天森コーポ 入居者ファイル

戸成よう子

俺には向かない仕事

202号室の入居者

 天森あまもりコーポの101号室には、いつも昭和ポップスが流れている。


 数年前に改築されたばかりの小奇麗なアパートで、壁もその時に厚く造り変えてある。お陰で、夜の夜中でもない限り、普通の音量で音楽を聴いたくらいでは住人から苦情などは来ない。もっとも、この部屋に怒鳴り込んでくる肝の据わった住人などいないだろうけど。


 とにかく、隣人の耳など気にせず、東雲アイカはのんびりと音楽に聴き入っていた。ちなみに、今、オーディオから流れているのは中森明菜の 『ミ・アモーレ』 だ。


 昼間は大抵、照明を点けないので、部屋の中は薄暗い。窓辺に陽だまりができているが、光はそこで堰き止められている。アイカが腰掛ける椅子と、書類の置かれたテーブルの周りには、心地いい薄暗がりが漂っている。


 ショート・パンツから伸びる剥き出しの足を組みながら、アイカは書類を一枚、指先で挟んで眺めていた。そうしながら、空いたほうの手で昆布茶の入った湯飲みを取り上げる。今日はまだ、アルコールは一滴も飲んでいない。

 湯飲みを置くと、その手でウエーブのかかった髪を掻き上げつつ、呟いた。「河東修吾。二七歳、か」


 不動産屋から送られてきた入居申込書だ。目を通して、数日以内には返事をしなければならない。


 ざっと読んだところ、内容に特に問題はなかった。独身の地方出身者。これまでは日銭を稼ぐ仕事をしていたが、最近、ようやく定職に就いたらしい。その新しい仕事について記された欄に、アイカは視線を注いでいた。


 そこには、清掃会社・クリーン大光とあった。


 気づくと、ふん、と鼻息を漏らしていた。「清掃会社、ねえ」

 そして、書類をテーブルに戻すと、両手を頭の後ろへやり、組んだ足をぶらぶらさせた。曲は葛城ユキの『ボヘミアン』に変わっている。


 どうしたものか。


 しばらく、そう思いあぐねるように爪先を動かしたのち、アイカは溜め息をつくと、両手をほどいた。そして、テーブルの上の携帯電話を引き寄せると、不動産屋の番号を呼び出した。


  ◇


 引っ越し当日、河東は仏頂面でそのアパートを見上げた。


 駅から徒歩十分ほどの、入り組んだ住宅地の奥にその建物はあった。ブロック塀に囲まれた八十坪ほどの敷地に、二階建ての洋式アパートが建っている。いわゆる木造アパートとは違い、やけにどっしりとした造りの建物だ。建物と塀の間は、庭というほどではないが隙間があり、そこに濃緑の葉をつけた庭木が並んでいる。サッシ窓にはベランダが取り付けられているが、あまり広さはないらしい。独身者向けのアパートらしいから、洗濯物を干すスペースはさほど必要ないということなのだろう。日曜の午前中なので、部屋にいる住人が多いのか窓が幾つか開いている。南向きなので、わざわざ明かりを点けている部屋は少なかった。


 不動産屋によると、かなり古い建物らしいが、三年ほど前に改築工事をしたそうだ。その際に、今風のお洒落な見た目のアパートにしたのだという。言われてみれば、確かにその辺のボロアパートとは違う。壁は真っ白だし、屋根もなんだか洋風で、てっぺんに風見鶏でもついていれば似合いそうだ。


 そう考えた時、ふっと、こんなところを選ぶんじゃなかった、という後悔が心をよぎった。だが、引っ越し先をここに決めた理由を思い出すと、すぐにそれは搔き消えた。


 このアパートを選んだ理由。それは、家賃が安いからだ。


 安いというより、破格と言っていいだろう。


 なぜこんなに安いのか、と尋ねると、不動産屋は首を振ってこう言った。それが、わからないんですよ、と。


 建物の外見はもちろん、内装も奇麗だし、設備も整っている。騒音も故障もないし、鼠が出るといったこともない。事故物件というわけでもなく、それらしい噂は耳にしたことがない。特に問題はないはずなのに、なぜこんなに安いのか、まったく見当もつかない。そういう話だった。


 それを思い出し、河東は心の中で肩をすくめた。理由なんかどうだっていい。安けりゃ何でもいいのだ。それがたとえ、ろくでもない理由でも。

 そういえば、不動産屋はこうも言っていた。――一つだけ、思い当たることがありまして。何でも、ここの管理人が相当うるさい人らしいんです。


 うるさいって、どううるさいんだ、と尋ねたが、詳しいことはわからない、という返事だった。ただ、入居して早々、逃げるようにここを出て行った者たちの何人かが、そう漏らしていたのだという。


 おかしな話だと思ったが、河東はそのことをさほど気にかけなかった。アパートなど、寝るだけの場所だ。朝起きて、仕事に出かけ、泥のように疲れて帰ってきて体を横たえる。ただそれだけの場所。


 これまで住んできた部屋では、管理人になど会ったこともなかった。どの部屋も、ドブネズミの棲み処かと思うくらい酷いところで、管理人などいないも同然だったのかもしれないが。とにかく、自分が誰かの手を焼かせることなどあるまい、と思った。


 引っ越し作業は、あっという間に終わった。家具などほとんどないも同然で、唯一のかさばる荷物は布団だけ、というありさまだったからだ。箪笥もテーブルもテレビも、必要ならどこかで中古品を見繕えばいい、という考えだ。つくづく、俺って身軽だな、と思う。


 部屋番号は、202。――燦々と陽光が射し込む、壁に汚れ一つない部屋を見渡すと、このところずっと浮かなかった気分が、少し晴れた。ともあれ、ようやくドブネズミの棲み処から抜け出すことができた。それだけは、本当にありがたいと思う。


 引っ越しの理由は、新しい勤め先にそうしろと言われたからだ。面倒だが、会社としてはこちらが職場の近くに住んでいたほうが安心なのだろう、と考えた。代わりに引っ越し費用を幾らか負担してやる、と言われ、決断した。それがまさか、自分に似つかわしくない、こんな小奇麗な部屋に住むことになろうとは、想像もしなかったが。


 窓を開けて空気を入れ替えながら、さて、と辺りを見回した。日曜の昼間だというのに、建物内はしんと静まり返っている。耳慣れない、キーンという音が聞こえそうなほどの静寂。耳を澄ましたが、聞こえてくるのは表を走る車の音だけだ。これまで、ベニヤみたいに薄い壁で遮られただけの部屋に住んできた身としては、驚きだった。


 首を振りつつ、水回りの点検でもしようと台所へ行くと、新品のようにピカピカのシンクの横に、書類らしきものが置かれていた。


 何だ、と手に取ってみる。


 それは、クリップボードにとめたA4サイズの紙だった。ボールペンで書いたらしい手書きの文字が、その上に並んでいる。文字は次のように読み取れた。


”新規入居者様へ”


 俺のことか。眉をしかめて、視線を走らせると、その下にこうあった。”皆様が気持ちよく過ごせるよう、以下に気をつけてお過ごしくださるよう、お願い申し上げます。”

 そして、そのさらに下に、箇条書きで文字が並んでいた。


1.夜中に騒音を立てないこと

2.水道管を詰まらせないこと

3.廊下・玄関ホールにゴミを捨てないこと

4.廊下で歩き煙草を吸わないこと

5.大人数でのパーティなどを行わないこと

6.異臭を立てないこと

7.裸で窓際に立たないこと

8.虫を飼わないこと


 なんだこりゃ。

 思わず、喉の奥でそう呟きながら、河東はその紙を眺めた。途中まではごくありきたりな注意書きに思えるが、大人数のパーティあたりからおかしくなってくる。裸で窓際に立つ? それに、虫を飼うな、だと?

 と、その時、ずらりと並んだ禁止事項の最後に視線が吸い寄せられた。


9.犯罪行為を行わないこと


 はあ? 一体何なんだ。再び、口の中で呟いた。

 犯罪行為を行うな、だって? なぜ、当たり前のことをわざわざ書いたんだ? しかも、その行だけ、なぜか赤ペンでアンダーラインが引かれていた。

 その意味を解き明かそうとするように、河東は数分間、身じろぎもせずクリップボードの上の紙を睨んでいた。

 ただの注意書きにしては、妙だ。内容もおかしいし、手書きという点も気持ちが悪い。書き手の怨念のようなものを感じる。違反などしたらただではおかないぞ、と言われているようだ。


 わけがわからねえ。――河東はやがて、首を振った。


 賃貸契約の禁止事項なら、すでに目を通している。不動産屋で貰った契約書に記載されていた、ペットを飼うなだの、又貸しをするなだのといった、よくあるあれだ。

 だが、これはそれとは違うもののようだ。おそらく、管理人が勝手に作って置いていったものに違いない。


「うるさいとは聞いてたけど、ここまでうるさいのかよ」自然に、そんな言葉が漏れた。


 とはいえ、世の中おかしな奴が多いから、管理人としても致し方ないのかもしれない。河東は無理矢理、そう考えてみた。過去に、度を越したパーティ好きがいたのかもしれないし、露出狂が住んでいたこともあるのかもしれない。虫の件はよくわからないが、ゴキブリなどを飼いたがる奴がいれば、近隣から苦情が出るだろう。


 気になるのは赤線の引かれた部分だが、これも何か理由があるのだろうか。


 そう考えながら、片づけを終え、コンビニで夕食でも買おうと外へ出た。ちょうど、隣の201号室のドアが開き、住人が姿を見せたところだった。


 河東はちらっとそちらを見て、頭を下げた。赤いワンピースを着た、女だった。


「あら、どうも」相手はそう言うと、小首を傾げるようにお辞儀をした。


 相手が声を発したので、河東はなんとなく足を止めた。

「新しく越してきた方?」

「はい。河東といいます。よろしくお願いします」


 女は歩きながら、にっこりとこちらに笑いかけた。


「江口です。こちらこそ、よろしくお願いします」


 服装も派手だが、化粧もかなり濃かった。ハイヒールの足音が近づいてくると、強い香水の香りがした。


「これも何かの縁だし、困ったことがあったら言ってくださいね」


 随分、愛想のいい女だ、と考えながら、河東は頭を下げた。

「はい。こっちも、騒音とかには気をつけますんで」

 江口がきょとんとしたので、河東は続けた。「注意書きに色々書かれてたんで、気をつけなきゃならないんだろう、と思って――」


「注意書き?」聞き返してから、ああ、と声をあげる。「そういえば、引っ越してきた時、うちにもそういうのが配られてた気がする。入居者様へ、ってやつでしょ?」


 そうだ、と河東は答えた。

「確かに色々書かれてたけど、あんまり気にする必要はないですよ。だって、普通に暮らしてれば、どのルールも破ることはないんだもの」

「まあ、そうですね」ついでに、こう尋ねた。「管理人さんって、かなりうるさいタイプなんですか?」


 江口は、うーん、と唸った。

「そうかもしれませんね。ちょっと変わった人なんですよ、ここの管理人さん」

「変わった?」

「そう。たぶん、ですけど―― 住人それぞれに、個別のルールを課してるようなんです」

 個別のルール? 河東は顔をしかめた。「えっ、どういうことですか?」

 江口は苦笑した。

「変ですよね。わたしも、妙だとは思うんだけど。普通に生活する分には何の支障もないから、そのうち気にならなくなりました」


 つまり、河東の部屋に置かれていた注意書きは、江口が受け取ったものとは内容が違う、ということか。なるほど、手書きだったのはそのせいか。


「一体どうして、そんなことを?」

「さあ、どうしてなんでしょう」

 江口は首を振った。「ま、気にしなくても大丈夫ですよ。ルールといっても、そんなに厳しくはないし。あまり関わらないようにして、おとなしく過ごしてれば、問題は起こらないと思います」


 アパートの玄関まで来ると、江口は再び笑顔で頭を下げた。「それじゃ」

 あ、どうも、とお辞儀を返し、顔を上げた時には、その姿はすでに夕闇の中に消えていた。

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