第9話 遅刻

 瑞希は毎朝、桐谷の部屋に現れる。

 幽霊のように、そっと。ドアを開く音も足音もしない。ただ、冷気を入れないよう毛布にくるまる桐谷に、容赦ない目覚ましを行う。

「おはよう桐谷くん」

「もう八時だよ」

「ほら、起きて。遅刻しちゃうよ」

 桐谷が起きない限り、その声は永遠に続く。まるで嫌がらせみたいに。「それじゃあ変われないよ」「殺人犯のままだよ」叩けば止まる分、目覚まし時計の方がまだ優しい、と桐谷は思う。


 支度をすませると、瑞希も一緒に大学についてくる。実体がないとはいえ、未来の技術のおかげなのか、その姿は完全に大学に溶け込んでいる。傍目から見れば、男女二人が仲良く登校しているようにしか見えないだろう。朝日を受けて、彼女の姿も白く輝く。

 それからの行動は、桐谷が受ける講義によって変わった。大講堂で受けるような講義には瑞希も参加し、少人数で行う講義にはふらりとどこかに消えた。大講堂では瑞希が隣合わせた人に声をかけ、その話に桐谷を参加させた。少人数の講義の前には、人に話しかけるコツを桐谷に伝授した。そのようにして、彼女は友だちを作らせようとしていたが——すべて失敗に終わった。


 * * *


「才能だよ」

 290円のカレーをすくいながら、桐谷は言った。

「僕には人と関わる才能がない。才能がない人がどうあがいてもプロ野球選手にはなれないのと同じように、僕に友だちができることはない」

「それは違う。才能がない人でも練習すれば、キャッチボールをしたりヒットを打てたりする。別に友だち百人つくろうってわけじゃないんだから」

「でも、両腕がない人だって、世界にはいるよ」

 その日、食堂は混んでいた。四人掛けのテーブルや、テニスコートが見えるカウンター席は満席で、十人以上座れる長テーブルしか空いていなかった。その席は知らない人間と隣合うことになるため、不人気だったが、こういう状況では仕方なかった。

 隣に座る瑞希は、静かに息をはいた。

「そうやって言い訳を考えて、自分を正当化するのは止めなよ。それは傷つかないための緩衝材になるのかもしれないけど、同時に逃げることも正当化することになる」

 彼女が桐谷を覗きこむように見る。そのまっすぐな瞳に、嘘がないことを桐谷は知っている。瑞希と過ごすようになって一週間ほど経ったが、彼女はいつも切実な瞳を桐谷に向けた。まるで、がけから落ちようとする、大事な人の手を握るように。彼女は切実で、真剣だった。


「分からないんだよ」

 だからこそ、桐谷は苦しかった。自分はどうしようもなくて、無価値な存在なのだと思った。

「ずっと一人だったから。なにも聞こうとも、話そうともしなかったから。もうどっちも壊れてるんだ。相手が言っていることも、言葉としては理解できるけど、どんな返答を期待しているのかまったく分からない。分かったとしても、空っぽな自分には何も話すことがない。それで、会話が終わる。嫌われたんだろうなということだけは分かる」

 桐谷は瑞希から目を逸らした。逸らした先にあったのは、カレー皿に置かれたステンレス製のスプーンだった。銀色の鏡面に映る自分の姿は、醜く歪んでいた。

「確かに才能なんてのは、言い訳なのかもしれない。でもそうする他にないんだ。目を逸らし続けて生きてきた自分の責任だって知っても、なにも変わらないから。分からないままだから」

 もしかしたら変れるのかもしれない。

 瑞希と出会って、少しだけ、自分に期待した。入学当初のように——

 でも瑞希と会っただけで、自分が生まれ変わったわけでも、殻をやぶって成長したわけでもなかった。自分は自分のままだった。いじめられてから、心を閉ざし続けたまま、ただ傷つかないために息を殺すだけ。何もしなかった。何もしてこなかった。


 変れるわけがなかったのだ。

 桐谷はただ、過去を思い返し後悔した。そして三春千夏のことを思いだした。唯一の暖かい記憶に、すがるように触れたが、結局その暖かさにも後悔は含まれていた。むしろ後悔の量で言えば、その時期の方が大きかった。

「ねえ、桐谷くん」瑞希は小さな声で言った。「どんなことでも、きっと、変われないことはないよ」

 その声は、すぐ食堂のざわめきにかき消された。テーブルの端に座る桐谷の横からは、通路を歩く足音が巨大な雨音のように聞こえた。

 ただ二人の間には、重い沈黙があった。どちらも話を切り出そうとはしなかった。これ以上なにを話していいのかも分からなかった。数分の間、二人は動かないまま、活発に動く大学生の音を、話し声を聞いていた。


 久米正希くるめまさきに出会ったのは、そんな気の詰まる昼休みだった。

 

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