹━━それも二卵性の双生児であるということ。
ごくわずかの確率でありながら、実際に起こり得ることがあるという運命の悪戯。
それは虎道が記憶を取り戻すまで忘れていた、しかし最も重要な真実だった。
まるで鏡の破片が一つに繋がり、鮮明な像を結ぶように虎道の中で繋がった。
虎道はその場に立ち尽くし、ただ呆然と卯衣の顔を見つめた。
瞳を開けた卯衣が、虎道の表情を見据える。
「……何か思い出した?」
「どうして……そう思う?」
答えを探しながら絞り出した声は、自分のものとは思えないほど頼りなかった。
「わかるよ。だって、わたしのお兄ちゃんだもん」
卯衣の微笑みが、春の夜風に溶けるように柔らかく広がった。
その笑顔が自分に何を伝えようとしているのか、今の虎道にはわからなかった。
月の光が桜の花びらを淡く照らし、それは春の夜にたゆたう霞のようだった。
その光の中で、彼の鼓動だけが静かに響いている。
風にさらわれた花びらたちが、ふたりの複雑な未来を照らし出すかのように静かに舞い落ちる。
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