君と月夜はいつもいい

霧朽

月歌美人

 夜の静けさの中に、カチャリと鍵を閉める音が木霊する。凪いだ水面に石を投げ込むようなその音はすぐに夜に溶けて消えた。


 ヒイラギはいつものスニーカーのつま先で地を叩き、体を軽く伸ばした。深く呼吸をすると、夏の涼しげな空気が肺を満たした。


 静まり返った住宅街で少し足早に歩を進める。周囲に明かりの点いている家はなく、白のLED街灯だけが光を滲ませ、住宅街を照らしていた。


 二十分ほどして目的地である橋に着くと、カンカンッとカナブンが街灯にぶつかる音が鼓膜を揺らした。夜であるはずなのに、辺りは街灯の放つ青白い光に満たされている。しかし、その光を持ってしても見通せない、人など容易く飲み込んでしまいそうな深い暗闇が橋の下には広がっていた。


 この高さなら十分だろうなと心の中で呟く。


 ふと、彼は自身が立ち止まっていたことに気付いた。まるで光が実体を持ってのしかかっているかのように、足が重たい。薄ら寒さを抱く中、囁くような歌声が鼓膜を揺らした。


 声をした方向を見やれば、橋の中央で大学生ほどの少女が子猫を顔の前で抱えていた。月光のように降り注ぐ人工光の下、彼女は歌う。触れれば溶けてしまいそうな儚く優しげな音色。ヒイラギはその様子に息を飲んで見惚れた。


「……いただきます」やがて歌い終えた少女が小さく呟く。

「野生の子を吸うのはやめたほうがいいと思うよ」


 いつだったか、トキソプラズマの予防が呼びかけられていたのを思い出す。猫から人に感染し、脳を操る寄生虫だったか。大学時代、猫吸いは正義だろと友人が文句を垂れていた。


 少女が勢いよくヒイラギの方を振り向く。背負っていたリュックが半円を描き、黒のロングスカートがふわりと舞った。酷く動揺している様子で、傷んだみたいな、くすんだ赤色の瞳が揺れていた。


 家出か、あるいは……とそこで一度思考を区切る。いずれにせよ関わると面倒なことになりそうなのは変わらなかった。話しかけたことを少しだけ後悔し始めていた。


「余計なお世話だったらごめん、それじゃあ」


 少女に背を向け、足を踏み出そうとしたところでフラッシュバックしたのは、幼少期の小さく無謀な家出の記憶だった。彼はたっぷり数十秒悩んだ末に、少女との会話を続けることにした。


「あー。その……、どしたん話聞こか?」


 フッと少女が吹き出し、その拍子に子猫はどこかへと走り去ってしまう。慣れないことはするもんじゃないなとヒイラギは頬を掻いた。


「猫、行っちゃった。私の今日のご飯だったのに」


 言葉の真意を見通せず、口を噤んだままの彼に少女は続ける。


「食べ物の恨みは怖いよ?」


 ――ドンッと強い衝撃がヒイラギを襲った。背中を打った痛みでようやく自身が倒れたことを悟る。起き上がろうにも、覆い被さるようにして馬乗りになった少女が、その体躯からは想像できないほどの力で両腕を押さえつけていた。


「こんな夜中に出歩いちゃダメだよ、夜は危ないんだから」


 少女の髪の毛先が頬に触れるほど、彼女の顔はヒイラギに近づいていた。少女の吐息が耳を撫で、どっと背中から汗が滲む。心臓がうるさいほどに早鐘を打っていた。


「それに逃げられたはずなのに、吸血鬼って分かった後も話かけてくるアナタも悪いと私は思う」


 ……吸血鬼? とヒイラギは考えを巡らせて、吸うって猫じゃなくてそっちだと思ったのかと、二人の間で生じたすれ違いをどこか他人事のように得心していた。


「何か辛いことでもあった?」努めて平静を装って言った。

「続けるんだ。肝座ってるね」

「ありがとう。あと逃げないから立たせて欲しいな。地面がつめたくて」


 少女はヒイラギに逃げる気がないのを感じたのか、「しょうがないな」と彼から離れる。体を起こすと少女が手を差し出していた。その手を取って立ち上がり、体についた土を軽く払う。


「そういえば結局帰る家はあるの?」

「ないかな」

「……じゃあ、うち来る?」


 それが何でもないことのようにヒイラギは言った。ここで死ぬよりはという半ば自暴自棄的な発想だった。


「くすくす、私が吸血鬼ならアナタは狼男だね」


 少し面食らったような顔をしたあと、少女はそう言って笑った。




「ちょっと散らかってるのは容赦してほしい」


 ヒイラギは弁明するように言うと、少女をアパートの一室へと通した。机には空のペットボトルが何本も転がっていて、床には衣服が乱雑に脱ぎ捨てられていた。


 いそいそと片付けを始めつつ、彼は少女――自らをノクと名乗った。をソファに座らせた。彼女は物珍しいのか、キョロキョロと部屋の中を見回していた。


 肩口で切り揃えられた薄い黒髪が揺れ、銀のピアスが姿を覗かせる。黒で統一されたトラックジャケットとロングスカートという装いも相まって、つい先程まで恐怖の対象だった吸血鬼が、今はどこにでもいる普通の少女のように思えた。


「これからどうするの?」ヒイラギは脱ぎ捨てていたシャツを洗濯機に放り込みながら言った。

「うーん、ご飯かな」

「一応聞くんだけど、即席麺で良かったりする?」


 ペットボトルをすすぐため、脱衣所からキッチンへと場所を移す。何か入っていたかと冷蔵庫を漁ってみるが、飲みかけのお茶と薬、それと茹でたブロッコリーの余りがあるだけで目ぼしいものは見当たらなかった。


「普通の食事も食べられないことはないんだけどね。エネルギー効率が悪いんだ」

「それは……どのくらい?」

「人間の十分の一くらい」


 十分の一、とヒイラギが繰り返す。ペットボトルをすすいでいた手に水がかかり、夜の空気に晒されて冷えた体温が更に奪われる感覚があった。


「血だったら、どのくらいで一食分になるの?」


 聞いてから踏み込みすぎたかもしれないと後悔したが、ノクが気にする様子はなかった。


「一日に必要だって言われてるのが三〇mlだから、一〇mlくらいじゃないかな。吸血鬼はエネルギーを貯めておけるから、一回でたくさん吸って、しばらく吸わないってことが多いけど」

「君も?」

「アナタを殺すメリットもないし、今日のところは死なない程度にかな」

「次があるみたいな言い方で安心したよ」

「その言い方だと吸われたいみたいに聞こえるけど?」


 ノクはいつの間にか立ち上がり、彼の背後に立っていた。くすくすと笑う声のあと、鋭く尖った八重歯が揶揄うように首筋にあてがわれる。


「別に吸われたいわけじゃないけど……」


 少女が血を吸いやすいよう、いつでもいいよと彼の首が傾けられる。


「後戻りできないよ?」

「死ぬこと以外はかすり傷ってね」ヒイラギは震える手を寒さのせいにして言った。

「往生際が良いね。……でもアナタからは吸わないよ」

「へ」


 ヒイラギの口から間抜けな声が漏れた。


「どうしてって顔。見なくても分かるよ」


 突き立てられていた牙が首元から離れる。


「俺の血、不味そうだった?」

「ううん、宗教上の理由みたいなもの」

「菜食主義ってこと?」

「うん、人の血は吸わないことにしてるんだ」

「……ごめん」


 普通の食事も俺の血もダメとなると、逃がしてしまった子猫が少女の唯一の食事だったのだろう。知らなかったとは言え、悪いことをしたとヒイラギは目を伏せた。


「さっきも言ったけど、吸血鬼はエネルギーを貯めておけるから大丈夫。また明日探すことにするよ」

「こっちでも探してみる。たぶん、ネットで注文できるんじゃないかな」

「私お金ないけど」

「俺が払うよ。食事を邪魔したお詫び。それに……」

「それに?」

「食べ物の恨みは怖いらしいから」

「あはっ、確かにそうだ。……正直助かるな。ありがとう。元いたところは動物が多かったんだけど、ここはそうじゃなかったから」


 アパートの周辺は市の中心地から離れているものの、近頃は再開発が進み、自然と言える自然はなくなっていた。


「凝縮された森ことブロッコリーならあるんだけどね……」


 ブハッとノクが吹き出す。


「いや、ごめん……」


 笑いを必死に堪えているのだろう、彼女の声は震えていた。



 *



 慎重な手つきで、ゆっくりと針を落とす。ボリュームのつまみをひねり、この前時代的な機械が正常に作動することを確認したヒイラギはレジ横を後にした。わざわざ手間と時間をかけ、レコードを準備するこの時間を彼はそれほど嫌っていなかった。


 あくびを噛み殺しながら、店内の清掃を始める。例え吸血鬼に襲われようが、寝不足だろうが、それでもあるのがアルバイトというものだった。


 この古書店でアルバイトを始めたのは二年前の秋、就活の尽くに失敗した大学三年の頃だった。店内は今も昔も古い紙の匂いで満たされていて、レジ横のターンテーブルからはジムノペディが聞こえていた。


 店主は八十は近いかという老人で、それも「買い取りお願いします」と言うなり、本を売る理由を尋ねてくるような奇特な老人だった。


 査定を待つ間の暇つぶしだと思い、就活に失敗して金がないことを伝えると、老人はここで働かないかと言った。


「この年になると、値段をつけるのも一苦労でね。どうだい、金は出すよ」


 ものは試しと言うことで二、三日働いてみて分かったのは、とにかく暇ということだった。客が来ることは稀で、常連と呼べる客たちでも訪れるのは週に一度程度だった。


 老人から提示された額は決して多いわけではなかったが、レジに座り、店内の小説を読んでいるだけで貰える額としては十分すぎる報酬だった。ヒイラギは提案を受け入れることにし、以来この古書店で働き続けていた。


 三十分ほどしてヒイラギが清掃を終えても、店内では依然閑古鳥が鳴いていた。結局、この日初めての客が訪れたのは店を開けてから三時間後の正午を回った頃だった。


「いらっしゃいませー」


 自動ドアが開く音に合わせ、反射で言葉を投げつける。本来ならば顔を上げて客の姿を確認すべきところではあったが、読んでいた小説が山場に入っていたこともあり、ヒイラギは読書を続けることにした。


 しばらくして「会計お願いします」とカウンターに一冊の本が置かれた。見知った声だった。

 抱いた予感を確かめるように目を上げる。


「昼間でも起きてるものなんだ?」


 家を出る際にはすぅすぅと寝息を立てていたものだから、てっきり夕方まで起きないとばかり思っていたヒイラギは目を丸くした。創作上の吸血鬼とはいくらか乖離があるらしい。案外人間の社会も吸血鬼の社会も変わらないのかもしれなかった。


「夜の方が調子がいいのは確かだけどね。おはよう、ヒイラギさん」


 もうお昼だけどと吸血鬼の少女は笑った。


「そこ、座ってもいい?」


 向けられた指の先にはヒイラギの隣に置かれた空の椅子があった。


「生憎とバイト代は出ないよ?」

「立ち読み代くらいにはなるでしょ?」


 返事を待たず、ノクはヒイラギの隣に腰掛ける。手にはカウンターに置いてあった本が握られていた。実写映画化で話題になった、流行りの恋愛小説だった。


「居てくれていいって言ってくれてありがとうね」


 少しの間、本の表紙に指をかけては離してを繰り返したあと、ノクはそう切り出した。家を出る前、ヒイラギは部屋を好きに使っていいことや、ここでアルバイトがあることなどを記した書き置きを残していた。


「ああ、うん」

「すごい軽い反応」


 再び、二人の間に静寂が訪れる。レコードから流れる音楽だけが店内に響いていたが、やがてヒイラギは互いの距離を探るようにゆっくりと語りだした。


「昔、家出をしたことがあるんだ。きっかけはもう思い出せないんだけど」


 ヒイラギの視線が、読んでいた小説から棚に並んだ無数の本へと移される。


「家を飛び出した俺はまず、友達とよく遊んでいた公園に行った。友達に会えるかもっていう淡い期待もあったと思うし、習慣づいてたってのもあるんだろうね。けど公園には誰もいなかった」


 懐かしさを噛みしめるように言葉を紡ぐヒイラギを、ノクはじっと見つめた。


「次に向かったのは友達の家の前だった。公園から少し歩いて、友達の家の端が見えてきた頃、その子のお兄さんとばったり会ったんだ。その子の家では犬を飼ってて、ちょうど散歩から帰ってきたところに見えたな。俺がそのまま立ち去ろうとすると、お兄さんは『妹と遊んでいきなよ』って俺を家に入れてくれた。そのあとはひたすら友達と一緒にゲームしてたな。途中、キャラメルとアイスも出してくれて。……結局、友達のお母さんに連絡されて、母親に迎えに来られたんだけどね」

「だから、私を家に?」

「まあそんなとこ。あ、連絡はしてないよ。そもそも知らないしね」


 一通り語り終え、ヒイラギの視線が小説へと戻される。


「やっぱり変なの。……でも、ありがとう」


 そう呟くと、ノクはヒイラギの真似をするかのように、手に持っていた小説の一ページ目に指をかけた。

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