祭壇

「仁科さん、おはよう。気分はどう?」

 翌日、出勤すると、篠田がそばへやってきた。「聞いたわよ。酷い目に遭ったわねえ」


 末藤から何が起きたか聞いたのだろう。いや、警察からかもしれない。彰は弱々しく笑ってみせた。


「ええ、まあ」

「本当に酷い有り様だったんですってね。恐ろしい。一体どんなやつの仕業かしら」


 彰は視界が微かに揺れるのを感じた。篠田の声が奇妙な抑揚を帯び、それに合わせて血まみれの死体や、血に染まった両手を見下ろす自分などのイメージが脳裏に浮かび上がる。妙なことに、普通時間が経つと記憶は薄れるものなのに、その時の記憶は却って鮮明になっていくようだ。


「丸岡さんも気の毒に。熱心に仕事してたのに」と、篠田は声を詰まらせる。「末藤さんと話してたのよ。犯人はきっと、強盗目的か何かで侵入してきたに違いない、って。盗まれたものはないみたいだけど、たぶん丸岡さんを殺して、慌てて何も盗らずに逃げ出したんじゃないかしら」

「そう、ですね。そうだと思います」

「仁科さんも気をつけてね。会社からの帰り道とか。ほんと、何があるかわからない世の中なんだから」それから、我に返った様子で、「引き止めちゃってごめんなさい。ああ、それと、着替えは当分、事務室でしてくれる?」


 篠田によると、警察の捜査が終わるまで休憩スペースは立ち入り禁止なのだという。


「仕事は普通にできるんですか?」

「一応、大丈夫らしいわよ。ただし、休憩スペースには入らないでくれ、って言われてる」篠田はそこで、何か考え込むような顔をした。「そういえば、うちって防犯カメラの類いが一切ないのよね。普通は出入り口に一つくらい、あるもんなんだけど」

「確かに、言われてみればそうですね」

「よく考えたら不用心よね。これを機に、課長から会社に掛け合ってもらいましょう」そう言うと、篠田は決然とした足取りで去っていった。


 事務所の隅で、用意されていた作業服に着替えると、彰はいつもどおり業務に取り掛かった。頭の一部が麻痺したような状態ながら、体が仕事を覚えているので、作業自体に問題はない。体を動かしながら、彰はうわの空で、考えを巡らしていた―― 昨夜の夢について。


 例の荒野の夢を、また見たのだ。いつもと同じく、外国めいた風景の中をさまよい歩いたのだが、今回はいつもと少し展開が違った。いや、思い返すと、毎回少しずつ、夢の内容には違いがあったのかもしれない。


 奇妙な祭壇の前に辿り着くところまでは同じだ。足元に散乱する骨や、雷もすでに見たものだった。やがて、化け物じみた叫び声が聞こえ―― ふと見上げると、空が赤かった。異様に赤い雲が、千切れながら移動している。

 視線を祭壇へ戻すと、そこでも変化が起きていた。質素な、色褪せた木でできた祭壇の前に、何かが出現していた。さっきまでは何もなかったはずなのに。木と石でできた台の上に、それは鎮座していた。赤黒い、野球ボールくらいの大きさのもの。表面にはミミズ腫れのように血管が這い、全体がぬらぬらと光っている。そして、認めたくはないが、微かに脈動しているように見える。


 ふいに、辺りに影が落ちた。見ると、祭壇の真上に何かが姿を現していた。黒い、モヤモヤとした影が。それは見る間に大きくなっていき、頭上を埋め尽くした。


 近づくな。彰は絶叫しようとした。一目見ただけで自分を保てなくなるような何かを、それは秘めていた。緩慢に手足を動かし、逃げようとしたが、無駄なあがきであることはわかりきっていた。畏怖しながら、彰は逃げ惑った。こんなにも剥き出しの欲望、あるいは悪意があるなんて。人間として、普通に暮らしていれば決して遭うはずのない――


 実際、もしあれが夢でなかったら、自分は確実に死んでいただろう、と思う。

 あれが何なのかはわからない。確実に言えるのは、あれと出会ったら最後、生きてはいられない、ということだ。理由も理屈もなく、彰はそう確信していた。

 何であれ、あれはとてつもなく邪悪なものだ。

 さらに悪いことに、自分はあれが存在するということをチラとも疑えないのだ。あれは、間違いなく実在する―― そう、固く信じている。理由もなしに。いや、理由がないと思えるのは、実際にあれを見たことのない奴だけだろう――


 と、ポケットの中でスマートフォンが鳴りだした。

 いきなり響き渡った電子音に、彰はほとんど飛び上がった。そして、慌ててスマートフォンを取り出すと、ディスプレイの表示を見た。ミサからだ。


「ミサ? どうしたんだ」

「彰! 受かった! 受かったよ!」

 え、と聞き返しかけて、気がついた。オーディションか。「ほんとか?」

「ほんとほんと! 一週間くらい前に受けたやつなんだけど、今日、連絡があってさ。専属モデルだって。専属モデル!」

「そうか、やったな」彰は努めて明るい声を出した。今の気分からすると、絞り出した、というところだ。「じゃあ、お祝いしないとな」

「うん、焼肉しようよ、焼肉!」


 わかった、と彰は答えた。懐は痛むが、安い肉なら何とかなるだろう。それに、これから専属モデルになるというミサが、それほどたくさん食べるとは思えない。


 電話を切ると、彰は無理矢理、気分を引き上げようとした。とりあえず、夢のことも、丸岡のことも忘れて、お祝いムードに浸ろう、と。もしかしたら、明日には丸岡を殺した奴が捕まって、塞いだ心も晴れるかもしれない。そうであってほしい、と切実に願った。


  ◇


 その日は警察から呼び出されることもなく、予定通り、帰りにスーパーで肉を買って、アパートへ戻った。肉以外の買い物や準備は、ミサがなんとかしてくれているはずだ。


 買い物袋を手に階段を上ろうとした時、物音がして、足を止めた。見ると、工具箱を手にした男がこちらへやってくるところだった。男は彰に気がつくと、笑みを浮かべた。

「やあ、どうも」

 この間、何かの修理に来ていた修理工だ。彰は頭を下げた。


「こんばんは」

「この間は助かりましたよ。あの機械室のドア、かなり錆びついていてね」

 男はお喋りではなさそうだったが、愛想のいいタイプではあるらしい。彰は笑みを返した。「いえいえ、ちょっと手を貸しただけですから」

「そうは言っても、参ってたんですよ。管理人さんはあの通り、気の短い人だしね」

 そうみたいですね、と苦笑いしながら言う。あの管理人のことだ、この穏やかな初老の修理工をぎゅうぎゅうに締め上げていたに違いない。

「ここだけの話、あの人には睨まれないようにしたほうがいいですよ。喧嘩しても何も得がない。ここに住みづらくなるだけです」


 半分冗談かもしれないが、修理工は真に迫った様子で、そう囁いた。


「気をつけます」

 さて、と歩き出しながら、男はさらに続けた。

「あんたはいい人みたいだから言うけれど」愛想のいい笑みを浮かべたまま、「あの人の忠告を無視しないほうがいいですよ」

 そして、彰が呆然としている間に、足早に目の前から立ち去った。


 ちょっと待って! どういうことだ? そう叫びたかったが、最早、男の姿は消えていた。大きな音がして、はっと下を見ると、買い物袋を取り落としていた。袋の口から飛び出した焼き肉用の肉のパックが、コンクリートの床に散らばっている。ビニールに包まれた肉の赤さが、ふいに、ぞくりとするほど鮮明に目に映った。


  ◇


 薄い皮膜のような眠りから、彰は醒めた。


 時間的にも、眠りの深さからいっても、ほとんど寝ていないも同然だった。疲れが取れているはずもなく、起き上がれないほどのだるさが全身を包んでいる。頭はぼうっとし、胃には先ほど無理矢理食べた肉がまだ残っていた。ミサの手前、明るく振る舞っていたものの、食欲はまったくなく、ずっとむかつきに襲われていたのだ。食後、ミサがしなだれかかってきたので、すべて忘れよう、と自分に言い聞かせながら強く抱き返したが、嫌な妄想が消えることはなかった。


 妄想、とは醒めても悪夢の続きを見ているような感覚のことだ。


 ミサと肌を重ねても、その感覚が消えることはなく、薄暗がりに横たわるミサの肉体の向こうに、いつもの光景―― 荒野、祭壇、散乱する骨、そして禍々しい何か―― が厳然としてあるように感じられてならなかった。それどころか、シーツの上に広がった長い髪と、のけぞった喉、甘やかな声を漏らす唇などが、悪夢と分かち難く混然一体となっている、とさえ思えた。ミサと悪夢とが――


 突然、彰は我に返った。何かおかしい。本当に、悪夢のようなことが起きている、という気がする。


 鼻を突く異臭。空気が重く感じられるほど、濃い何かが漂っている。


 煙だ。


 愕然として、彰は辺りを見回した。部屋の隅が、ぼうっと明るい。最初は目の焦点が合わなかったが、徐々に視界がはっきりしてきた。揺れる炎。その手前で、ゆらゆらと体を揺らめかせる女。


 女は無論、ミサだ。


「何やってるんだ!」跳ね起きると同時に、彰は叫んだ。


 ミサは一瞬、振り向いたが、すぐに何事もなかったように顔の向きを戻し、体を揺らし始めた。両手で木版の縁を掴み、音楽に合わせるように体をくねらせ、頭を右へ左へと振っている。着ているTシャツが明かりに透け、しなやかな体の線を浮かび上がらせていた。蠱惑的であり、動物的とも言える眺めだった。


「ミサ」彰は呼びかけた。反応はない。「ミサ! 聞こえないのか?」


 回り込んで横顔を見た時、彰はぞくりと背筋がわななくのを覚えた。虚ろで、空っぽな顔をした女がそこにいた。それでいて、目には歓喜としか呼べないものが煌めいている。


「やめろ!」


 彰はミサの肩に手をかけ、押しのけた。きゃっ、と短い悲鳴が上がる。

 木版の上には、十個近いアロマ・キャンドルが並べられていた。容器に入っているのもあれば、剥き出しのもある。火が消えてしまっているものも、薄い煙とともに炎を立ち上がらせているものもあった。


「何すんのよ!」ミサが悲鳴に近い声を上げた。


 彰は振り向かずに、手で風を送り、キャンドルの火を消しにかかった。ミサが唸りながら飛びかかってくるのを、腕で払う。ミサはよろよろと崩れ落ち、それ以上は襲い掛かってこなかった。

 キャンドルの火を消し終えると、彰はサッシ窓に駆け寄り、全開にした。もうもうと立ち込めていた煙が、酸素を求めて外へ流れ出す。


 ようやく新鮮な空気が肺に入るのを感じ、彰は窓枠に凭れかかった。

「一体、何を考えてるんだ――」深呼吸をしながら、そう尋ねる。


 しかし、ミサの返事はなかった。

 月光の下、彼女はむくりと身を起こしていた。乱れた髪の下から、濡れた目がこちらを睨んでいる。それを見た時、彰の背を再びぞくりとするものが駆け抜けた。


  ◇


 次に目を覚ました時、ミサの姿は部屋から消えていた。

 相変わらず重だるい体を無理矢理動かし、彰は上体を起こした。窓が全開のままなのに気づき、立ち上がる。空気はすっかり清浄になっていたが、室内は身を切るように冷え切っていた。

 窓を閉めて、ため息をつく。


 ミサはあの後、どこへ行ってしまったのか。――キャンドルの火を消した後、彰はミサと軽い言い合いをした。軽いもので済んだのは、激しく言い合う体力が残っていなかったからだ。もういいよ、と彰は最後に言い、朝になったら話の続きをするつもりで、布団に倒れ込んだ。その後の記憶はないが、ミサはおそらく、すぐに部屋から飛び出したのだろう。


 ミサは一体、何をしていたのだろう―― 色とりどりのキャンドルが散乱する木版の表面を、彰は見下ろした。キャンドルは半分溶け、煤に汚れ、変形し、醜悪そのものといった様相を呈している。あいつはこれを、拝んでいたのだろうか。


 そういえば、ずっと前にミサから聞いたことがある。二人とも酒を飲んでいたし、笑い話のような調子だったから、さほど真剣には受け取っていなかったのだが。


 ミサの祖母は、巫女だったのだそうだ。神社などでよく見かける、いわゆる巫女さんではなく、僻地の村で神職を司る、女祈祷師とでも言うべき存在だったらしい。儀式の一切を執りしきり、青森のイタコのように口寄せも行っていた、かなり強力な霊能者だった、ということだ。わたしはその血を受け継いでるんだよ、とミサは自慢げに言っていた。


 もしかすると、ミサには彼女も知らない、秘めた力が備わっていたのかもしれない。いや、ミサ自身も、薄々自分の持つ力に気づいていたのではないか。だから、こんな怪しげなものを買い、儀式の真似事をしようとしていたのではないだろうか。


 そして、この木版の持つ本来の目的は、おそらく占いなどではなく、何かを呼び出すことだったのではないか。

 ――何か。

 禍々しく、恐ろしいイメージが、湧き上がるように脳内に溢れた。例の夢がこの木版と繋がっている、という気がしていたのは、そのことだったのか。ミサと同じ部屋にいた自分は、知らず知らずのうちに彼女の行っていた稚拙な”儀式”の影響を受けていたのかもしれない。


 何てことだ。


 ミサは夜まで帰らないだろうが、彼女と会ったら、話をしなくては。彼女が弄んでいるものは、おそらくそんなふうに気軽に扱っていいものではない、と告げなくてはならない。ミサは笑うかもしれないが、真剣に話せばわかってくれるだろう。


 これからやるべきことが頭の中で定まると、気分は徐々に落ち着いていった。今すぐ木版を捨ててしまいたいが、ミサを逆上させるかもしれないし、早まった真似はするべきじゃない。


 考えながら、彰はテレビのリモコンのボタンを押した。ぼんやりと画面を見ながら、適当にチャンネルを変える。ニュースをやっている局があり、思わず指の動きを止めた。例の事件の続報があるかもしれない。


”――続きまして、昨日の明け方、都内のビルで男性が倒れているとの通報があり、パトカーが駆けつけました……”


 見たかったニュースではなかったが、彰はリモコンを手にしたまま画面を見つめ続けた。テレビ画面では、男性キャスターが無表情で原稿を読み上げている。


”警官が到着した時、男性にはすでに意識がなく、その後病院で死亡が確認されたとのことです。男性の身元は、現場であるビルのテナントのモデル事務所に勤める樋山秀晴さん、四十二歳、とのことです。また、死因は頭部への打撲と見られ、現在、事故と事件、両面で捜査が進められています……”


 画面には、ありふれたテナント・ビルが映し出されている。キャバクラに挟まれた細長いビルの入り口に、カメラが向けられている。一瞬。ほんの一瞬だが、警察の張り巡らした立入禁止のテープ越しに、入り口奥の階段をカメラが捉え、そのコンクリートの床に広がる赤黒い染みを映し出した。彰がはっとして画面を見直した時には、すでにシーンは切り替わっていた。


”……また、このモデル事務所では先週も所属しているモデルの女性が事故死しており、警察が関連を調べています。事故で亡くなった女性は、今回死亡した樋山さんと仕事上の関係があったということです……”


 聞いているうちに、徐々に腕の毛が逆立っていく感覚を、彰は覚えた。ぞくりとする、どころではなく、全身がゆっくりと凍りつきつつある。モデル事務所―― 先週の事故。モデルの女の死。


 彰は震える手でスマートフォンを取ると、今し方聞いた事件についての詳細を調べた。モデル事務所での相次ぐ不審死、という事件の性質故だろう。ネット上には、すでにそれについての多くの情報が流れていた。その中には無論、モデル事務所の名前も含まれていた。


 それは、ミサが所属する事務所だった。亡くなったモデルは、最上由香というらしい。


 ――由香。


 以前、何気なく交わした会話の内容を、必死で思い起こす。確か、由香という名の仲間のモデルが怪我をした、ということだった。死んだ、などとは聞いていない。


”うちの事務所で一番人気のある子でさ。その子が突然、骨折したっていうもんだから――”


 一番人気のモデルが、死亡した。その翌週、ミサがオーディションに合格した。

 そんな―― まさか。


 どくん、どくん、と心臓が嫌な音を響かせている。いつの間にか口の中が乾き切り、舌が異物のように膨らんでいた。唾液を何度も飲み下し、それでも足りずに台所に行こうと立ち上がる。ふと、時計を見ると、もうすぐ出勤時間だった。


 出掛けなければ。

 無理矢理、自分を動かして、彰は洗面所へと向かった。

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